5-7
そこから秋までの間は、とにかく目まぐるしく忙しい時間が過ぎて行った。
まず、淳の気がかりはチヨの両親への挨拶である。離婚しているため二人同時にとはいかず、最初に母親の方へアプローチしたのだが、親類の介護をしていて千葉まで来るのは難しいという。
「親族に囲まれて仲良くやってる、と言えば聞こえはいいけど、まあ体のいい介護要員よ。幸い、周りがいい人たちだったのが救い。でも相変わらず人の頼みを断れなくて、あっちこっちの世話に追われてるわ」
基本的にチヨの母親は、親の言いなりで育ったお嬢さんで、嫁ぎ先でも夫の言いなり。その姿を反面教師として育った娘のチヨには、隷属的な母の生き方が腹立たしく見えるらしい。
「会うと、ついきついことを言っちゃうんだよね。悪気がないのはわかってるんだけど、あまりにも世間知らずで自己評価が低いから、しっかりしなさいよってお尻を叩きたくなるの」
「生んで育ててくれたお母さんやないか」
「そうよ、本当にやさしくていい人なの。だから、腹が立つの。もっと幸せになる道はいくらでもあるだろうに、って」
取りあえずそういう事情なので、こちらに来てもらうことは難しい。そこで、チヨの休みの日に再婚先の近所まで行くことにした。2時間くらいなら家を出られるので、昼食を一緒にということで落ち着いた。
ところが、これを聞いた妹の真美が、この機会に同居予定の彼を紹介しておきたいと言い出した。そうなると5人のスケジュールを合わせる必要がある。これがなかなかに骨が折れ、なんとか予定が決まるまでに2週間を費やした。
しかし実際に顔合わせをしてみれば、何とも心温まるひとときだった。離れて暮らしていても、やはり娘二人はお母さんが大好きで、お母さんも置いていった負い目で最後まで謝り続けていたが、娘たちへの深い愛情が感じられた。
淳が学生のうちに結婚することについても、チヨが決めたことなら応援しますと言ってもらえたし、少ない手持ちから捻出したに違いない結婚祝いも贈ってくれた。食事を終えて別れ際「チヨをよろしくお願いします」と、握られた小さな手の温かさを、淳は生涯忘れないだろう。
それと同時に、学校の準備も待ったなしだった。まずはエーサンの学生課を訪れ、来春からの復学の手続きをした。こちらは退学から2年以内であれば在学中の単位はそのままで、4年をやり直すだけで良かったが、専門学校の方は形ばかりではあるが入学試験がある。落ちるわけにはいかないため、参考問題集を買い込み何年かぶりの受験勉強を始めた。
もちろんアルバイトも目いっぱい入れないと生活できない。チヨ宅に引っ越すまでは、当然ながら今まで通り家賃は払い続ける必要がある。淳はキャパシティからあふれるスケジュール管理にてんてこ舞いだった。
しかし、何と言っても最大の難関は、チヨの父親との面会である。住所も勤め先も知っているが、チヨには内緒にしておくつもりなので、連絡の方法が難しい。考えた末に、淳は手紙を書くことにした。シンプルに、チヨと結婚する予定なので、会ってご挨拶できないかという内容である。
その手紙を投函して10日目に、輪をかけてシンプルな返事が返ってきた。この日時にここで会いましょう。都合が悪ければお電話を、良ければ連絡は不要、というものだった。淳は予定をやりくりし、1着しかないジャケットを着て現地へ向かった。それが9月下旬のことである。
「はじめまして、海東です」
「瀬川です」
初めて見るチヨの父親は、チヨを男にしたような雰囲気だった。50代半ばで身長が180センチくらいあり、半白の髪をキレイになでつけている。仕立てのいいスーツに細い黒縁の眼鏡。いわゆるイケオジである。
オフィス街の喧騒から少し離れた、クラシックな珈琲館のテーブルで、親子ほど年の離れた男二人が向かい合っている。運ばれてきたコーヒーを二口ほどすすったところで、話を切り出したのは淳の方だった。チヨとの慣れ初めや入籍の予定をおおまかに説明した後で、本題へつながる一言を付け足した。
「ここで貴方とお会いすることは、チヨには言ってません」
「そうですか」
そういった後で、瀬川氏は小さく苦笑いをした。口角がキュッと引き上がるチヨの三日月スマイルは、この父親から受け継いだものらしい。
「それがいいでしょうね。私は、娘たちには嫌われています」
「本当にそうでしょうか」
瀬川氏がはっとした表情で顔を上げた。
「チヨは貴方に会いたくないと言う、貴方は娘に嫌われていると言う。でも、本当にそうなんかなって、思うんです」
頑張ってしゃべっていた標準語が崩壊したが、構わず淳は続けた。
「チヨは、家族や家庭に強いこだわりがあります。失ったものを取り戻したいのもあるんでしょうが、僕の目からは、愛情を求めている小さな子供のように感じます」
瀬川氏の目が、眼鏡の奥で見開かれた。その表情を見て淳は、この人はチヨたち姉妹を見捨てた格好になったが、決して冷血漢ではないと感じた。何かがこじれてどうしようもなくなった結果、子どもにしわよせが行ったのだ。あってはならないことだが、酌量の余地があるなら知っておきたい。
「チヨに、父親として歩み寄ることは無理でしょうか」
「……今さら、どうなるわけでもないでしょう。私と娘はもう何年も離れて暮らしています。それに……私はチヨと真美を、傷つけました。きっと、彼女たちは私を許しません」
「チヨと真美ちゃんに対して、まだ愛情はありますか?」
直球の問いかけに、瀬川氏はしばらく押し黙り、もう冷めてしまったコーヒーを一口飲むと、慎重に言葉を絞り出した。
「……小さいころは、まだ良かったんです。家族でキャンプにも行ったりしました。でも、だんだん私の母親の干渉が激しくなり、当時は私も事業を立ち上げたばかりで、面倒ごとを全て妻に押し付けてしまいました」
やがてその告白は次第に自虐の色を含む。
「気がついたときには、取り返しがつかない状態になっていて……私は逃げました。私は卑怯で、心が弱かったのです」
そこまで言うと、瀬川氏は再び表情を閉じて黙り込んでしまった。それを聞いて、淳の口から衝動的に言葉が飛び出した。もっと上手な言い方もあったのだろうが、気持ちに任せることにした。もはや標準語は機能していない。
「それをそのまま言うてやるんは、だめですか? 俺があかんかった、すまん、て謝ればええやないですか。そりゃあチヨのことやから、今さらふざけんなってキレるでしょうけど、それでええんちゃいますか。うちの家なんか、怒鳴り散らしてもう顔も見たくない言うた翌朝、ケロっとして朝飯食うてます」
瀬川氏は表情こそ崩さなかったが、気配が揺れているのが分かった。淳はなおも続けた。
「家族の問題にあれこれ言うて申し訳ないんですが、僕はもうすぐチヨの夫になります。二人で幸せになりたいと思ってます。もちろん、かんたんに元通りになるなんて思ってませんけど、一生このままもしんどいし、ちょっとでも溝が埋まればいいなという気持ちでここに来ました。お父さんも、わざわざ時間を割いて来てくれたんは、チヨのためでしょう。それ伝えましょうよ、心からの言葉なら、わからんチヨじゃないです」
最後まで瀬川氏は黙ったままであったが、やがて「善処します」とだけ言うと、伝票を持って立ち上がり、淳に会釈をして立ち去った。自分で言うように、心の弱い人なのかもしれない。不器用で言葉足らずなのも、同類なのでよく理解できる。しかし、娘に対しては責任があるはずだ。自分で壊した関係なら、再構築する努力をするのは彼の義務である。
これが功を奏するか、余計なお世話となるか。とりあえず、やることはやり終えた。緊張でぐっしょり湿ったジャケットを脱いで腕にかけ、淳も珈琲館を後にした。




