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呼び出しのことを淳に伝えると、思った通り頭から湯気を出して怒り狂った。
「そんな会社はやめたれ、こっちから願い下げじゃ!」
そうは言っても、ここで辞めたら相手の思うツボのようで悔しいし、何より今は淳が無職なので、給与所得や保険、厚生年金などを手放すのがきつかった。それは淳も気づいたようで、「勝手なこと言うてすまん」と謝り、また部屋にこもってしまった。現在彼が全力を注ぎこんでいる自主制作の脚本に、またどぎついパンチが加わるはずだ。
一方、怒髪天の淳に対し、当の本人のチヨはそれほどエキサイトしていなかった。ただ、非常に落胆していた。アルバイト時代には良い職場だと思っていたホテルが、いざ就職してみれば中身は旧態依然の縦割り制度で、女性や若い社員の権利はないに等しい。
だからこそ、まさか新人のチヨが歯向かってくるとは思わず、彼らは足元をすくわれたのだ。きっと今ごろはどうやって辞めさせようかと考えているはずだが、一筋縄ではいかないことを思い知らせてやる。どっちみちこの先、長く勤めるつもりはないが、立つ鳥跡を濁しまくってやる覚悟であった。
淳の脚本が出来上がったのは、それから約1カ月後。師走に入った頃であった。40分ほどのショートムービーで、ストーリーが3部に分かれている。
第一部は「ザ・レイプマン」。女性が事件を公にできない弱みを突き、凌辱を楽しむ変態野郎が主人公で、もちろんモデルは例のジュニアである。そして第二部は「ザ・ハラスメント」。部下や後輩を立場で押さえつけることでしか、自己の優位性を確認できない阿呆野郎が主人公で、こちらは当然、緒方がモデルだ。
どちらも観客にはただの登場人物だが、本人や知人が見れば個人を特定できる。そうなると、当然モデルにされた本人たちは腹を立てるだろう。しかし、もし裁判を起こすことになれば、登場人物は自分のことだと認めることにもなる。奴らはバカだが肝っ玉が小さいので、まず訴える根性はないと踏んでいる。
「そして本題は、第三部に集約されてます」
居酒屋の個室を貸し切りにした制作会議、第二回。撮影メンバーの前で、淳はやや緊張しながら脚本のプレゼンを行った。第三部はレイプ男とパワハラ男のダブルキャスト、彼らが人々に罪を攻めたてられるシーンからスタートする。
――あれ? おかしいな、僕たちだけが悪者なのかな?
――違うよね、君たちだって加害者だよね?
性被害を訴える女性が受けるセカンドレイプ、ハラスメントと闘う人間が受ける圧力。周囲は彼らに手を差し伸べるのではなく、排除しようとする。その環境こそが自分たちを野放しにする温床なのだと、二人の悪漢たちがせせら笑う。多くの人間が意識せず加担している社会の暴力。第一部、第二部では心情的に加害者を責める立場だった観客が、今度は「お前も同じ穴の狢だ」と糾弾されるのだ。
この重く後味の悪いプロットを、淳はコメディに仕立てた。きっと、とんでもなく奇天烈で毒々しい作品に仕上がるだろう。実はこの数日前、チヨは身をもってその「無意識な社会の暴力」を経験していた。それは、昼休みのロッカールームで起こった。
「瀬川さん、マネージャーが昼イチで第二応接室に来てくださいって」
営業部の女性社員がチヨに声をかけた。とうとう来たか。内容は間違いなく退職の勧告だ。もっともらしい理由をつけて追い出すつもりだろう。うんざりしながらロッカールームを出ようとしたチヨに、さっきの女性社員が声をかけた。周りにはいつの間にか他の部署の社員も集まっている。
「瀬川さん、お願いがあるんだけど」
「なんでしょう」
女子高なら締められる場面であるが、さすがに会社でそれはないだろう。しかし、あまり愉快な相談ではなさそうだ。チヨを取り囲んだ者の中で、リーダー格と思われる総務部の女性が話を切り出した。
「瀬川さん、正義感が強いのはわかるけど、上に逆らわないで欲しいの。私たちまで目をつけられると困るんだ。波風立てずにやっていきたいから」
なるほど、そういう事か。しかし、チヨが会社とトラブっていることは、誰にも漏らしたことはないはずだ。
「私が上に逆らったってこと、みんなが知ってるのが驚きなんだけど」
そう言ってチヨが周囲を見回すと、端っこにいた木下さんが顔を伏せた。情報の出所は彼女だ。チヨはそのまま続けた。
「何か具体的に、迷惑がかかるようなことがありました?」
「……そういうところだよね」
そうだよね、やっぱりねと、周りで同調の声が囁かれる。何が「そういうところ」なのか全くわからないので、チヨは直球で質問した。
「そういうところって?」
それをきっかけに、チヨを囲んでいた社員たちが口々に不満を吐き出した。
「緒方さんやマネージャーには、私たちも嫌なこと言われたり、納得できないことあるけど、職場の空気を壊さないように我慢してるの」
「それなのに、瀬川さんがいちいち反発するから、私たちまで風当りが強くなって困ってる」
「目立つのがいけないんだと思う。社内報に載ったり、新人なのに先輩を差し置いて頑張りすぎなんじゃないのかな」
チヨは眩暈を感じた。旧態依然は会社の上層部だけでなく、社員にも浸透しているのだ。その中でチヨは異端者であり、彼らの輪を乱すものと認識されている。いよいよ労働意欲が削がれた。このまま会社に貢献して、いったい何が得られるというのだろう。
「皆さんのおっしゃりたいことは、わかりました。でも、私には理解できません」
そう言ってチヨはロッカールームを出て、応接室に向かった。頭も心もカラカラに枯れたような気がして、笑えるほどに冷静だった。スマホの録音アプリを立ち上げると、チヨはすりガラスのドアをあけた。もうこの先どうするべきかは決まっている。
「そういう訳で、瀬川さんにはやはり退職をお願いしたい、というのが社の意向です」
録音されていた罵詈雑言に関しては、緒方が「自分が言ったものではない」と否認しているそうだ。名前も録音されているのに、呆れたものである。さらに、厳しい指導をしていたのは認めるが、その原因を作ったのはチヨだそうで、それに関しては会社も同意見だとの事だった。
他の従業員と比べて会社の方針への親和性が低く、指導しにくいため叱責が強くなるのだとマネージャーは結論付けた。要するに、黒いカラスを白と言わないことがいけないということだ。チヨが得た売り上げや功績には全く触れないのが可笑しくて仕方なかったが、無表情を貼り付けたまま淡々と攻勢に転じることにした。
「そうですか、では、解雇してください」
「えっ」
まさかそう来るとは思わなかったようだ。誰が大人しく自主退職などしてやるものか。解雇者を出すことは会社にとってリスクが高い。よほど業務に支障があったり、犯罪を犯さない限りは、助成金の支給に障りがあるため企業は社員を解雇したがらないのだ。
「解雇になれば、今後の就職にデメリットが出るかもしれませんよ」
「構いません。私、緒方さんにさんざん個人情報を晒されたので、皆さんもご存じだと思いますけど、夫が無職です。自己都合退社だと失業保険が下りるまで3カ月かかるので、生活資金が足りなくなるんです」
今日はマネージャーの他に、人事部長とチヨの所属する管理課のおじいちゃん部長も臨席していて、チヨの返答に複雑な表情をしている。まさか解雇を希望するとは思わず、戸惑っているのだろう。チヨはなおもホテル側の痛いところを攻め続けた。
「それに私、年末年始に宴会のお客さまを4件持っていますし……。この時期に自己都合退職するのって、無責任すぎません?」
チヨはレセプションにいた頃、リピート客に気に入られて宴会予約をいくつも取っていた。実務は営業部に引き渡しているにせよ、顧客にとってチヨはホテルの窓口である。しかも全て新規の企業だったので、会社にとっては絶対に悪印象を与えたくない客である。もし、チヨを追い出す形で辞めさせたとなれば、おかしな噂が耳に入らないとも限らない。
唸り声が聞こえそうな面々の前で、チヨはにっこりと三日月のスマイルを浮かべ、慇懃無礼な口調で「そこで、ご提案なんですけど」と切り込んだ。その要求に会社側が陥落するまで、わずか10分。最後まで悪役に徹した女の顔は清々しかった。
「淳、制作資金を稼いできたわよ!」
ロングブーツのジッパーを下ろすのももどかしく、ドカドカと足音をさせてチヨが玄関から駆け込んできた。例のごとく部屋に閉じこもっていた淳は、聞き間違いではなかろうかと、慌てて天岩戸から顔を出した。
まさに彼は今、制作費の件で万事休すの状態だったのだ。無職の学生で一文無しに近い。さらに妻から学費を借金している。ボランティアで参加してくれるスタッフがいるものの、どうやっても100万円近くは費用が発生する計算になるため、撮影を延期しようかとさえ思っていたところだ。
「制作資金って、どこから持ってきたんや。まさか」
「やだ、変なお金じゃないよ。私のボーナスと退職金」
チヨは円満に自主退職をする条件として、間もなく支給されるボーナスの査定に、新規顧客4件の宴会分を乗せるよう要求した。これは現在、営業部の功績に算入されているが、本来は契約を取り付けたチヨに権利がある。そして、会社都合の退社を自己都合にする埋め合わせとして、当面の生活費を退職金に上乗せするよう交渉した。
マネージャーは「社内規定に反する」と渋ったが、そもそも退職金は会社の自由に設定できるものだし、オジサンたちの早期志願退職やリストラでは増額されるのが常である。一歩も譲らない姿勢のチヨを見て、交渉内容を社内稟議に通すことになった。たぶん稟議は下りるだろう。彼らは代替案を持っていない。
さらにほとんど使っていない有給休暇の買い取りを加え、総計およそ93万円。勤務は年末20日までで、最も忙しいときに辞めることになるが、辞めてくれと言った手前、後は彼らが何とかするべきだ。
「そのお金で、映画を撮って。すごい作品を撮って、世間をあっと言わせてみてよ」
目をきらきらとさせて語るチヨを、淳は思わず抱きしめた。そして外の空気で冷たくなった耳元に、彼にとってはこれ以上ない愛の言葉を囁いた。
「俺の奥さん、最強やわ」




