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10月に入籍するはずだった二人だが、真美と彼氏の新居として賃貸ではなく分譲マンションを購入することになり、リフォームする間、引っ越しが延期になった。そのため、チヨと淳が婚姻届を出したのは11月の初旬。ジーンズとスニーカーの普段着で、居住地の役所へ二人で赴いた。真っ青な秋の空がまぶしい、木曜日の午後だった。
淳にとっては二度目の婚姻届になるが、自暴自棄で愚かな暴走をした、あの時の心境とは全く違う。好きな女性と想いが通じ、新しい人生に踏み出す一歩は、なんと晴れ晴れとしたものだろうか。
チヨにしても、世間一般の結婚願望はなかったとは言え、この先のどちらかの肉体が朽ちるまでの長い月日を、隣に立つ伴侶と紡いでいくのだと思うと、厳かな心持ちになった。
そんな新鮮な気持ちで役所に赴いた二人を、小さなトラブルが待ち受けていた。
婚姻届や転居届などには不備はなかったのだが、窓口の職員の余計なひと言で、チヨがへそを曲げそうになった。世帯主の記入欄にチヨの名前があったことで、くり返し念押しをされたのだ。
「世帯のお名前は瀬川さん……、海東さんではなく瀬川さんで間違いないでしょうか」
「はい、瀬川です」
「世帯主は瀬川チヨさんですか? 奥さまのお名前になってますが? このままでよろしいでしょうか」
「はい、私が世帯主です」
「少し手続きが面倒になりますが、生計を別にしているという証明があれば、世帯分離といってお二人とも世帯主になれる方法があります。また、後から世帯主をご主人に変更することもでき――」
多くの場合は夫が世帯主になるので、マニュアルに沿って説明してるのだろうが、それがチヨのイライラをレッドゾーンに追い込んだ。窓口職員の言葉尻を喰うように、チヨがドスのきいた仁王声を発した。
「あの」
「はい」
「私が世帯主では何か不都合なことがあるんでしょうか」
「いえ、そんなことは」
「ですよね、世帯主は私です、セガワチヨです。書類の記載で間違ってませんので、そのまま処理していただけますか」
「は、はい……」
窓口の人に怒っても仕方がないのだが、これからも同様の不愉快な出来事は度々起こると予測される。淳は役所から出たその足で、チヨをアイスクリーム屋に連れてきた。腹が立ったときには甘いものに限る。チヨはクッキー&クリームとピスタチオ、淳はチョコバナナを注文し、近くの公園のベンチで食べた。
「さらっと流していこいうぜ」
「ごめんね、淳の方が不愉快だったろうに」
「謝らんといてや、奥さん」
耳慣れない「奥さん」の響きに、チヨの耳たぶが赤く染まる。もじもじしながらアイスをなめ、照れくさそうに口角を引き上げた。
「そっか、夫婦になったんだね、あたしたち」
「そやで、まあこれから先は長いし、大きく構えていこや。他人に何か言われても、ほっといたらええねん。そういう連中は俺らが何かあったとき、味方には付かん奴らや」
そのときは格好をつけて立派なことをのたまった淳だが、いざ新婚生活が始まってみると、神経に触ることも多かった。
どこへ行っても「養子」や「婿どの」と言われ、そのたびに日本の法律を説いて歩くのも面倒くさいので、へらへら流して済ませていたが、アルバイト先の年配の中には、「尻に敷かれている」だの「肩身が狭いでしょう」などと余計なお世話まるだしの人間もいる。他人の価値観を押し付けられるのはうんざりだったし、世の中にはこんなに他人の生活に首を突っ込みたがる人間が多いのかと、呆れることもしばしばだった。
そんなフラストレーションは、家庭にもよくない影響を与えた。ある日、淳が食器洗いの当番だった夜、チヨが水切りかごの中に洗い残しのあるコップを見つけて指摘したことから、小さな諍いになってしまった。
「ねえ、このコップ、まだ洗剤が残ってるよ」
いつもなら「おお、すまん」と言って洗い直す淳だが、その日は気分が落ち込むことが重なり、虫の居所が悪かった。午前中はバイト先のお節介軍団に婿養子ネタでからかわれ、午後は映像コンテストの落選通知メールを受け取った。これが淳にとってはけっこう心の折れる出来事だった。
チヨにばかり頼るのもいたたまれないため、世間に認められる功績が欲しいと、張り切って30秒CM動画の賞に応募したのだが、そうそう世の中は甘くない。自分でも「狙いすぎた」という自覚があったため、敗北感はひとしおである。そんなみじめな気分を引きずっていたところにチヨから注意を受け、つい反抗的な態度を取ってしまったのだ。
「そう思うたら、自分ですすいだらええやろ」
「ちょっと、何それ。当番制なんだから、お互い家事はちゃんとやろうよ」
「上から物いうなや、気ぃ悪い。もう寝る」
そう言うと淳は自分の部屋に入ってしまった。夜勤のあるチヨとは生活時間帯が違うため、新婚と言えども互いの部屋は別にしてある。鍵が締まる音がして、チヨはこめかみの血管が膨らむのを感じた。
実はチヨも、このところ機嫌はよろしくなかった。つい数日前、例の新人研修セクハラ先輩と、ひと悶着やらかしてしまったのだ。結婚にまつわる手続きで、本部の人事課を訪れたときのこと。用事が終わって出て行こうとしたチヨに、セクハラ先輩が声をかけた。彼は人事課の勤務管理担当で名は緒方という。
「瀬川さん、結婚したんだね。おめでとう」
「ありがとうございます」
この時点で嫌な予感がしたので、さっさと辞去しようとしたチヨの背後から、なおも緒方が絡んできた。
「例のフリーターの彼氏? すごいね、無職のダンナを瀬川さんが養うんだ」
「それは私の個人的なことで、緒方さんには関係ないことですよね」
そんなことを言えば、倍返しされることは前回でわかっていただろうに、学習能力のない男である。
「ただの世間話だろ。てか、入社一年目で結婚って、常識がないんじゃない?」
チヨはそのままくるりとターンをし、さっき要件を済ませたばかりの人事課長の席へ戻った。気の弱そうな課長が、怯えた仔犬のような眼でチヨを見上げている。さすがに緒方との会話を聞いて、これはまずいと思ったのだろう。
「課長」
「はい」
「私が人事部に提出した書類は、会社の事務処理に使用されるもので、その中の個人情報が社員の世間話のネタになるのは、情報漏洩および名誉棄損だと思うのですが、いかがでしょう」
「あー、もちろんそうです、緒方君には後で注意をしておくので」
「もうひとつ。入社一年目の社員は結婚してはいけないという社内規定があるんですか?」
「……ありません」
「そうですよね。緒方先輩には新人研修の時にも個人的な連絡先を聞かれました。親しみを込めてということなのでしょうが、ここは職場ですので、コンプライアンスを遵守した節度のあるコミュニケーションを希望します」
一礼をして去っていくチヨの背中で「緒方君、会議室に来なさい」という課長の声が聞こえた。
結局、食器洗いに関する小さなケンカは淳が謝罪しておさまったのだが、仲直りのきっかけを作ったのは意外な人物であった。
「いやっほう、スナオちゃん! ここが新婚家庭か~。なんかドキドキすんな!」
「ちょ、近所迷惑やから玄関先で騒ぐな」
「えー、新婚なのに部屋が別なの? エロいことはどっちの部屋でするの」
「お前、もう帰れ」
新婚夫婦のマンションに押しかけてきたのは、エーサンで淳と同期だった水谷である。彼は順当に卒業し、親類の経営する印刷所で営業マンをしている。最近は紙の媒体が減って業界は厳しいらしいが、生まれ持った口のうまさで新人としては良い成績を上げているらしい。
「残念だな、チヨさんがいないなんて」
「今日は仕事や。ホテルやからシフトが変則的なんや」
「今日はいつにも増してトゲトゲしてるな。新妻とケンカでもしたか?」
淳はムスッとしたまま、コーヒーサーバーに豆をセットしている。勘のいい水谷には淳が不機嫌なのは一目瞭然であった。そして学生時代と変わらぬ巧みな誘導尋問で、そのコーヒーが出来上がるころには、淳は事の次第を白状させられていた。
「あらー、そりゃいかん。チヨさん、何も悪くないだろ。さっさと謝っちまえ」
「わかってる。俺の八つ当たりや。何や、いろいろ言われてムカつくことが多かったんや」
「そういうの、覚悟してたんだろ?」
そう言われると黙ってしまう。確かに結婚前、他人にあれこれ言われても、自分たちらしく生きたいと覚悟を決めた。もちろんその気持ちは今も何一つ変わっていない。予想外だったのは、他人の干渉である。日本特有の同調圧力や、他人のプライバシーへ土足で踏み込む野次馬根性が、これほど精神をすり減らすものとは思わなかった。
「お前、それくらい仕方ねえだろ。チヨさんみたいな高嶺の花を落としただけでも羨ましいのに」
「高嶺の花?」
「なんだ、知らなかったのかよ。チヨさんに憧れてた男は多かったぜ、みんな手を出す勇気はなかったけどな」
「知らんかった。せやけど、なんで勇気が出んのや。人付き合いの悪い女やないと思うけど」
「隙がないんだよ、チヨさんは。誰にでもフレンドリーだけど、近づくと透明な壁がある感じ?」
その透明な壁は、かつて淳も感じたことがある。その理由を知り、理解し、傍でそっと見守り続けたことで、今の二人の生活がある。そう思うと、下らない世間の雑音に惑わされているのが馬鹿らしくなった。コンテストの件だって、自分の力不足がわかっただけ儲けものである。ポジティブシンキングはチヨから学んだ最大の武器なのに、卑屈になっていた自分が情けなかった。
「まぁな、ようあのチヨと結婚できたなと思うわ。自分でもびっくりや」
「だろ? それに加えて、好きなことやるチャンスまであるんだからさ。幸せ者だよ、海東は」
「せやな」
「ということで、幸せ者の海東くん。今月の最終土曜日は空けといてくれや。もうチヨさんにはOKもらってる」
そう言うと水谷はニヤッと笑った。学生時代、淳の弱みを握ってはコンパに連行した、あの何か企んでいるときの顔だ。淳は条件反射で、思わず身が硬くなるのを感じた。




