6-6
いつまでも続くかと思われた、チヨと淳のハネムーンに小さな変化が訪れたのは、いわし雲が空にたなびく、ある美しい秋の日。帰宅した淳を、こわばった顔のチヨが出迎えた。
「どないした、具合悪いんか」
淳の問いかけにゆっくりと首を振り、チヨはもじもじと落ち着かない。いつもはズバズバと物を言うチヨが、言い淀むのは珍しいことなので、とりあえず淳はチヨの隣に座った。小さなカウチは二人座ればあまり余裕がなく、体温が伝わって安心したのか、ようやくチヨは話し始めた。
「あのさ」
「うん」
「……赤ちゃんが、できたみたい」
口を「お」の形にして、淳が2秒ほど固まった。やがて弾かれたように立ち上がり、素っ頓狂な声を出した。
「ほ、ほ、ほんまか!」
「うん、検査薬だけど。2回やってどっちも陽性だったから、間違いないと思う」
「うわぁああ! わぁああああ」
淳が奇声を上げながら、カウチの周りをぐるぐると回り出した。
「ちょっと、ちゃんと聞いてよ」
「違う、嬉しい! めっちゃ嬉しい!」
淳はクッションを抱きしめて、もう一度「うわぁぁあ」と叫ぶと、今度はクッションを投げ捨ててチヨを抱きしめた。
「嬉しい、チヨ、俺たちの子どもや、嬉しい!」
心の底から淳が喜んでいる様子を見て、ようやくチヨの緊張がほぐれた。同時に、半年ほど前のことを思い出す。淳がようやく定期的な仕事を得て、生活が安定してきた頃だった。
「もう、使わんでええんちゃうかな」
いつものように抱き合っている最中、淳がコンドームの入っているベッドサイドの引き出しに手を伸ばして止めた。
チヨが黙って目を閉じ、それが暗黙の了解になった。若い二人が避妊しなければ、いつ子供ができても不思議ではない。10代の頃の予期せぬ妊娠と比べると、手放しで歓迎していい慶事であるし、チヨも淳との子どもなら欲しいと願っていた。
それなのに、何だろう、この漠然とした不安は。喜々として実家に妊娠の報告をしている夫の背中を見ながら、自分だけが冷めているこの状況に、チヨは理由のわからない違和感を感じていた。
「しかし、よく今まで気づかなかったね。つわりとかなかったの」
知らせを聞いてすっ飛んできたのは、チヨの親友である千夏子だ。妊婦にカフェインはいけないからと、体の温まるハーブティーを買ってきてくれた。やさしい香りとともに、彼女の思いやりが浸みこんでいく。小学校からの付き合いなので言いたい放題だが、実は誰よりチヨを甘やかす名人である。
「ここしばらく、胃の調子が悪いな~、トイレが近いな~とは思ってたけど」
昨日産婦人科を受診して、チヨは現在妊娠9週目であろうとの診断だった。予定日は来年の5月下旬である。妊婦の約30%に見られる妊娠初期の不正出血があったため、生理と勘違いして気づくのが遅れたが、エコーには胎嚢や胎芽がはっきりと映しだされており、あと1カ月ちょっとすれば少しずつお腹もふっくらしてくるそうだ。
「マタニティブルーってやつじゃない?」
チヨから「嬉しいけど違和感がある」と打ち明けられ、千夏子が妊婦特有の情緒不安定を疑う。しかし、チヨはゆっくりと首を振った。
「私がそういう繊細なタイプだと思う?」
「確かに、あんたの神経は太くて本数が足りないけどさ、ホルモンの関係で起こるものだから、可能性はあるんじゃない。それとも――」
ずけずけとチヨの神経を弄った千夏子が、ふと真顔になりチヨを見つめた。この友人がこういう顔をしたときは、間違いなく鋭い切り込みが入ってくる。
「あんた、昔のこと、思い出してるんでしょ」
千夏子の指摘が、容赦なく急所に突き刺さった。10年も前のことで何を今さら不安になるのか。医師にも以前の流産の経験が、その後の流産の原因になるわけではないと言われている。しかし不安の本質がそこにないことにチヨ自身うっすらと気づいていた。そして千夏子は、それさえもお見通しだったようだ。
「流産したこと自体じゃなくて、それにまつわる色々なこと思い出して、当時の不安が蘇ってるんじゃない? でも、あの時は普通じゃなかったのよ、チヨの家も、森脇さんのことも。あの時と今はぜんぜん違うでしょ」
そう言われて、10年前の痛みが嵐のように蘇る。ギリギリの精神状態の中で流産したことは、チヨにとって人生最悪の出来事だった。そして新たな命を授かったことで、当時の不安が再びフラッシュバックしてしまったのである。
「もう、過ぎたことでしょ。今のチヨには、あんたのためなら世界を敵に回しても闘ってくれるパートナーがいるじゃない。もう、ひとりじゃないのよ」
チヨは淳の顔を思い浮かべた。妊娠がわかって以来、淳はすっかり心配性になってしまい、チヨが仕事に行くだけでも気が気ではないようだ。早速、プレパパ向けのマタニティセミナーに予約を入れ、本気で育児に取り組む意気込みを見せている。そうだ、ひとりではない。共に歩む伴侶がいるのだ。
「ありがと、千夏子。自分じゃ忘れたつもりでも、きっかけがあると思い出しちゃうのかもね。でも、話してみてよかった。原因がわかったら、すごく楽になった」
「みんなあるんじゃない、そういうの。増してや妊娠中だもの、気持ちが揺れるのは仕方がないよ」
「ということは、やっぱりマタニティーブルーか」
ははは、と笑ったチヨの額に、千夏子のデコピンが飛んできた。「私だっているんだからね」と言われ、もう一度ははははと笑いながら、チヨは痛いのか嬉しいのかわからない涙をごまかした。
千夏子と話をして肩の力が抜けたチヨに、さらなる応援団がやってきた。車輪付きショッピングバッグにみかんや柿をいっぱい詰めた、チヨの母である。普段は親戚の介護に追い回されているが、娘の初産ということで、きっぱりと用事を断り千葉までやってきた。
いつもは押し切られるばかりの彼女にとって、自分の意思を通すのは珍しいことである。それほど彼女にとって、娘が母親になることは、人生の一大イベントなのである。つい数か月前に、妹の真美にも第一子が生まれており、その時にも八面六臂の活躍だったと聞いている。思春期に手放してしまった娘たちだけに、せめて母らしいことをしてやりたいという親心なのだろう。
「産院は決まったの? 今どきは予約が取れないっていうでしょ」
お母さんが「うなぎの骨せんべい」をポキポキと折りながらチヨの前の皿に放り込む。妊婦にはカルシウムが必要だからだそうで、さらにはミネラル摂取のためのひじきや、貧血防止に効果のある鉄たまごなども持ってきてくれた。お陰でチヨはヘルシーな妊婦生活が送れそうだ。
「なんとか予約は取れたよ、市内の総合病院を紹介してもらった。そこだと無痛分娩ができるの」
「えっ、無痛分娩、赤ちゃんに影響はないの」
「そんな怖いものじゃないわよ。先進国じゃ日本ぐらいじゃないの、無痛分娩が一般的でない国。痛みを我慢することで母と子の絆が強まるって言うけど、だったら父と子の絆はどうなるの、って話だよ」
合理性を第一に考えるチヨにとって、出産後の仕事復帰はとても重要な懸案事項であった。折しも、ようやく映像翻訳の仕事がコンスタントに入り始めている時期である。出産と言えども、長期でオファーを断り続けるのは将来のキャリアを摘み取ることになりかねない。
昔の人なら、結婚すれば女性は家庭に入るのが幸せだったのだろうが、子どもの頃から競争社会に身を置くチヨたちの世代には、仕事も育児もどちらも大事だ。それは淳も同じ考えで、チヨがこれまで積み重ねてきた努力を知っているだけに、それらが結婚や出産で無に帰すのは納得がいかなかった。
チヨと淳は、日々大きくなるお腹を撫でまわしながら、二人の今後についてディスカッションを重ねた。責任を押し付け合うのではなく、よりハッピーな未来のあり方についての、認識のすり合わせである。「みんなこうしているから」ではなく、彼らはオリジナルな生活設計を目指している。その結果、淳は職場に男性としては前例のない「育児のための時短」を申し出ることになった。
「えっ、時短? 奥さん在宅勤務なのに?」
「そうです。在宅だろうが通勤だろうが、集中しないと仕事になりませんから」
淳は仕事先の「Sequence」では、今までフリーランスの業務委託であったが、春から契約社員として働くことになった。その話し合いの際、出産後の育児のための時短を交渉したのだが、担当者が判断しきれずいったん稟議を待つことになった。
要望としては、定時なら10時からの出勤時間を、昼休み終了後の午後1時からにして欲しいというもので、スタジオでの撮影は8割が午後からのスケジュールであるため、それほどパフォーマンスが下がるものではない。結果、先輩たちの応援もあり、この案は無事に許可された。子どもが1歳になるまでの期限付きではあるが、この条件は淳とチヨにとって非常にありがたかった。
もちろん、生活も赤ん坊に合わせて大きく変化する。平日のプランは、夫婦ともども活動開始は朝6時。正午まで淳は育児をしながら洗濯と掃除、昼食の準備を済ませ、その間チヨは集中して机に向かう。実務6時間だが、ぶっ通しなのでほぼフルタイムに近い仕事ができる。そして午後は育児を交代。これなら終了時間の読めない淳もラストまで仕事に没頭できる。もちろん早く帰れば育児も家事も二人で折半だ。
一歳を過ぎた後は、また保育園などの問題も出てくるだろうが、取りあえずこれで走り出す。仕事はそれぞれの裁量で自由にやるが、育児に関しては夫婦で協力体制を徹底したい。それが二人の結論だった。




