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「お前、まさか……、このドアホ!」
二人が結婚の意思を伝えた後、淳の両親は10秒ほど固まり、おもむろに父親が立ち上がって淳の胸ぐらを引っ掴んだ。
「ちがいます、ちがいます! 私、妊娠してませんから!!」
放蕩息子が彼女連れで帰って来て、いきなり結婚することになったと言う。親にしてみればてっきり「できちゃった」のかと勘違いするのも仕方がない。チヨは慌てて二人を引きはがし、頭から湯気が出そうな淳の父に待ったをかけた。
「私が結婚したいんです、私が淳くんにプロポーズしました!」
再び父母がフリーズし、やがて同じ言葉が同時に出た。
「こんなんで、ええんですか?」
なんとか落ち着いて話を聞いてもらえたのは、淳の父がビールを1本飲んだ後だった。昼食どきだったが、飲まずにいられなかったようだ。反対に母親は落ち着いたもので、鼻歌を歌いながら食卓に皿を並べている。いざという時には昔から肝っ玉が据わっているらしく、さすがに淳が「海東家のラスボス」と呼ぶだけのことはある。
「昼やし、かんたんに素麺ゆがいたわ。天ぷらあるからええよね」
「美味しそうです、この赤いのは何ですか?」
天ぷらの中の見慣れない赤い食材を、チヨが珍しそうに眺めている。母の代わりに淳が答えた。
「紅しょうがや。東京ではあんまり見かけへんけど、大阪はよう天ぷらにすんねん」
「えーっ、初めて見た!こんな大きな断面の紅しょうが、あるんだね」
「刻んでかき揚げにすることもあるで。まあ、食べてみ」
いつもは仏頂面の息子が、チヨの皿に天ぷらを取り分け、そうめんのつゆに薬味まで入れてやっている。淳の父母はその様子を呆気に取られて眺めていたが、そのうちどちらともなく顔を見合わせた。もう彼は、思春期をこじらせていた頃の淳ではない。息子のそんなやわらかな表情を見たのは、彼らにとって久方ぶりだった。
やがて、やっと父が結婚についての話に踏み込んだ。ビールの魔力が効いたようだ。
「お前、仕事はどないすんねん」
「その事やけどな、就職はちょっと先になると思う」
「はあ?」
「実は来年から大学に復学しようと思ってる。それと、夜間で専門学校にも通う予定やねん」
「お前、そしたら生活どないするんや、チヨちゃんに養うてもらうんか!」
「ちょっと、お父さん、大きな声出さんといて」
せっかく落ち着いていたのに、また興奮しかけた父を母がなだめる。チヨも生活費の折半の話や、扶養による保健や年金の軽減を説明したが、どうにも昭和の父には納得できない話だったようだ。
「そんなん、チヨちゃんにおんぶにだっこやないか。そんな無責任な話があるかい!」
「あんたが就職してからじゃあかんの? チヨちゃんの親御さんにも申し訳ないやろ」
理屈としては理解できても、彼らの世代には通念として受け入れられないのだ。淳が正社員となり、月々の給料が安定してからではないと、賛成しかねると言うのが二人の意見だった。
「きっと驚かれると思ったし、お二人の価値観と違うのはわかってます。でも、私は淳くんが就職してようが無職だろうが、どっちでも構いません。むしろ、やりたいことがあるなら、応援したいと思っています」
「俺かて、このまま無職でおるつもりは毛頭ない。どっちみち将来は一緒になるつもりやったし、それが前倒しになっただけやで」
しかし結局、両親を納得させることはできず、いったんお開きにしてまた後ほど話をしようという所に落ち着いた。やがて父は急ぎの納品分を片付けるため工場へ入り、母は近所の寄り合いに出かけてしまった。淳とチヨは夜行バスの寝不足を補うため、しばしの仮眠を取ったのだが、さすがにいくら図々しいチヨでもよその家で熟睡には至らず、うとうとしているうちに窓の下の物音に気付いた。
淳の父がケイシーにリードをつけている。今から散歩に出るのだろう。チヨはぐっすり眠る淳を起こさないよう、足音を潜めて階下へ降りた。キッチンでは外から帰ってきたばかりの母親が、買い物袋を広げている。
「お父さんはケイシーの散歩ですよね」
「うん、玄関を出て左にまっすぐ行ったところに公園があるんよ。たいていそこにいてるわ」
「私もちょっと行ってきます」
「ふふっ、それがええわ。あの人、言い方は荒いけど気ぃはやさしいから。チヨちゃんの気持ち、ちゃんと話してみてごらん」
「あの……、お母さんは反対ではないんですか」
「そりゃあ、本音を言うたら息子が就職してからの方が心配はないわ。せやけどまあ、二人が幸せならそれがいちばんやとも思うてる。それにうち、男の子ふたりやし。チヨちゃんが淳のお嫁さんになってくれるなら、念願の娘ができるやろ」
そう言うと淳の母はふわっと笑った。その顔が淳にそっくりで、ちょっと泣きそうになったので「公園に行ってきます」と言って、チヨは玄関を飛び出した。
母が言った通り、淳の父とケイシーは公園にいた。ベンチに座った飼い主の周りを、リードいっぱいの距離でケイシーが探検している。チヨは「お邪魔します」と言ってベンチの隣に腰かけた。父は前を見たままふーっとため息を吐き出し、長い沈黙の後、ようやく申し訳なさそうな顔でチヨの方を向いた。
「チヨちゃんとのことを、反対してるわけやないんやで」
「わかってますよ」
「なんかなあ、自分らの頃は社会的に自立することが、結婚の条件やったからな。半人前が嫁さんもろうて、どうやって生活が成り立つんやって思うし、復学やら専門学校やら眠たいこと言う前に、男やったら死に物狂いで働かんかい、と思ってしまうんや」
親世代の感覚では、そう思うのも仕方ない。収入は男性の一馬力、家事と育児は女性のワンオペ世代である。チヨはそれを否定しない。そうしたい人たちはそれでいい。ただし、一律に強制されるものではなく、あくまでも選択肢の一つである。チヨと淳は、自分たちで選んだ人生の形をつかみ取っていくつもりだ。
「うちの家族の話は、ご存じですよね?」
いきなりチヨの家族の話題になり、淳の父が戸惑いを見せた。デリカシーのない聞きたがり屋以外は、気を使ってしまうテーマである。チヨは相手に負担をかけないように、努めて明るい口調で話し始めた。
「うちは社会常識とか、伝統的な家族の概念とか、それにこだわってダメになった家なんです。おばあちゃんが頑固で、女は専業主婦で当然、男児を生まなきゃ嫁失格、っていうような前時代的な人でした」
「嫁姑問題、ちゅうやつか」
「いやぁ、父ですよ、諸悪の根源は。母が追い詰められてるのに、知らんぷりしてたんですから。うちにはうちのやり方がある、って堂々と貫けばよかったんですよ」
「だから」と、チヨがビッグな三日月スマイルを浮かべた。
「私は、いつか自分の家族を持つときは、たとえ世間の普通と違っても、他人に迷惑をかけない限り、自分たちの幸福を優先すべきだと思うようになりました」
父は黙って聞いている。老犬ケイシーも疲れたのか、地面にぺたりと座り込んでいる。
「淳くんとの結婚に関しても、私から言い出したことですけど、書類にはこだわってないんです。なんなら、籍を入れなくてもいい。二人がお互いの生活を持ち寄って、尊重しあいながら暮らしていければ、私は満足です。でも」
「でも?」
「ほら、保険とか税金、高いじゃないですか。どうせこの先ずっと一緒に暮らすなら、行政のシステムは有効利用しないと損です!」
そこで現実味のある損得勘定が出てくるのがチヨである。大阪のオバチャンにも負けないチャッカリした物言いに、思わず父が噴き出し、つられてチヨも笑う。それで雰囲気がほぐれたのか、前から聞いてみたかった質問が、父の口から転び出た。
「チヨちゃんは、淳のどういうところがよかったん?」
いきなりの振りではあったが、暴投キャッチはチヨの得意分野である。「やだ~、照れる~」と言いながら、遠慮なくのろけを垂れ流し始めた。
「仏頂面してても、人の好さが漏れちゃうところですね。最初は何てムカつく男だと思いましたけど、彼は人が弱ってたら見捨てておけないんです。情が深いというか。学校に戻るのを決めたのも、私を守るためですよ」
「チヨちゃんのため?」
「はい。正社員の求人に応募しても、どこも履歴書で落とされてしまうんです。しかも映像分野だと専門性も重要になってきますから、映像がやりたいだけの学歴なし素人なんて、お呼びじゃないわけですよ。まあ、身から出た錆ですけどね」
さっきまで甘いことを言っていた口が、一転手厳しい評価を下す。いいところと同時に、ダメなところも把握していることに、淳の父は一種の安心感を覚えた。もう彼女は自分の息子を、運命共同体として認識しているのだ。
「専門学校に行くのは肩書のためだけじゃなくって、現場をより深く知るためです。そして大学への復学は保険です。もしかしたら、夢を断念せざるを得ない時が来るかもしれない。その時は大卒であれば有利に仕事を得られます」
「それが、チヨちゃんのため?」
「彼、一人だったらきっと決断してませんでした。私との未来を考えてくれたから、その答えにたどり着いたんだと思います。だから私も精一杯応援したいんです。私たち、嵐の中から出航しますけど、絶対に沈没しないよう頑張りますので、どうかよろしくお願いします」
そう言ってチヨは立ち上がり、きれいな姿勢で深くお辞儀をした。長い髪がさらりと垂れ、沈みかけてきた夕陽に染まる。それを見ながら淳の父は、あの偏屈息子を変えたのはこの女性なのだなと確信した。




