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慌ただしく日々が過ぎて行った。社会人一年目のチヨは、アルバイトの時とは違う支店に配属され、家からの通勤時間が長くなった。さらには部門がレセプションなので、6月からは夜勤が始まった。深夜に仮眠休憩があるものの、変則的なシフトになかなか体が慣れず、睡眠不足に悩まされる毎日だ。
一方、淳は23歳を迎え、相変わらず就職先を探して走り回っていた。エンジンさんのアシスタントが終了した時、ボーナスを加算した手当てを受け取ってはいたが、底をつくのはあっという間だ。福井さんやツキちゃんの紹介で臨時のヘルプに入ることはあったが、就職となるとハードルがぐっと上がる。
かと言って、以前アルバイトをしていたようなスタジオに雇われるのも嫌だった。エンジンさんの見せてくれた一流の世界を知ってしまっただけに、ど素人の見習いでありながら目が肥えてしまったのだ。それはすなわち、淳にそれだけの眼力がある証拠でもある。
「あんた、ちゃんと食べてんの」
「食うてるで、心配ない」
休みが合わず、ようやくこぎつけたチヨ宅デート。その最中、チヨが淳の様子を見て心配そうな表情を見せた。ここ数日、確かに体調はいまいちだったが、せっかくの逢瀬である。淳はカラ元気を出してチヨに笑顔を作った。しかし、伸びてきたチヨの手のひらが淳の額にぺったりと貼りつき、キッと眉根がしかめられた。
「ちょっと、熱があるじゃないの!」
そのままチヨは淳をベッドまで引っ張り、ジーンズを脱がせて布団に押し込んだ。久々に会ったのでロマンチックな展開を期待していたのだが、今のチヨは実家のおかんモードである。体温計を片手に戻ってきて枕元に座り、淳の前髪をそっと指で梳いた。気持ちがよくてうっとりする。
「今日はこのまま泊まんなさい。でも明日、まだ熱が引いてなかったら病院に行くのよ」
「いま保険証ないから頑張って寝て治すわ」
「え、保険証ないって、どういうこと。病気やケガの時どうすんの」
学校をやめた時に親の扶養から外れたのだが、そのままアルバイトを始めてしまい、まだ保健や年金などの手続きをしていない。だんだん億劫になって腰が上がらないのだというと、チヨが目をむいて怒りだした。
「ばかたれ、大事なことでしょうが。親に大きなことを言って勝手するんだったら、自分の始末くらい自分でつけなさいよ!」
看病されているのか説教されているのか。チヨいわく、公的な支払いには免除の条件などもあるので、ちゃんと手続きをしないと後で損することがあるとの事だった。この間まで学生だったのによく知っているなと感心していたら、常識だよと返された。2年長く生きているだけではない、人間としてのレベルの差を見せつけられたような気がして、淳はぐったりと目を閉じた。
数日後、チヨが早めに不調に気づいてくれたおかげで、淳はすっかり元気になった。しかも翌朝起きたらチヨが「やることリスト」を作っていてくれたので、その通りに役所を回って一通りの社会的な手続きを整えることができた。チヨ様さまである。しかし、いくら免除や減額があるとはいっても、家賃と食費は稼がねばならない。淳は正社員募集の面接にトライしながら、細々とアルバイトで食いつないだ。
一方、チヨはそんな淳の生活状況が不安で仕方なかった。学校をやめた時点でイレギュラーな暮らしになるのはわかっていたが、それだからこそ社会的な構えは大切である。あまり自分が出しゃばるのもどうかと抑えていたが、予想していたよりはるかに淳の生活能力は低いようだ。
「瀬川さん、交代です」
この日は夜勤で、チヨの休憩時間がやってきた。ロッカールームの中にあるカーテンで仕切られた仮眠室で、2時間休めるようにはなっているが、実際は熟睡などできない。しかも他の社員は数日間続けて日中勤務か夜勤、その後が休日というシフトになるのに、チヨだけ昼夜が交互に組まれることが多いので睡眠リズムはガタガタだ。
あまり人を疑いたくはないが、もしかすると例の研修の時にやりこめた先輩の仕業か、などと穿ってしまう。彼は現在、シフトを管理する人事部のマネージャーなのだ。しかしそれでも決まったシフトは守らねばならぬ。体力温存のため、チヨはベッドに横になり、無理やり目をつぶった。
正社員の募集にまた落ちた。3回目である。淳は大きなため息を吐き出し、駅のベンチに力なく腰掛けた。ようやく面接にまでこぎつけても、大学中退で専門技術もない人間に、そうそうチャンスは回ってこない。やはり雑用のアルバイトから正規雇用のチャンスをつかむしかないのか。取りあえず今はツキちゃん紹介の雑用係をやっているが、せいぜい週2回ほどの不定期である。家賃を払えばすっからかんになってしまう。
「あー、腹へった」
チヨにはちゃんと生活しているとは言ったが、先行きが不安なため食費をかなり切り詰めている。就職活動を続けながら、レギュラーで入れる居酒屋などのアルバイトを探そうかとも考えたが、それでは横道にそれてしまいそうだ。淳は「よしっ」と自分を激励して立ち上がると、正社員募集をしている会社探しを再開した。
そんなある日、チヨに大きな出来事があった。最近は生活サイクルが合わずになかなか妹の真美と話す時間もなかったが、仕事から帰ると何やら美味しそうな匂いがしている。キッチンへ入ると真美が煮物を作っていた。料理が苦手な妹にしては珍しい光景だ。
「あんたが料理なんて珍しいじゃない」
「一緒にご飯食べようと思って。おねえちゃんに話があるの」
「なによ、改まって」
「まあまあ、熱々のうちに食べてよ。美味しいかどうかわかんないけど」
食卓に肉じゃが、キャベツのサラダ、味噌汁が並べられた。スマホでレシピを見ながら作ったという力作は、初心者にしてはとても上手にできていた。チヨは何だか嬉しくなって、何度も美味しい美味しいと言いながら平らげた。
「そろそろ聞こうか、話」
食後のお茶を飲みながら切り出したチヨに、真美がさらっと爆弾を落とした。
「彼と一緒に住むことになったの」
いきなりのことで呆けるチヨに、真美は淡々と事情を説明した。真美には大学時代から3年ほど交際している相手がおり、年は7歳上。アルバイト先の店長であったが、昨年から転勤で九州へ行っていた。しかし間もなく東京の本社に栄転で戻ってくるため、そのタイミングで一緒に暮らすことにしたのだという。
「それって……、結婚するってこと?」
「いずれはそのつもり。でも、私まだ就職したばかりだし、何年かしたらね」
「そっか、よかったね」
なんだか妹が急に大人びて見える。彼女はチヨにとって瀬川家の空中分解で残った最後の家族であり、辛い時期をともに闘った戦友でもある。そんな妹の新しい生活を応援したいのと同時に、一抹の寂しさがこみあげてくる。いつかはこんな日が来ると想像していたが、いざとなると複雑な心境だ。
「私、おねえちゃんにお礼が言いたいの」
「えー、何のお礼よ」
「守ってくれて、ありがとう」
思いもよらない言葉が返ってきて戸惑うチヨに、真美がふっと笑いかけた。あまり似ていない姉妹だと言われるが、笑ったときに口角がキュッと上がるところはそっくりだ。
「お父さんとお母さんがいろいろあった時、おねえちゃんが守ってくれたよね。おばあちゃんに色々言われたときも、叔母さんの家に引っ越すときも、おねえちゃんが大丈夫だよって言ってくれて、お陰でちゃんと受験もできた」
父母が不仲から離婚したとき、真美はまだ中学生だった。高校受験を控えた彼女を動揺させないよう、チヨは家では勤めて明るくふるまったのだが、そのストレスで自身が心のバランスを壊してしまった。そんな姉の精一杯の思いやりを、真美は幼いながらに感じ取っていたらしい。
「おねえちゃんには感謝してるんだ。本当にありがとう」
そう言って真美はチヨの手に自分の手を重ね、ぎゅっと握った。チヨの耳が真っ赤になる。泣きそうになったが、無理に笑顔をひねり出した。姉としてのささやかな威厳は保っておきたい。チヨも真美の手を握り返した。
「特別なことはしてないよ、こっちこそ大雑把な姉貴でごめんね。真美がいなくなるとと寂しくなるなあ」
「おねえちゃんには海東くんがいるじゃない、ちょっと頼りないけど」
始めは胡散臭そうに眺めていたが、最近ようやく真美も淳の人柄がわかってきたようだ。頼りないのは仕方ないが、それはこれからどうにでもなることである。
「海東くん、いい人だと思うよ。おねえちゃんのこと、あんなに好きな人いないよ」
チヨの耳が再び赤くなった。愛されている実感は常にありまくりで、それが今のチヨを支えている。
真美は秋ごろには都内へ引っ越し、彼が戻ってくる前に生活を整えるという。姉妹で一緒に暮らせるのもあと数カ月。それまでに何度、こうして食卓を囲めるだろう。近いうち、真美の大好きなオムライスを作ってやろう。うんとうんと甘やかしてやろうと、チヨは思った。




