5-10
チヨと淳が入籍してから、あっという間に月日が過ぎ、間もなく夏が去ろうとしていた。
淳は春から大学と専門学校のダブルスクールに加え、撮影所のレギュラーのアルバイトに入っていたため、睡眠時間を削りながら過密スケジュールをこなしていた。しかし、その努力が実を結び、大学はほぼ卒業決定。専門学校でも映像制作の基礎と各技術職の役割を学び、漠然と見ていた撮影所の機能が立体的につかめるようになった。
この頃にはほぼ、ディレクションと脚本が自分の進むべき道だと確信していたので、思考にこびりついていた雑念がこそぎ落され、目標が一点に絞り込まれた。暇を見つけてはエンジンさんの残した脚本を、実際に撮られた映画に照らして学んだのも大きい。ハートの痺れる演出は、すぐさま福井さんにもらったアクションカメラで再現した。もちろん素人なりの出来栄えだが、映像の何たるかを淳は確実に理解し始めていた。
一方チヨも、人事部の緒方にぴしゃりとねじこんだせいか、昼勤と夜勤が交互に来る地獄のシフトが通常に戻り、業務の効率が格段にアップした。リピーターからの評判も良く、年末の宴会予約がすでに2本もチヨを通じてホテルに入っている。これは本来は営業の仕事なのだが、レセプションでの信頼獲得が新しい顧客を開拓した好例として、社内報の特集記事に取り上げられた。
しかし、昔から「好事魔多し」というように、9月に入ってチヨの人生を大きく変えてしまう大事件が起きた。ホテルの同僚の女性が、客の部屋に連れ込まれて性的被害を受けたのだ。チヨが夜勤シフトの深夜のことだった。
「村治さん! どうしたんですか、その服!」
時間は午前2時過ぎ。仮眠に入ったばかりのチヨの耳に、ドアを乱暴に開ける音が聞こえた。今夜のシフトは2年先輩の村治さんという女性と一緒で、物静かな彼女がそんな大きな音を立てるのは珍しいなと、仮眠ブースのカーテンを開けてみると、はだけた制服の前をかき合わせるようにしてうずくまる村治さんがいた。
「瀬川さん……っ、私、私……、うっ」
チヨの顔を見ると、村治さんはわーっと泣き出してしまった。信じがたいことだが、その様子を見れば誰かに乱暴されたとしか思えない。チヨは彼女を椅子に座らせ、ロッカーからカーディガンを出して肩にかけた。背中をさすると、ガチガチに身をこわばらせているのが伝わってくる。
「村治さん、私がいるからもう大丈夫、何があったか話してください。ゆっくりでいいから、落ち着いて」
パニックになりながら、それでも頑張って村治さんが伝えた内容によると、客室からの呼び出し対応が事の発端だった。
チヨの勤めるホテルのレセプションは8割が女性で、昼間は支配人や責任者が常駐しているが、深夜は女性だけでの勤務になることも多い。厚生労働省の指針として、女性の深夜一人勤務を避けるよう指導されているため、一応は二人シフトになってはいるものの、片方が仮眠に入っている間は実質上一人となる。その時間帯を狙って、客室から呼び出しがあったのだ。
リクエストの内容は「石けんが欲しい」というもので、客室にはボディソープが備えてあるが、客によっては固形石けんを好むため、ゲストソープも用意している。よくあることなので、村治さんも深く考えず客室に石けんを持って行ったところ、「トイレが流れないからついでに見てくれ」と頼まれた。
こういう場合、女性従業員ひとりで客室には入らない決まりがあり、村治さんは「係を呼びます」と答えたのだが、有無を言わさず腕をつかんで引っ張り込まれ、暴行を受けてしまった。死に物狂いで抵抗したものの、村治さんはほっそりと小柄な女性。男の力には適うはずもなく、さらに殴打され恐怖で身がすくんだところを蹂躙されてしまったのだ。
それを聞いてチヨはアドレナリンが全身を駆け巡り、手が冷たくなるのを感じた。今すぐその部屋に乗り込んで、客を殴り倒してやりたいが、ここは職場なので緊急時のマニュアルに従わねばならない。チヨは大きく深呼吸をすると、村治さんの目を覗き込んで静かに言った。
「本部のマネージャーを呼びますね」
「いや! 呼ばないで! 誰にも言わないで!」
「でも、就業中のトラブルだから、知らせないわけにいきません。病院や、場合によっては警察にも行かなくちゃ」
「いや! いや!」
興奮して暴れるのをなんとか宥め、他の人には言わないという約束で、チヨはマネージャーを呼んだ。時間は深夜3時を過ぎているが、本部には24時間緊急事項に対応する部署があり、マネージャーは約30分ほどで到着した。
「瀬川さん、ありがとう。後は僕が対応するので、持ち場に戻ってください」
そう言ってチヨをレセプションに追い立てたマネージャーは、しばらくすると休憩室から出てきて、村治さんを早退させる旨をチヨに告げた。
「村治さんが着替えたら、家に送っていきます。一人シフトになるけど、あと2時間ちょっとしたら早番が来るから、よろしくお願いしますね」
「え?」
性被害に遭った際は、すぐに病院を受診して証拠を残すのではなかったか。第一、加害者がまだホテル内にいるのだ。暴行事件なのだから、すみやかに警察に通報するべきではないんだろうか。そう考えたチヨの疑問が顔に出ていたのだろう。マネージャーは帰宅させる理由を簡潔に述べた。
「本人が事を荒立てたくないそうです。瀬川さんも黙っててくださいね」
社員が襲われたというのに、まるで天気の話でもするような、あっさりとした口調である。やがて村治さんが私服に着替え、社員通用口からマネージャーと一緒に出て行った。
チヨはしばらく呆気に取られていたが、ひどくモヤモヤするので防犯カメラの映像をチェックしてみた。カメラの映像は全ての廊下を映すようになっている。チヨは村治さんが引っ張り込まれたドアの付近が、はっきり写っていることを確認した。本部に記録が1カ月ストックされるので、いざというときの証拠になるはずだ。
やがて夜勤が明け、早番のスタッフと交代したが、チヨの頭は休まらなかった。自分が勤務している職場の、その建物内で同僚が客にレイプされ、なかったこととして処理されようとしているのだ。興奮状態にあった村治さんが冷静な判断ができるとは思わないし、マネージャーのロボットのような物言いも気持ち悪かった。
その翌日、淳と家で食事する時間が取れたので、誰にも秘密と言われたが、チヨは思い切って相談してみた。自分にとっては衝撃的な事件なのに、あまりにも事態があっさりと収拾してしまった。その温度差に頭が混乱して、もしかしたら自分の考えが普通ではないのかとさえ思えてきたのだ。
「本人と話すチャンス、ないんか」
「今度いつシフトが一緒になるかわかんないけど……、でもそうだよね。私がいくら考えたってムダだね。本人と話してみるよ」
こういう時、結婚して本当によかったとチヨは思う。つい自分一人で感情を処理しようとする悪い癖が、淳の前ではかんたんに崩壊する。良い意味で人に頼って楽になる術を覚えたのだ。もちろん決断は自分でするが、そこに至る道がスムーズになった。友達や恋人ではなく、運命共同体の夫だからこその、本音ぶっちゃけトークである。
村治さんと話をしたのは、その翌週。社内メールで彼女の退社のお知らせが来て、びっくりしていたら、ホテルからの帰り道で車にクラクションを鳴らされた。運転席には村治さんが座っており、すぐに事情を察したチヨは助手席に飛び乗った。
「ごめんなさい、瀬川さん。私、会社やめることになったの。あなたには迷惑かけたままだったから、お詫びしたくて」
「なに言ってるんですか、迷惑なんてかかってないし、お詫びされることもないです。それより体、大丈夫ですか? あのままマネージャーと帰っちゃったから、心配してました」
「うん……、とりあえず、どこかに車とめるね」
会社の人たちに見られないよう、村治さんは少し遠くまで車を走らせ、商業ビルの地下駐車場に車を停めた。ここでなら、誰にも見られず話しができる。村治さんは「ふう」と息を吐き、気を落ち着けて話し始めた。
「結論から言えば、示談に応じることになったの」
「加害者と……、交渉したんですか」
「マネージャーを通してね。いろいろ考えたら、それがいちばん波風が立たないと思うの。だから、申し訳ないけど、瀬川さん、このことは忘れてください」
そう言って村治さんが語った示談の概要は、チヨには耐えがたいものだった。チヨは再びアドレナリンが全身を駆け巡る感覚を覚えた。




