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父とチヨが公園で話をしているころ、淳は階下のキッチンで包丁を研いでいた。昼寝から目覚めて部屋を見回すとチヨの姿が見えず、キッチンにおりて母に聞くと、父と話をしに行ったとのことだった。それなら自分はオカンを攻め落とすべく、夕食は自分が作ると申し出たのだ。
「あんた、料理できるんか」
「ここしばらく修行したから、和洋中なんでもござれや。ローストビーフとかも焼けるで」
「はー、知らんかった。ほな、お手並み拝見や」
ちなみに今日の夕食はお好み焼きで、海東家では一家だんらんの象徴ともいえるメニューである。夜には弟の正哉も部活を終えて帰ってくるので、大きなキャベツ2玉を刻む。そこで家の包丁がなまくらになっていたのに気づいた淳が、砥石を持ち出して研ぎ始めたというわけだ。凝り性なので、道具にもこだわる。
「入籍はいつごろするつもりなん」
山芋をすりおろしていた母が、ようやくキャベツに取りかかった息子に訊ねた。なるほど、言うだけあって包丁使いはなかなかのものである。海東家のレシピ通り、細かく刻まれたキャベツに几帳面な性格がにじみ出ている。
「なんや、反対してたんちゃうんかいな。まあ、入籍は夏の終わりか秋やろな。チヨの妹が引っ越ししてから、新しい本籍をチヨの家の住所で作るから」
「向こうの……親御さんには、もう言うてんの」
「まだ言うてへん。あっちは色々面倒でな。お母さんにはチヨが連絡するはずや。お父さんには、俺が会いに行く」
「あんたが?」
「チヨは会いたくないらしい。式も挙げへんし、はがきでも送っとけ言うてたけど、そんなわけにもいかんやろ。取りあえずチヨには内緒で、挨拶だけしてくるわ」
複雑そうな表情になってしまった母親を見て、申し訳ないと淳は思った。親として子供の結婚に夢を膨らませていたかもしれない。淳たちの結婚は、書類を作って引っ越しするだけの愛想なし婚である。
「ところで、チヨちゃんからプロポーズって言うてたけど、どういうことやの」
さっきまで暗い顔をしていたのに、今度は母の目がキラキラとしている。ワイドショーを見るときの顔だ。大阪のおばちゃんにロックオンされたからには、洗いざらい吐かされる運命である。淳は覚悟を決めて尋問を受けることにした。
「まあ、きっかけは妹の引っ越しで部屋が空いたからやけど。同居したら家賃が浮くことを考えてるうちに、スイッチが入ったんちゃうか。自分でもびっくりしてるはずや」
「なんや、そのスイッチって。結婚願望が強かったとか?」
「いいや、その逆や」
淳がキャベツとタネを混ぜ合わせる。昆布の出汁と山芋を少量合わせて、薄口醤油であっさり味付け。ふるった薄力粉をさっくり混ぜ込み、ここへ刻みねぎと天かす、重曹をひとつまみ入れるのが海東家のレシピだ。
「いわゆる年頃の女の子の結婚願望は、全くなかったんちゃうかな。ただ、家庭に対するコンプレックスが強い。たった一人の身内やった妹が家を出ることで、抱え込んでた家庭への憧れが暴走したんやと思う」
「しんどそうな家庭環境やもんな。よう歪まんと育ったと思うわ。私、あんたから聞いたとき、チヨちゃんの親を殴りに行ったろかと思ったもん」
「俺がチヨに惹かれたのも、そういう部分がきっかけやった。最初、尊敬から入ったんや。すごい女やな、って。チヨの家のことに関しては、あっちの親が120%悪い。せやけどチヨはその境遇と闘って、将来の目標に向かってフル回転しとった」
母は副菜の春雨サラダを作りながら、黙って息子の話を聞いている。淳が使ったボウルをちゃんと洗って始末しているところを見ると、普段から料理をしていることが伺える。知らない間に成長した我が子の姿が、嬉しいような切ないような、複雑な気持ちだ。
「それに引きかえ俺なんか、自分で掘った穴にはまって拗ねてたしょうもないガキやったからな。せやけど、チヨのお陰で目が覚めてん。ちゃんと自分に向かい合って、前に進まなあかんって」
思いもかけず息子から反省の言葉が出て、母の手が止まった。淳が洗い物を終え、タオルで手を拭いて母の正面に立つ。
「後で親父にも謝るけど、二人にはさんざん迷惑かけたし、反省してる。ほんま、すいませんでした。そして、俺はもう大丈夫やから、心配せんといて」
そう言うと淳は、気をつけの姿勢から深々と頭を下げた。その姿を見て淳の母親は、息子が自分たちの手を離れたことを知った。
夕暮れに夜が混じるころ、弟の正哉が帰宅して、海東家ではにぎやかなお好み焼きパーティーが始まった。取りあえず父母ともに二人の門出を応援するという事で話が落ち着き、ビールが空くのも早い。鉄板の上では豚玉、イカ玉、そして秘伝の牛すじとねぎのお好み焼きが次から次へと焼かれ、なんと正哉は6枚、淳も4枚をぺろりと平らげた。
「兄ちゃん! チヨさん! おめでとう」
もう何度目かわからない乾杯をする正哉は、少し酔っているようだ。20歳なので一応成人ではあるが、まだまだ酒はお前に負けんぞと、淳が変な兄貴風を吹かせている。体格と筋力では対抗できないので、せめてもの優越感を味わいたいらしい。
「いやー、嬉しいわ、チヨさんがお姉ちゃんになるなんて。俺、遊びに行ってええ?」
「おい、遠慮せえや、チヨのマンションやぞ」
「いいじゃない、狭いけどおもてなしするよ。あっそうだ、大事なこと言うの忘れてた」
そこで淳の箸が止まった。彼も今まで忘れていたようだ。もじもじしながらどう切り出そうかと悩んでいるうち、隣にいるチヨがさっさと宣言してしまった。
「戸籍の件なんですが、淳くんに改姓してもらうことになりました。諸々の手続きなど考えたら、そっちの方がスムーズですので」
じゃんけんで決めようとチヨから提案された改姓の件は、じっくり考えた結果、淳が瀬川になると決めた。二人で生活することに意義があるのであって、慣習より実を取る方がいいと判断したのだ。
「ええっ」
せっかく納得してくれた両親が、再び拒絶モードに入りかけた。そのムードをクリーンヒットしたのは正哉だった。
「ええやん、ええやん」
調子に乗ってストロング酎ハイを飲み始めたらしく、テンションは絶好調である。同じ兄弟なのに、この明るさの差は何なのだろう。さらに正哉は続けた。
「今どき珍しくないやん。チヨさん、マンションも車も持ってはるし、会社の厚生年金に入るんやろ? ほんなら兄ちゃんが改姓した方が都合ええやん」
「せやかて、淳は長男やで」
父が「とんでもない」という顔で反撃に出るが、正哉の迎え打ちの方が理論的だった。
「長男とか次男とか、家制度が終わって何年経ってるんや。男も女も権利は同じやで。嫁にもらうとか婿養子とかいう言葉も死語や。一組の男女が平等な権利を持って、新しい戸籍を作るのが現代の結婚やで」
「法律上はそうかもわからんけど、普通は女性が男性の名前になるんちゃうの」
母がそう言い出したところで、今度は淳が割り込んだ。
「以前は俺もそう思ってたけど、よう考えたら意味がないことに気づいたんや。俺が瀬川になって、何か損することあるか? 誰かの寿命が縮むか? ないやろ? 逆に俺がチヨの名前になるなら、あれやこれやの手間が省ける。それだけのことや、こだわる方がおかしい」
息子二人に攻め込まれて、とうとう両親は黙ってしまった。チヨはその光景を見ながら、彼らが納得していないことに気づいていた。親と子の価値観の違いは、簡単に埋まるものではない。だからこそ、自分たちのこれからの生き方を見て、納得してもらうしかないのだ。
お好み焼きパーティーが終わって各人が順に風呂に入り、さあ寝ようかという段になって、寝室に夫がいないことに淳の母が気づいた。呼びかけると、縁側に座っていた。雨戸も閉めずに、ぼんやりと夜空を見上げている。
「お父さん、寝ぇへんの。そんなとこおったら、蚊に刺されんで」
「なんや知らん間に、時代が変わってたな」
なるほど、息子たちに色々言われて落ち込んでいるらしい。まだまだ社会の中心だと思っていたようだが、新しい波が自分たちの時代を押し流していくのを実感したのだろう。
「当たり前やん、うちらの時かて親世代の考えとは違ったわ。あんた、さんざん自分の親に時代遅れや言うて反抗してたん、忘れたんか」
バツが悪そうに頭をかく父の隣に座り、海東家のラスボスがニヤリと口角を上げた。
「まあ、信じて見守ってやろうやないの。コケたときに手を差し伸べるんが親の仕事や」
この翌日、関西地方に梅雨明け宣言が出された。チヨと淳の大坂夏の陣、取りあえず第一関門突破である。




