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真美の話がスイッチを押したのかもしれない。チヨの中にこのところ、いきなり沸き起こったアイデアがあった。しかしそれは常識から考えると突飛なことで、しかも自分ひとりの問題ではない。それでも気持ちは日増しに膨らむ。日々くり返し悶々と悩みながら、チヨの想いは次第に圧力を増していった。
「あんた何これ、からっぽじゃないの」
淳のアパートに立ち寄ったチヨが、飲みかけのペットボトルをしまおうとして冷蔵庫を開け、見事なすっからかんを発見してしまった。淳が「しまった」という顔をしたが、時すでに遅し。仁王モードのチヨが腕組みをして言い訳を待っている。
「……、買いもん行く暇なかったんや」
チヨの仁王モードが解除されない。淳は正直に吐くことにした。彼女に隠し事はできないことを、数々の失敗の中から学習したのだ。
「バイト代が入るん週末やから……、今日のデート代を取っとこうと思って」
「もしかして、ごはん食べてないの?」
「ちょっとは……食べた、けど……」
「かーっ!」
ご意見番のような声を上げて、チヨが車のキーをつかんだ。
「今日のデートは中止! うちへ移動!」
淳はそのまま車で5分のチヨ宅へ連行され、二日目のカレーという至高の一品をご馳走になった。しかもゴージャスなことに温泉卵のトッピング付きである。まともな食事は久しぶりだったので、淳は遠慮なくおかわりをして、冷凍のごはんストックまで食べつくした。
「あかん、もう破裂する」
淳はデザートのバナナを1本食べて、チヨのベッドに引っくり返った。やはり、よほど空腹だったのだろう。そういえば少し痩せたような気がする。チヨが就職してから会う機会が減ったため、今ようやく気がついた。
そんな淳をぼんやり見ているうち、チヨの口から自分でも思いがけない言葉がこぼれてしまった。心に閉じ込めていた想いの圧が、限界に達していたのかもしれない。
「ねえ、一緒に住まない?」
言った本人も言われた方も、固まってしまった。やがて淳がむっくりと体を起こし、豆鉄砲を喰らったキジバトのような顔でチヨを見た。
やらかしてしまった事を一瞬悔やんだチヨだが、次の瞬間には覚悟を決めた。何日も悩んで、結局答えが出なかったのだ。どうせチヨも淳に隠しごとはできない。ならば、セコい言い逃れをするよりも、本音でぶつかってみる方がいい。
「ははは、ごめん、いきなり。びっくりさせちゃって」
「いや、まあ、驚いたけど」
「ここしばらく考えてたことがあるの。取り敢えず聞いて?」
淳がベッドから降りてきて、チヨは湯を沸かしてほうじ茶を淹れた。それを二口ほど飲んだところで、ふーっと息を吐いてチヨが話し始めた。淳は黙って聞いている。
「真美がこの家を出ることになったの。部屋がひとつ空くから淳が引っ越して来くればいいのに、って思ったことが、そもそものきっかけ」
それは淳にとっては願ってもない申し出であった。単身者用の古アパートとはいえ、月に7万円の家賃が浮く。しかし無職の男が恋人の家に転がり込むなど、図々しい上に世間体も悪い。そう考えて戸惑っている淳の前で、チヨが少しもじもじしながら、やがて思い切ったように次の言葉を紡いだ。
「それで……、いろいろ考えてるうちに、どうせなら淳が……私の、扶養に入ったらどうかって思ったの」
「はあ、扶養?」
社会のシステムに疎い頭で考えてみたが、扶養といって思い浮かぶのは両親の顔である。つい先日、エーサンをやめたときに大見得を切って親の扶養から外れた。お陰で保険や年金など大変な出費になったのだが、チヨの扶養に入るとはどういうことか。
意味が分からず黙っていると、チヨの耳が真っ赤になっているのが目に入った。これは彼女にとって「赤面」と同じ現象である。
「ああ、やっぱり鈍すぎる」
「いやいや、扶養って。どういうこっちゃ」
「だから!」
チヨが耳だけではなく頬まで真っ赤にして立ち上がった。淳はデジャヴを感じた。確か二人が付き合い始めた時も、このキッチンのテーブルでこうしてチヨに鈍感だと怒られた。その記憶が呼び起こされ、ようやくチヨが何を言わんとしているかわかった瞬間、彼女の口からその言葉がこぼれ出た。
「あたしたち、結婚しないか、って言ってるの」
今度こそ淳が固まってしまい、チヨは静かに腰を下ろした。反応できなくても仕方ない。まさかそんな話になるとは思ってもみなかったはずだ。
「……結婚、て。俺、いま無職やで?」
淳がようやく声を絞り出した。普通そう考えるだろう。学校を辞めてアルバイトで食いつなぎ、将来の仕事のあてもまだない。配偶者どころか自分を養うにも足りない現状なのに、結婚など考えられないのが当たり前である。
しかしチヨはそんな誰かが決めた「当たり前」に縛られる女ではなかった。
「わかってるわよ、だから言ってんの」
「いや、生活費とかどうすんねん」
「結婚したら今より少なくなるわよ」
現在住んでいるマンションは、チヨの名義で家賃はタダ。さらに会社員であるチヨの夫として扶養に入れば、収入が一定以下なら健康保険や年金など、様々な控除が受けられる。淳は真美がそうしていたように、食費と水光熱費の折半分として月に5万円入れるだけだ。ただし当然ながら家事は平等にやる。淳だけでなく、チヨにとっても全くデメリットはない。
結婚すると金がかかるというが、結婚式や新居の準備などをせず、役所で書類を提出するだけなら交通費と書類の手数料だけで済む。それは昔経験したことなので淳にも理解できる。しかし、チヨとの結婚をこんな形で進めたくなかった。
「結婚式したいとか、ウェディングドレス着たいとか、ないんか? 女やし、いろいろあるやろ、結婚に夢が」
チヨのことは心から好きだし尊敬している。いつか二人で暮らせたらいいなと思ったことは何度もある。しかしそれはもっと先の話で、自分がしっかり社会に認められて、彼女に不安を与えない立場になってからだ。過去にひどい失敗をしているだけに、チヨとの将来は堅実に歩んでいきたい気持ちが強い。
「セレモニーには興味がないの。私、家族にいろいろあったから、ちょっと結婚観が人と違ってるかも。何て言うんだろ……、結婚することが目的というより、家庭が欲しい。安心して笑って暮らせる、居場所が欲しい」
チヨの母が理不尽な処遇に耐えたのは、それ以外に生きる術がなかったからで、チヨはそうなりたくないと思っている。そのため独立心が旺盛で、一方で家庭に対する憧れが強い。彼女にとっての心地よい居場所、それは家族がお互いを尊重し合って対等に暮らすことだと言う。
「それが、私の場合は淳なの。言っとくけど、確かに今は淳が無職で、国の制度を利用するチャンスだけど、それは単なるきっかけで。経済的にトクだから結婚したいと思ったわけじゃないから」
「わかってる」
「淳を養う気もないし、養われる気もない。二人で助け合って、いろんな事を分かち合ったり、ピンチを乗り越えていける対等なパートナーでありたい」
淳は無言で頷いた。チヨの言わんとすることはわかる。同居の件を考えるうち、長年無意識に抱え込んでいた家庭への願望が具現化してしまったのだ。その対象が自分であることは正直とても嬉しかった。
この先、チヨ以外の女性と一緒になる未来は考えられないし、だったらスタートするタイミングにこだわる必要はないというのも理屈ではわかる。それでもまだ頭の中は混沌としていた。
「ありがとう、そう言うてくれたんは、素直に嬉しい。ただ、ちょっと考えがまとまらん。きっちり答えを出したいから、ちょっと時間くれるか」
「もちろんだよ、急に言われてもピンと来ないよね。自分でも突拍子もない提案だという自覚はある。一生のことだからよく考えてみて。もちろん、私が勝手に考えてるだけだから、スパッと断ってもらって構わない。それで私たちの関係が変わるわけでもないし」
言いたいことを言い終えて安心したのか、チヨは冷めてしまったほうじ茶を一気に飲んで、ふーっと息を吐きだした。そして、一呼吸置いてはっと目を見開き、
「そうだ、大事なことを言うの忘れてた」
と淳に告げた。実はその内容こそが、淳にとっては結婚や扶養より受容しかねるものであり、数日にわたって彼を悩みの淵へと追いやったのであった。




