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自宅に戻り、淳は頭を抱え込んでいた。いきなり真っ二つの岐路に立たされてしまった。福井さんが紹介してくれた仕事は、実にとんでもない内容であり、同時に素晴らしく魅力的であった。
シンプルに言えば、大御所の付き人である。送り迎え、食事の手配、使い走りの雑用もろもろ。それだけなら先日までのアルバイトと大差ないと思えたが、その大御所は御年76歳でがんを患っており、体が動かないぶん気が短くなっているらしい。
「遠藤甚八、通称エンジンさん。俺の若い頃の師匠で、殺陣を撮らせたら右に出る者はいないと言われたカメラマンだよ。最後の作品として、大迫さんのアドバイザーをやるらしいんだけど、決まってた付き人を怒鳴り散らしてさ、クランクイン直前なのに辞めちゃったんだって」
アルバイトを怒鳴り散らしたという事よりも、淳の耳に飛び込んできたのは「大迫さん」という名前だった。大迫、オオサコ……と考え、淳が思い当たるのはひとりしかいない。リアリズムの鬼才として世界から注目される、若手の第一人者。大迫昌司監督、すなわち淳の憧れの人物だ。ぞわっとした感覚が腕から首筋に這い登ってきた。
「お、大迫さんって、あの」
「うん、大迫昌司。エンジンさんの崇拝者だよ」
大迫監督の現場なら、たとえ雑用でもやりたい人間はたくさんいるだろう。それなのに福井さんは自分に声をかけてくれた。岸さんの会社をクビになったという理由だけではない気がする。淳は単刀直入に聞いてみることにした。
「なんで、俺を推薦してくれるんですか」
「この台本をエンジンさんに見せたんだ。そしたら、連れて来いって」
「えっ、見せたんですか」
福井さんは淳の書き込みを見て、着眼点のユニークさや発想の柔軟さに興味を持ったという。そして、せっかくならもっとちゃんとした現場を見せてやりたいと考えた。そこで、その足でエンジンさんを訪ね、台本の書き込みや受賞した動画を見てもらったという。
それを聞いて背中に冷汗が噴き出た。自分のような素人が演出した台本や動画など、そんな大御所にとっては笑止千万だろうに。しかし、どんな評価を受けたのか聞いてみたい気持ちもあった。それを問うと福井さんはにっこり笑って「自分で聞いてみたら」と言った。
「とりあえず再来週がクランクインだから、早急に返事をちょうだい。期間は一応半年、ちょっと押すかもしれない」
それが数時間前の話で、淳はベッドに仰向けになって悶々としていた。大迫監督の現場を見てみたい、エンジンさんの付き人なら学ぶことは多いだろう。恐ろしく魅力的な申し出である。しかし、半年以上がっつり現場に入り込むことになるため、卒業も就職も諦めなくてはいけない。
この二者択一はキツすぎる。しかし返答の期限は迫っている。一瞬、チヨに相談してみようかとも思ったが、たぶんこの選択は自分の一生に関わってくると思った。であれば、自分自身で答えを出すべきだ。自分はどうしたいのか、どこへ向かって行くのか。淳は20年余りの人生の総知恵を動員して、この一大選択に向かい合った。
やがていつの間にか夜が明け、カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。考えること、約半日。淳はようやく決心をして福井さんの電話番号を呼び出した。
「本当に申し訳ない、すいません」
翌日、淳は実家の居間で両親を前に土下座をしていた。腰を抜かしたのは目の前にいるオトンとオカンである。出て行ったきり滅多に連絡もよこさない息子がいきなり帰ってきて「大学をやめる」と言い出したのだ。理由は説明されたが、親としてはもちろん賛成はできない。
「あんた、あとちょっとで卒業やないの。いまやめたら高卒になるんやで」
「わかってる、それでもこのチャンスを逃したくないんや」
母親が正論で説得するが、頑として淳は意思を曲げない。そのうちしびれを切らせて、黙り込んでいる父親の腕を揺すった。
「あんたからも言うてやって、せっかく大学まで行ったのに」
父は不気味なほど言葉を発しなかったが、ようやく重たい口を開いた。
「その仕事が終わったら何するつもりや」
「同じや、また映像の仕事で働けるところを探す」
「ずっとその仕事で食うていくんやな」
淳がうなずくと「そうか」と言って立ち上がり、
「好きにせえ、そのかわり死んでも食らいつけよ」
そう言い残してケーシーの散歩に行ってしまった。慌てて母が追いかける。残された茶の間でひとり呆けていると、背後から弟の正哉の声がした。
「兄ちゃん」
「おう」
正哉は高校を卒業し、そのまま地元の大学に進学した。成績もそこそこ優秀、明るい性格なので近所の評判もいい。自分が親不孝をしている不甲斐なさを、弟に押し付けている気が常々していたが、今回のことでさらに申し訳ない気持ちになった。
「がんばってや、応援してるし」
「聞いとったんか」
「やっぱり兄ちゃんはすごいな」
「何がすごいねん、大学中退やぞ」
「自分でやりたい道を見つけて、スパーンと決断できるん、すごいやん。俺なんか何してええんか、全然わからへんで」
何でもソツなくこなすお前の方がよっぽどすごいわと思ったが、物の見方によって感じ方も変わるのだろう。純粋な目をきらきらさせて、淳の決意を見守るこの弟を、失望させないためにも結果を出さねばならぬと、改めて淳は心に誓った。
新宿駅に高速バスが着き、チヨに電話を入れた。どうやらオカンがチヨに嘆きのLINEを連投し、昨日の夜はそれをなだめるのに苦労したようだ。もっともチヨは淳の決意を聞いたとき「全力で応援する」と言ってくれていたので、うまく母親の気持ちを収めてくれたらしい。
「まあ、エーサンを出たところで一流企業は望めませんから、って言っちゃったよ」
「どんな慰め方やねん!」
笑って送り出してはくれたが、きっとチヨも心配していたと思う。たぶん父親と同じ意味で「本気なのね」ということを確かめられた。そして、そのうちこうなるだろうと思っていたとも言われた。二人とも、淳が走り出したら止まらないのを知っているのだ。ならば、ご期待に沿うよう全力で走るだけだ。
エンジンさんに会ったのはその翌週、クランクインの6日前という押し迫った日だった。大学の退学事務処理など細々とした用事を済ませ、福井さんと一緒に挨拶に行くと、そこには意外なほど小柄な老人が座っていた。グレーの作業着と銀縁の老眼鏡、どこにでもいるおじいちゃん風だが、口から出た言葉はインパクトに満ちていた。
「そろそろお迎えが近いようで、体が思い通りに動かんのさ。こきつかうと思うが、まあ、よろしく頼むわ」
エンジンさんはあちこちにガンができて肝臓も固い。「病気のデパート」と言いながら笑っていたが、きっと体が相当きついのだと思う。雑用係はそのイライラをかぶることになりそうだが、それでも現場に出ようというエネルギーを淳はすごいと思った。
「お前さん、岸に嫌われたそうだな。ハハッ、有望だな」
「えっ、お知り合いですか」
いきなり岸さんの話が出て焦ってしまった。どう答えていいか迷っていると、福井さんが懐かしそうな声で教えてくれた。
「岸さんもエンジンさんの元弟子だよ、俺のちょっと先輩。もう20年くらい前になるかな。ちょうど海東君くらいの年だった。俺たち、エンジンさんに尻を蹴られながら仕事を覚えたんだよ」
「あの頃からフクはお人好しで、岸は抜け目がなかったな。そのうちカメラ回すのやめてディレクションに行ったが、相変わらずひねくれとるのは、変わらんなぁ」
小さい体をゆすりながら、ガハハとエンジンさんが笑う。岸さんのことはムカついていたが、昔からそうだったと思うと、どうでもよくなってきた。それより、見てもらった動画についてまだコメントをもらっていないのが気になり、思い切ってエンジンさんに感想を訊ねてみた。
「あー、あの受賞作か。ありゃ、クソだな」
わかってはいたが、ぐったりと座り込みたくなった。ちょっとでも可能性があると思った自分が情けない。審査員のコメントは対外的に当たり障りのない言葉を選んだだけで、素人のスマホ動画なんて実際の評価はボロカスだろう。がっくりと首をうなだれていると、再びエンジンさんの豪快な笑い声が聞こえた。
「でもまあ、クソはクソだが、面白いクソだな。みんな最初はどうしようもないが、そこからどう化けるかなんて、今の段階じゃわからんさ」
淳が顔を上げると、ニヤリとしたエンジンさんと目が合った。
「ところで、あのモデルの髪の長い別嬪さん、こんど紹介してくれや」
チヨのVサインが目に浮かぶ。「じいちゃんキラー」と言っていたのは本当だったようだ。兎にも角にも、淳の付き人生活がこうしてスタートした。やがて、想像以上の過酷な現場の洗礼を受けることになる。




