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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;5 回る、回る、運命の歯車
59/77

5-11



 マネージャーはあの夜、休憩室に入った後、村治さんにあることを訊ねた。それは傷ついた彼女の精神に揺さぶりをかけるものであった。



「このことを社内で公表してよろしいですか」



 襲われた直後にそう聞かれて、Yesと答える女性がどれだけいるだろうか。当然のごとく、村治さんは公にしたくないと答えた。すると、マネージャーはまずホテル側のスタンスを突きつけた。



「警察に被害届を出すなら、証拠が必要なので病院で診断書を取らないといけませんし、このホテルにも捜査が入るでしょう。そうなると、企業として警察に協力しないわけにいかないので、秘密保持に関してはお約束できなくなります」



 それを聞いて、村治さんの頭に思い浮かんだのが、恋人の顔や親の顔だった。このことを知ったら、彼との関係はどうなってしまうのか。親が嘆き悲しむのではないか。そして、世間からどう噂されるだろうか。ぐるぐると考えて押し黙ってしまった村治さんに、マネージャーは追い打ちをかけた。



「誰にも知られたくないのであれば、このまま貴女が忘れてしまうことが最もかんたんです。しかし、それでは心情的に気が済まないでしょう。であれば、示談を持ちかけてみるという方法もありますよ」



 そう言われても頭が混乱して即答できず「考えてみます」というだけが精いっぱいだった。そのままマネージャーの車で自宅まで送ってもらい、朝いちばんで婦人科を受診してアフターピルを処方してもらった。それから1週間、病欠という理由で会社を休んで悩み続けたが、どうしても他人に知られるのが怖かった。


 結局、村治さんはマネージャーに電話して示談の意思を伝え、そのまま会社も辞めることにした。マネージャーはそうなるのがわかっていたかのように、すみやかに事を処理し、村治さんに起こった不幸な出来事は、誰も知らない秘密の扉の中に仕舞いこまれることになった。



「村治さん、それでいいんですか」


「そうよ、だから誰にも言わないで。私、失いたくないものがあるの。お願い、秘密にしておいて、絶対よ」



 チヨはようやく気付いた。村治さんはチヨに口止めをしに来たのだ。相談してくれれば一緒に闘おうと思っていたのだが、彼女は闘わない道を選んだ。しかし、それもひとつの選択である。チヨは他言しないことを誓うと、村治さんの車を下りた。なんだか、もやもやしたものが胸に満ちて、家への足取りがやけに重く感じられた。






 しかし、それだけでは終わらなかった。あの夜から一カ月ほど経ったある日、チェックインカウンターに訪れた客の名前を聞いた瞬間、チヨの体が硬直した。今日のシフトは勤務歴10年を超える男性の先輩とのペアで、その先輩が接客している30代と思しき男は、おそらく村治さんを襲った人物である。管理画面のモニタを見ると、思った通りあの日の宿泊履歴が残されていた。


 プリレジ(あらかじめ顧客情報が記載された台帳)なので、きっと常連なのだろう。混乱する内心を作り笑顔でラッピングし、件の男を見送ったチヨは、無邪気な新人の振りを装って先輩に探りを入れてみた。



「あのお客さまって、VIPなんですか」


「ああ、ジュニアね」


「ジュニア?」


「親父さんが改新党の議員さんだから。ちなみに、うちの大株主。お供え(女性同伴)のときも多いけどね」



 いやな感じがする。示談で納めたとはいえ、問題を起こしたばかりのホテルに宿泊する神経がわからない。もしもまた深夜にお呼びがかかったら、男性の先輩に代わりに行ってもらうか、備え付けの防犯ベルを持っていこう。そう考えていたチヨだが、幸いにもその夜は何事もなく終わった。しかし、ちらりと見た男の顔を思い出すと薄気味悪く、とりあえずマネージャーに報告することにした。






「特に問題があるとは思えませんが」



 チヨから例の客が再びホテルに現れたことを聞いたマネージャーは、相変わらずロボットのように淡々とした口調でそう言った。場所は本社裏手の搬入口。村治さんと他言しない約束をしたので、内密に話をするためにマネージャーを呼び出したのだ。



「示談になったということは、今後そのことは不問とするわけですよね。二度とうちに宿泊しないという取り決めがあったなら別ですが、ありませんでした。だったら、いつお泊りになるかはお客様の自由です」


「そうは言っても、性犯罪の加害者ですよ。そんな人が泊っているなら、女性のゲストが被害に遭うかもしれませんし、女性従業員だって不安です」


「他のお客さまだって、絶対に性犯罪を起こさないという保証はありません。逆のケースとして、従業員がお客さまに暴行を働く事件だって起こっています。それに、女性従業員が不安だと言いますが、事情を知っているのは瀬川さんだけです」



 理屈の上ではわかる。ホテルは不特定多数の人が利用する。中には危険人物もいるだろう。それをわかったうえで迎え入れ、収益を上げるのが仕事である。しかし、実際に従業員に加害した人物を出禁にしないのはおかしい。そう思って口を開こうとしたチヨを、マネージャーの言葉が遮った。



「とは言え、今回のことは瀬川さんにとっても気の毒でした。あなたが不安に思わないよう、労働環境の見直しをしてみましょう」



 あんまりいい予感がしなかったが、相手は善処すると言っている。これ以上本社の上司に喰らいつくのも得策ではないと考え、チヨは「よろしくお願いします」と頭を下げた。






 チヨに辞令が下ったのは、その10日後だった。来月から本社保安部へ移動とのことだったが、とても栄転とは言い難い。保安部とは、ホテル内の清掃やメンテナンスを行う部門である。ホテルの表舞台から裏方に回るため、「もう例の客に怯える必要はない」と、マネージャーは心遣いを理由にしたが、実質は厄介払いである。


 入社時は女性社員の花形であるレセプション、それが2年目にして閑職の流刑地と言われる保安部である。仕事はパソコン前と倉庫の往復で、仕事相手はパートの客室係と補修工事の外注さんくらいである。もちろん、清掃やメンテもホテルにとっては不可欠な仕事ではある。しかし、ホテルの中心部で実績を積むことができなくなり、総合職の試験を受けるつもりのチヨにとっては、昇進の道が半ば断たれた形になった。



「おー、瀬川さん、本社へようこそ」



 保安部と人事課が同フロアなのも、頭が痛いところである。チヨを標的にしているセクハラ先輩の緒方は、まるで獲物が懐に飛び込んできたかのように、廊下やエレベーターなどで顔を合わせるたび、喜々として陰湿な嫌味を投げてきた。もっともチヨのスルースキルの方が一枚上手で、あまりしつこいとバッサリ倍返しされるのだが。



「退屈でしょ、保安部。残念だったね、どんなヘマやらかしたのか知らないけど」


「メンテナンスも大切な社の業務ですよ。緒方さんも管理職を目指すなら、裏方のお仕事を経験されたらどうですか。なんなら私から部長に推薦しておきますけど」


「や、やだよ! 絶対に言うなよ」



 と言うように、社員からは不人気な保安部ではあったが、不屈の精神を持つチヨはこの経験をチャンスに変えようと考えた。長年の慣習でムダになっている部分をチェックし、パートの清掃員から聞き取り調査をして、業務の効率化を部長に提案した。部長は定年間近のおじいちゃんで、変化は好まなかったがそれ以上に議論が嫌いだったので、グイグイ来るチヨの意見をそのまま受け入れた。


 これが功を奏し、保安の効率化がコンサルの目に留まった。チヨの名は再び社内報の小さな記事になり、彼女が提案した新方式が全支店で共有されることが決まった。こうなると、面白くないのは緒方である。さっそく知恵が浅い人間特有の、愚かな嫌がらせを仕掛けてきた。





 ある日、退社時にチヨがロッカーを開けると見知らぬ封筒が入っていた。それを見た瞬間に嫌な予感がしたので、チヨはすぐに写真を撮影し、周りにいる女性社員に声をかけた。本社は女性が少ないため、女子ロッカールームは保安、人事、総務、営業の4部門で共有している。3人ほどの女性がロッカー前に集まってきた。



「私のロッカーに知らない封筒が入ってるの。朝はこんなのなかったのに」


「えっ、気持ち悪い」


「だよね、悪いけど誰かに聞かれたらこの状況を証言してくれる? まさかとは思うけど、盗んだと思われたら困るから」


「もちろんよ。瀬川さん、中の物を触ってないの見てたから」



 女性社員たちが快く承諾してくれたので、チヨは封筒をビニール袋で包んで人事部に持って行った。紛失物は人事の管轄である。すると緒方が鼻の穴を膨らませてチヨに指を突きつけた。



「瀬川さんだったんだな、ロッカー泥棒は!」


「はあ?」


「何しらばっくれてるんだよ、お前が手に持っているのは、木下さんが銀行から下ろしてきた金だよ。今日、ロッカールームで盗まれたって、報告を受けてたところだ」



 そう言って緒方は隣にいる木下さんを指した。居たたまれない様子で縮こまっている。なるほど、どうやら緒方がチヨを陥れる計画を練ったらしい。そして、木下さんは無理やり巻き込まれたに違いない。


 魂胆が見え見えすぎて頭が痛くなった。なんでお前みたいなアホにお前呼ばわりされなきゃいけないんだとムカムカしながら、チヨは淡々とした調子で切り返した。



「どうして私が犯人なんですか? もし泥棒だったらそのまま持って帰りますよね」



 緒方がぐっと言葉に詰まる。おいおい、そのレベルか。頭に来たので、チヨはがんがん攻撃に出た。



「木下さん、ATMの明細票ある?」


「あ、あります」



 慌てて木下さんが財布を漁る。その横で緒方がドヤ顔になっているのは、お金を下ろしたことを証明できるからだろうか。バカめ、これからが本番だ。やがて木下さんが差し出した明細票には、思った通り昼休みの時間が記されていた。



「利用時間は12時47分と書いてありますね」


「そうだよ、その時間に金を下ろして、退社の時には消えてたんだ。それがお前のロッカーにあったんなら、盗ったのはお前しかいないだろ」


「ありえない」


「はあ?」


「ありえないんですよ。私、今日は10時にここを出て17時まで八丁堀支店でインスペクション(清掃チェック)でした。社に戻ったのが終業時刻を少し回った頃で、そのことは部長が証明してくださいます。そして、さっきロッカールームに入って私が自分のロッカーを開けるまでを、他部署の3名が見ています」


「でも、カギが! カギが締まってたじゃないか、他の人間には開けられないだろ!」


「開けられますよ、人事課の人なら。マスターキーが保管してあるでしょう」



 そこまで言うと、緒方の顔がどす黒く変色した。



「なんだと! 俺がやったって言うのかよ、どんな証拠があるんだよ!」



 もう付き合っていられない。チヨは深く息を吸うと、緒方の正面に立ってひとつの提案をした。



「警察を、呼びましょう」




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