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「わはは、やっぱりチヨちゃんは只者じゃねえな!」
あれからいくら考えても頭の中がまとまらない淳は、人生の大先輩の訓示を求めてエンジンさんの病室にやってきた。表向きは見舞いという体だが、実際はお悩み相談である。
エンジンさんはクランクアップの後、急激に体力を失い、しばらく入院した後でホスピスに移った。本人の希望で延命治療は行わず、今は緩和ケアの毎日である。家族も間もなく訪れるその時を静かに受け入れているようで、淳の訪問を喜び「ごゆっくり」と席を外してくれた。
久しぶりに見るエンジンさんは、ますます小さくなっていて、しかし表情はとても穏やかだった。目が見えにくくなっているので、なるべく近くに椅子を寄せて、淳は昨日の話を洗いざらいぶちまけた。先程の高笑いは、それを受けてのエンジンさんの反応である。
「いや、もうどうしたらええんか。何しろ仕事もないのに、結婚やなんて」
「嫌か?」
「嫌じゃないですよ、むしろ将来的にはそうしたいけど……」
先日、最後にチヨが落とした爆弾は、名前についてだった。淳は日本の通例として、チヨが改姓するのだと思っていたのだが、
「もし結婚するとしたら、どっちの苗字にするかは、公平にじゃんけんで決めよう。私が名前を変えると会社の手続きがややこしくなるし、マンションとか車の名義とか、投資信託の口座名まで変えないといけないから、できたら変えたくないなぁ」
そう言ってチヨはビッグな三日月スマイルを咲かせた。
会社員であり財産を有するチヨの方が、改姓で発生する損失が大きいのは理屈としてわかる。しかし、夫が妻の姓になる率は、日本ではわずか5%ほどだという。きっと周りからは理由を聞かれるだろう。その前に、自分の親が納得しないのではないか。そう考えていると、エンジンさんに図星をつかれた。
「世間にどう思われるかが心配か?」
「まあ……、全く気にしないと言えば嘘になりますけど」
「別に他人からどう思われようが、経済的にも楽になるし、好きな女と暮らせるし、いいことづくめじゃねえか」
そう言われて考え込んでしまった。エンジンさんが言うように、プラスにはたらくことばかりのはずなのに、なぜ自分はチヨとの結婚を戸惑っているのか。それは単なる世間体の問題なのか。考えるほどにもやもやして気持ちの実態がつかめない。
「男のプライド、沽券にかかわる、というやつだろ」
違います、と言いたかったが否定できなかった。そんな古臭い価値観など自分には無縁だと思っていたが、いざ結婚となると思いのほか保守的な考えであることに気付かされる。
淳の両親は共稼ぎではあるが、あくまでも父が主であり母は従だ。それに疑問を持たずに育ってきた。片やチヨは因循姑息な家族の在り方と闘い、対等なパートナーシップを理想としている。その価値観の差こそ、淳の中で躊躇の原因となっている気がした。
人には相談してみるものだ。無意識の中に埋もれているピースが引き出され、パズルのように自分で認識していなかった本音の形が見えてくる。
「なあ海東、結髪さんって知っとるか」
突然エンジンさんが脈絡のない話を振ってきて、思考が途切れた。知らないと言うと「そうだろうな」と笑われた。
「髪結い。役者のかつらを結う仕事で、死んだ嫁さんが結髪師だった。見習いだったころに時代劇の撮影所で知り合ったんだが、金がなかったんで結婚して8年くらい向こうの実家で居候してたよ」
エンジンさんは現在77歳。たぶん50年くらい前の時代だろうから、今よりもっと男女の関係は封建的だったはずだ。淳が驚いた顔をしていると、エンジンさんがニヤリと口の端を上げた。
「結婚したのが、俺が19歳で嫁さんが20歳。半人前がふざけんな、って周りからは散々言われたが、嫁さんは自分は手に職があるから、あんたは好きなようにやってみな、って言ってくれた。まさに『髪結の亭主』だよ」
そこでエンジンさんは言葉を切り、枕元のタオルで目を押さえた。思い出が目から溢れてきたようだ。やがて、少ししわがれた声で
「そのお陰で、今の遠藤甚八がいる」
と、つぶやいた。チヨの顔が頭の中をぐるぐると回る。いつだったか、エンジンさんがチヨのことを自分の妻に似ているといったことを思い出した。
「なあ、海東。お前が思っているより、世の中にはいろんな人間がおるし、夫婦だっていろいろだ。そしてそれは、他人があれこれ言うことじゃない。かえって自分のものさしを押し付けてくる連中ほど、いざというとき助けにならんものさ。だから、まずは周りの雑音は気にせず、お前とチヨちゃんがどうしたいのか、そこだけを考えてみろ」
曇っていた空に、薄日が差すような感覚だった。違う場所で生まれ、違う価値観を持って生きてきた一対の男女が、長い人生を共にする。いちばん大切なのは、二人の目指す生き方であって、世間に寄り添うのはそれが固まってからでいい、とエンジンさんは笑う。
「もう一回、チヨと話し合ってみます」
淳は晴れ晴れとした気持ちで病室を出た。外野の雑音や思い込みを取り払って考えてみれば、非常にシンプルな問題だったことに気づく。チヨと出会って3年、閉ざしていた心を開き、進むべき道を見つけ、淳の世界は大きく変わった。この先に何が待っているか予想もつかないが、彼女と二人で歩いていきたいことだけは、はっきりしている。
エンジンさんの訃報が届いたのは、その翌週のこと。家族に見守られ、眠るように旅立ったという。淳は知らせに驚いたものの、穏やかな気持ちだった。これでようやく奥さんとゆっくり一緒にいられるのだ。
翌々日、淳はチヨがどこからか借りてきてくれた喪服に身を包み、二人で葬儀に参列した。チヨも黒無地のワンピースを着ている。今日は出勤だったが、シフトを誰かに代わってもらったらしい。
「エンじい、大好きだったから。せめて最後にありがとうを言いたいの」
そう言ってチヨが目尻に涙を浮かべる。時代劇の最盛期を支えた名カメラマンだっただけあって、エンジンさんの葬儀には往年の映画スターや大物監督も多く参列していた。中でも目を引いたのは、先日最後の仕事を共にした大迫監督で、じっと遺影を見上げ、静かに悲しみを噛みしめている様子だった。
福井さんと岸さんの姿も見えた。意外だったのは、岸さんが大泣きしていたことだ。そして、それを福井さんがなぐさめている。彼ら同期の間には、きっと他人にはわからない修業時代の絆があるのだろう。
こうして、粛々と別れの時は過ぎて行った。やがて出棺の見送りが終わり、淳とチヨが葬儀場を後にしようとしたとき、福井さんがバタバタと走ってきた。手に紙袋を3つ持っている。
「海東くん、ちょ、ちょっと待って」
福井さんの息が整うのを待って話を聞くと、エンジンさんから預かり物があるという。もう長くないとわかった時に、淳に渡してくれと頼まれていたそうだ。
「帰る前に間に合ってよかった、今日を逃したらいつ会えるかわかんなかったんで、葬儀場にまで持ってきちゃったよ」
そう言って福井さんが差し出した紙袋には、冊子のようなものが詰め込まれている。一冊手に取ってみると、表紙に「仇討ち勘三郎 碓氷峠の陣」と筆文字で書いてあり、その横には油性ペンで「エンドウ」の名が記されていた。
「福井さん、これ、もしかして」
「うん、エンジンさんの撮った映画の脚本。海東君に渡してくれって、頼まれてた」
年代を経て黄ばんだページをめくってみると、そこにはエンジンさんが書き込んだであろうカメラワークの指示がびっしりと見える。気がつけば淳は、葬式の最中には我慢していた涙をこぼしていた。
短い付き合いだったが、エンジンさんは師匠として多くのものを淳に与えてくれた。この古い脚本は、遠藤甚八が映画人として生きた証であり、無言の教えでもある。淳は台本に向かって深く頭を下げた。以後この脚本は、海東淳にとって生涯の教科書となる。




