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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;5 回る、回る、運命の歯車
60/77

5-12



 「警察」という言葉に、一瞬その場が凍り付く。しばらくして木下さんが泣きそうな顔で緒方に縋りついた。



「緒方さん、私、困ります」



 やはり無理強いされているようだ。緒方もチヨがここまで反撃するとは思わなかったようで、焦りの色が表情に浮かんでいる。



「け、警察が来たら、取り調べがあるぞ。指紋を取られて一生データベースに残るんだぞ!」


「構いませんよ、後にも先にも犯罪に手を染めることはありませんし。それより、指紋を取られるのは私だけじゃなくて、ここにいる全員ですよ」


「えっ、俺の指紋は関係ないだろ、お前のだけ照合すれば十分だろ!」


「残念でした、関係者全員の指紋が取られます。ちなみに、ビニールで包んでここへ持ってきたので、封筒に私の指紋はありませんよ。調べればはっきりします。全員の指紋を取ったら、きっとその中から封筒についてる真犯人の指紋が出るでしょうね。もちろん、私のロッカーやマスターキーにも同じ指紋がついてるはず」



 警察ドラマで見た内容の受け売りだったが、効果は絶大だった。緒方はいきなり封筒をつかみ、乱暴にビニールを破って中身を取り出した。そして木下さんに突き出し、強引に受け取らせた。



「とりあえず、こうして金も出てきたんだし、もうこの件は終わりだ。警察なんて呼んだら業務に支障が出るだろ。瀬川さんも、もういいから帰って」



 その瞬間、チヨの頭の中でパリーンとガラスの割れる音がした。



「ちょっと待ってください、謝罪が必要でしょう。あなた、私を泥棒呼ばわりしたんですよ。だから警察呼んでハッキリさせようって言ったのに、勝手に有耶無耶にして、もう帰れはないでしょう。不愉快です!」



 チヨが厳しい声を出したので、フロア内にいた社員が全員こっちを振りむいた。さっきから彼らが聞き耳を立てていたのは知っている。しかし、誰ひとり仲裁に入ろうとはしなかった。緒方はしばらくチヨを睨みつけていたが、



「ちょっとこっち来い」



 と言って廊下に出て行った。衆目に晒されてディベートをする度胸はないようだ。チヨはこれから起こることを想定し、こっそりとスマホの録音アプリを立ち上げポケットにしまった。






 非常階段の手前にある廊下の曲がり角で、緒方は立ち止まった。チヨに振り向き「お前な」と精一杯凄んでみせるが、頭に血が上っているチヨには怖くなどなかった。



「なんだ、あの態度は。先輩に対する口のきき方じゃないだろう!」


「態度に関して言えば、そちらの方がよっぽど失礼です。一方的に人を窃盗の犯人にして、謝罪もないっておかしいじゃないですか。私は無実だということを証明しないと、名誉が回復できません」


「それが生意気だって言ってるんだよ。目上の人間が言うことに逆らうな! 黙って従っとけばいいだろ。お前は何でもいちいち逆らいやがって、女のくせに可愛げがないんだよ!」



 チヨはちゃぶ台をひっくり返しそうになったが、冷静になれと自身に呼びかけた。せっかくレコーダーに録音しているのだ。誘導尋問で言質を取らねばならない。何が証拠となるか考えて、チヨはまず発言者の名前を明確にすることにした。



「緒方先輩」


「なんだよ」



 思った以上に簡単に釣れた。バカめ、バカめ、バカめ! チヨはさらに仕掛けた。



「それでは緒方先輩は、上司や先輩が言うことなら盲目的に従い、自分に不利益があっても我慢しろとおっしゃるのですか」


「そうだよ、それが社会人としての常識だろう!」


「女のくせにとおっしゃいましたが、男性と女性では発言権に差があるということでしょうか」


「差があるっていうか……、女は愛嬌っていうだろ、普通」


「上司として仰っているのなら、それって指導になりますよね。つまり、それらは会社の方針だと考えてよろしいのですね? 私を窃盗で疑って、謝罪がなかったことも含まれますけど」



 そこまで来ると、さすがの緒方も言質を取られていると気づいたようで「ハッ」と息を呑んで、勢いを止めた。まずいぞ、という顔で出方を探っているが、チヨは涼しい顔で一礼をした。



「ご教示ありがとうございました。大変参考になりました」



 そして、くるりと緒方に背を向け、女子ロッカールームへ駆け込んだ。ここまでは緒方も追っては来れない。もうとっくに就業時間が過ぎているので、誰もいないと思ったら、隅の椅子に木下さんが座っていた。チヨが戻ってくるのを待っていたようだ。



「あの、瀬川さん、ごめんなさい」


「木下さんが謝ることじゃないですよ。お金を失くして届出をするのは当たり前です」


「なんだか、瀬川さんを巻き込んじゃって。あの、私は瀬川さんを疑ってませんから。本当にごめんなさい」



 それだけ言うと、木下さんはロッカールームを出て行った。彼女は緒方の言うところの、可愛げのある女なのだろう。先輩からの命令を断り切れず、結果的に悪事の片棒を担いだ。視点を変えれば、彼女も被害者かもしれない。今となってはどうでもいいことだが。






 およそ1時間半の帰り道、チヨは抜け殻になったような気分で電車に揺られた。精神的に消耗しすぎて、もはや空腹さえも感じない。一秒でも早く家に帰って、安心できる空気の中に身を置きたかった。




 玄関を開けると、チヨはジャケットも脱がずにリビングのソファーに身を投げ出した。淳はまだ帰っていない。家の空気に安心したのか、今日起こったことや、このところ消化しきれずため込んでいたことが、一気に胸の奥から噴き出してきた。


 仰向けに寝た耳の上を、温かいものが流れていく。チヨはクッションを抱きしめて泣いた。目の前で起こっている不条理を、見過ごしながら生きていくことが辛くてたまらなかった。そして、そんな世の中を変える力がないのが悔しい。きっといつかは自分もその不条理の歯車のひとつになるのだ。




 そのうち玄関を開ける音が聞こえて、淳がリビングに入ってきた。真っ暗い中でソファに寝ているチヨを見つけ、驚いて傍に屈みこむ。



「何してんねん、電気もつけんと。具合悪いんか?」



 真っ先に体の具合を心配してくれる、その優しさがすりきれた心に染み込んで、今度こそチヨは声を上げて泣き始めた。淳はいきなり泣き出したチヨにびっくりしたが、そっと背中に腕を回して抱きしめた。チヨは賢い女性である。外で抑圧しすぎた感情を放出してしまえば、きちんと筋道を立てて話をしてくれる。淳は子どもをなだめるように、チヨの背中をさすり続けた。



 そのうちチヨは泣き止み、ティッシュで洟をかみながら今日の一部始終を打ち明けた。録音したテープも聞かせた。それでようやく気持ちが落ち着いたのだが、今度は淳の様子がおかしい。目をかっと見開き、拳を握りしめて小刻みに震えている。



「……ふざけんな」


「えっ、どうしたの」


「その緒方いう男、始末つけたる。いや、お前の会社ごと潰さなあかん。なんやねん、レイプにセクハラ、パワハラ、犯罪のデパートやないか!」


「ちょっと、淳! 落ち着いて」



 淳はとんでもなく激高しているようで、クッションをつかんで床に叩きつけ、ゴミ箱を蹴飛ばして肩で息をしている。その尋常ならざる様子を見てチヨは一気に冷静になり、同時に頭にある予感がよぎった。もしかするとこれは、かつて淳が暴走したときの、制御不能な感情の奔流ではないだろうか。もしそうなら、このままにしておくのは危ない。


 チヨは淳にタックルした。長い手足でがっちり巻き付き、二人ともバランスを失い床に転がる。「ゴスッ」という音がした。淳が床に頭を打ち付けたようだが、チヨはなおも手足の拘束を続けた。そして淳の耳元で腹の底から声を出した。



「落ち着け! このアホ~~~~~!」



 淳の体が硬直したのを確認し、チヨはようやく戒めをほどいた。床に胡坐をかき、いまだ寝転がっている夫を見下ろしつつスーパー仁王モードを発動する。



「あんたね! 始末するとか会社を潰すとか、バカなこと言ってんじゃないわよ! またやらかして裁判所のお世話になるつもり? 結婚してまだ一年も経たないこの新妻はどうなるのよ!」


「せやけど俺は! お前がやられてんの腹立つんや!」


「わかってるわよ、そんなこと。私だって本当なら、あの場で股のひとつも蹴り上げてやりたかったけど、我慢したのよ。どうしてだと思う? 後先見ないでケンカしたら負けるのよ、戦略が必要なの、勝とうと思ったら」



 そのとき、チヨの頭に神の啓示が下りてきた。目の前の夫に渦巻く暴走エネルギーを、正しい方法に導いてやればいいのだ。チヨはパーンと大きな音を立てて手を打った。



「あるわよ、淳しかできない闘い方が」






 チヨが淳に示した「淳しかできない闘い方」とは、作品を作ることだった。チヨが体験した不条理は、現代日本に根付いて腐らせている巨悪の一端で、結局はそれを許している社会も悪い。そのことをベースにしたうえで、ホテルの連中を糾弾してやろうじゃないか、とチヨは言った。ただし、公開するからには訴訟にならないことも条件だ。


 淳はしばらく考え込んでいたが、やがて自室に引きこもり、それから約2週間バイトと学校以外は部屋から出てこなくなった。こういうことは初めてだったので不安ではあったが、チヨは黙って見守ることにした。出勤前におにぎりやサンドイッチを作って食卓に置いておくと、洗った皿が流しのカゴに入っている。それが夫婦のささやかなコミュニケーションだった。




 そんなある日、淳が自室からゆらりと姿を現した。久しぶりに見る夫の姿は、チヨにとって軽い衝撃だった。ヨレヨレのシャツにジャージ、くしゃくしゃの髪と、初めて見る無精ひげ。目の下にはクマができ、よくぞあのアイドル顔がそこまでワイルドに、と思うばかりの変貌ぶりであった。



「これ、読んでくれるか」



 そう言って淳は、紙の束をチヨに手渡した。どうやら作品の企画書らしい。まだ大まかな流れではあるが、シーンを想定した筋書きと演出がびっしりと書き込まれている。ドキドキしながらページを読み進めるうち、チヨは一種の恐ろしさを感じた。そこに展開していたのは悪趣味ぎりぎりのブラック・コメディで、強烈な風刺と皮肉で笑いが練り上げられていた。


 これを映像で見たとき、観客はどういう表情になるのだろう。チヨは確信した。この男は天才だ、妻の贔屓目を差し引いても神からギフトされた何かを持っている。そう、チヨが初めてデヴィッド・リンチの作品を見たときの、甘美なゾクゾクに似た感覚がそこにはあった。チヨはもう一度、心の中でつぶやいた。この男は天才である、と。




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