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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;4 もう、後戻りできない
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4-12



 深夜、チヨにLINEを入れた淳は、先ほどの出来事を洗いざらい伝えた。以前、不実な行いでチヨを傷つけたことがあるので、いつでも隠し事のないクリーンな状態でいたいのだ。



「俺は今夜、貞操を守ったぞ」



 胸を張って報告した淳に帰ってきたチヨの返信は、淳のほろ酔いを見事にぶっ飛ばすものであった。



「あはは、奇遇だね、あたしもだよ」






 チヨの研修は今日で5日目。明日が土曜で休日という事もあり、夕食の後で研修生同士の飲み会が企画されていた。親睦を深めるという目的だったので、チヨも気軽に参加したのだが、なぜか指導者として来ている先輩社員が仕切っている。これでは研修の続きみたいなものだ。


 しかし今さら部屋に戻るわけにもいかず、内心ではうんざりしながらも笑顔を張り付け、プラスチックカップのビールで乾杯をした。ちなみに場所は研修所のレクリエーションルームで、つまみはポテチと柿の種。他のメンバーも勘弁してくれという顔で並んでおり、やたらテンションの高い先輩社員の自慢話に、乾いた笑いで応えている。



 やがてビールがなくなり、ようやくお開きになったのが10時過ぎ。やれやれと部屋へ戻ると、ドアがノックされた。悪い予感しかしない。



「瀬川さん、いる?」



 さっきの先輩社員の声だ。チヨはドアチェーンをかけたまま、薄くドアを開いて「何か御用ですか」と尋ねた。感情がこもらない、機械音のような声だ。



「ちょっと、そんな用心しないで出てきてよ。飲みなおそうよ、俺、瀬川さんと話してみたいと思ってたんだ」



 こっちは全くお話したくない。曖昧にごまかすよりハッキリ断るべきだと判断し、チヨはビジネス口調で撥ねつけた。



「先輩、困ります。ここへは研修で来ていますので、個人的なお話は控えさせていただきます」



 しかし、酔っている勘違い男はしつこい。ドアの隙間が閉まらないように手をねじ込み、チヨを眺めてニヤニヤしている。本気で断っているのだが、通じていないらしい。



「ははは、瀬川さんは真面目だね。じゃあ、研修が終わったら飲みに行こうか。連絡先、交換しとこう」



 ドアからスマホがニュッと入ってきた。ディスプレイにQRコードが表示されているのを見て、チヨは吐きそうになった。



「いやいや、行きませんよ。お付き合いしている人に誤解されたくないので」



 なんでこんな阿呆にプライバシーを晒さねばならんのかと思ったが、しつこい男を撃退するにはいちばん効果的だ。思った通りドアの向こうで空気が固まり、



「誤解してるのは瀬川さんだろ、そんなつもりで言ったんじゃないのに。自意識過剰じゃないの」



 そう言って気配が去っていった。クズのくせに一丁前に捨て台詞なんぞ残しやがって。録音しとけばよかった。一気に疲れが噴出し、チヨはベッドに倒れ込んだ。その顛末を告げると、淳はかなり頭にきたようだ。



「せやから言うたやろ、用心せえって。下心がある男はどこにでもおるんや」


「やっつけたから大丈夫だよ。向こうだって仕事の上では普通にするしかないだろうし」


「わからんで、嫌がらせされるかもしれんで」


「大人なのに、それはないでしょ」




 そう笑い飛ばしたチヨであったが、敵は思ったよりも子供じみていた。なんと土日の間にチヨと同じ支店でアルバイトをしていた研修生から淳のプロフィールを聞きだし、当てこすりをしてきたのだ。



「瀬川さんの自慢の彼氏、フリーターなんだってね。いいな、自由で」



 しかし、それで負けるチヨではない。



「私が先輩にお伝えしていない個人情報を、なぜご存じなのか教えていただけますか? 場合によっては、人事部の社内コンプライアンス担当に報告しないといけません」



 さすがに先輩社員の顔色が変わり「ウワサだよ、ウワサ」と言い捨てて逃げて行った。もうこのネタでチヨに絡んでくることはないだろう。取りあえず次に何かあれば、容赦なく上にチクらせていただくつもりだ。






 その日、研修後にチヨは自室のベッドに大の字になって、淳のことを考えた。今ごろは何をしているだろうか。付き合い始めてから、こんなに長く会わないのは初めてだ。家が近いので、どんなに忙しくても週に2回は会える環境だったし、淳が撮影所に詰めていたときはチヨが差し入れを持って行った。それが当たり前になっていたせいで、もう10日も顔を見ていないのが寂しくてたまらない。



 いったいいつから、自分はこんな甘えん坊になってしまったのか。思えば子供のころから、ずっと気を張って生きてきたような気がする。体が大きかったこともあるが、いつもお姉さんポジションで、両親の不仲がわかる年代になってからは、さらにそれが強くなった。タフな振りをしなければ、心が折れてしまいそうだったのだ。



 チヨの両親の不仲は、父親の母、チヨと妹にとっては祖母の嫁いびりから始まった。内向的な母は心を病み、それなのに父は我関せず。耐えられなくなった母がチヨと妹を連れて家を出ようとしたが、祖母に阻止され母だけが実家に帰された。そして激怒したチヨたち姉妹が父を責めると、今度は父が家に帰ってこなくなった。無責任で弱い大人の身勝手で、思春期の精神はボロボロの状態だった。



「あの人は女しか産めなかった、長男の嫁として失格」



 両親の離婚が決まった後も、事あるごとに母の悪口を言い続ける祖母に向かって、チヨが反論したことがある。



「女のどこが悪いのよ、お婆ちゃんだって女でしょ。だいたいね、赤ん坊は精子の段階で性別が決まってるのよ。もし女で都合が悪いなら、女の精子しか作れなかったお父さんの責任よ!」


「まあ、この子は!そんな嫌らしいことを」


「もっと言ってあげましょうか。そのお父さんを生んだのはお婆ちゃんなんだから、女しか産まれなかったのはお婆ちゃんの責任よ!」



 最初はチヨたちを引き取るつもりだった祖母は、これに憤慨してしまい、二人は親戚の家に預けられた。以来、祖母とも父とも音信が途絶えている。あんな親ならこっちから縁を切ってやる。せいせいするわと思ったものだ。




 ただし、母だけはやはり恋しい。家を出て行ってから電話で話すのさえぎこちなくなってしまったが、チヨが流産した時には田舎から駆け付けて看病をしてくれた。手を握って「チヨ、ごめんね」と泣く姿にどうしていいかわからず、寝たふりでごまかしたのを覚えている。いつか幼い日のように、素直に母に接することができるだろうか。



 そんな中で、出会ったのが森脇である。チヨを当時の辛い環境から隔絶する唯一のシェルターで、彼に縋りつくことで精神の正常を保てたと言っても過言ではない。しかし、終わりが訪れた。全てをリセットして、チヨは自己を取り戻す一歩を踏み出したのだ。




「I want to be myself.」



 チヨは空中に指でハートを描いた。また淳の顔が蘇る。「ありのままの自分でいたい」と思えるのは、彼に出会えたお陰でもある。淳のどこが好きかと聞かれれば、正直はっきりとわからない。確かに彼は美しい顔立ちをしている。しかしチヨはルックスにはこだわらない。むしろ好みで言えばゴリゴリの熊タイプが好きである。


 ならばステイタスかと言えば、大学中退のフリーターだ。彼氏に頼りがいを求める女性にとっては、理想的なパートナーとは言い難いだろう。しかし、チヨには何より彼の隣が心地よいのだ。一点の曇りもなく彼女を愛し、尊敬して理解してくれる存在。家庭を失い流浪していたチヨの魂が、ようやくたどり着いた安住の地である。チヨにとっては海東淳がホームであり、帰りたい場所であった。



「おうちに帰りたいんですけど!」



 バタバタと足を蹴って駄々をこねても、時間は早回しにはならない。生まれて初めてのホームシックに悶々としながら、チヨはあと4日も研修予定のあるカレンダーを睨みつけた。



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