3-12
単刀直入に、チヨは切り出した。高校のころからそういう性格だったので、今さら森脇は驚きはしないはずだ。
「付き合ってる人がいるの」
森脇が運ばれてきたアイスコーヒーにミルクを入れた。ミルクだけ、砂糖なし、かき混ぜない。そんな細かなところを覚えているのが嫌だった。まだ彼に縛られている気がする。
「この間、俺を殴った彼?」
「そう」
根に持っている感じはしないが、探られている感じはする。淳に非はないのだと言いたくて、チヨはむっとした表情をこしらえた。
「無理に私を連れて行こうとしたからよ。あなたらしくもない」
「ムカついたから」
「は?」
「ムカついた。最初に見たとき、チヨの肩を当たり前みたいに抱いてた。しかも、チヨが嫌がってなくてムカついた」
「はあ、なんなの」
「この男に取られるかも、って直感で。認めたくなかったんだろうね、まだチヨは俺のことが好きでいるって、信じたい気持ちがあった」
なんだか不思議な気がした。高校時代、生徒と教師だったころは、はるかに大人だと思っていたが、23歳になった今、こうして向かい合うとまるで駄々をこねる子供のようだ。彼が意図的にそうしているのでなければ、チヨが成長したのだろう。
制服のリボンを解いてシャツのボタンを開け、二つに縛っていた髪をおろし、この店に来たのが遠い昔のようだ。あの頃は少しでも彼と釣り合いがとれるようにと無理をして、大人ぶっていた。そんな自分がひどく遠く思える。
「コウさん」
昔そう呼んでいたように、森脇に呼びかけてみた。二人のときは「先生」と呼ぶのをやめてくれと言われ、弘毅という名から仇名をつけたのだ。森脇がはっとしたように顔を上げた。
「懐かしいな、その呼び方」
「もうしっくり来ないね、ムズムズしちゃう」
「やり直すのは無理? 未練たらしくてすまないけど」
「無理、3年間そっちだって何もなかったわけじゃないでしょう」
「そうだね、4人。でも、ダメだった。だから余計にチヨに会いたくなったのかも」
「でも、私だって昔のままじゃないもの」
「いま、わかった気がする」
グラスの氷が、カランと音を立てた。森脇がいつもは頑なに混ぜないアイスコーヒーをかき混ぜている。彼がポーカーフェイスを保っているうちに去るべきだろう。
「コウさん」
「ん」
「さよなら。ありがとね」
千円札をテーブルに置こうとしたら、森脇が首を振る。もう一度、小さく「ありがとう」と言うと、そのままチヨは出口へ向かった。何度も胸を膨らませて通ったこの店のドアを、もう二度と開けることはない。
駅へと向かう歩道に、サンダルのかかとの音がコツコツと響く。17歳で彼と出会い、19歳で別れた。最後の日、彼の車のフロントガラス越しに見た光景が、涙でにじんでいたのを覚えている。
彼と過ごした日々は、あの頃の自分には必要だったし、後悔はしてない。あのとき、彼の手を取ったから今のチヨがいる。全て一人で背負い込もうとしていた少女の肩から、重たい荷物を下ろしてくれたのは森脇だった。もしも子どもが無事に育っていたら、今ごろは彼と人生を共にしていただろう。
アメリカにいたころ、ボランティアのスタッフに教えてもらった、詩人のロバート・フロストの言葉を思い出す。
In three words I can sum up everything I’ve learned about life: “It goes on.”
――私は人生で学んだすべてを3語にまとめられる。それは「何があっても人生は続く」ということだ。
チヨの人生も、続いていく。その途中で風景が変わり、人が変わり、目指す場所も変わるかもしれない。それでも前へ、前へと生きていく。森脇が全てだった時代は、もうはるか背後へと過ぎ去ったものだ。それを確認するために、今日は覚悟を決めて会いに来た。
しかし、腹の据わったチヨとは裏腹に、天パの伊達メガネは心中穏やかではなかったらしい。歩きながらチヨがかけた電話にワンコールで飛びつき、大型犬のように息を弾ませた。
「おう、おう、どないやった、もう店出たんか」
「落ち着けっ」
交際を始めるにあたり、森脇ときっちり話をつけてくるというのがチヨなりのけじめだったのだが、淳はその必要はないと言い張った。チヨの心変わりについては心配していなかったが、先日のことがあったので、二人で会わせるのが嫌だったのだ。森脇はチヨに未練がある。また車に乗せられそうになったらどうするのだと。
それを何とかなだめて出てきた。陽の高いうちに喫茶店で会うし、はっきり断ったらすぐに帰ってくる。相手も立場のある人間なので、人目のある所では理性的に行動するはずだと説得したのだが、電話から聞こえる声がやけに近いと思ったら、目の前にもしゃもしゃ頭が立っていた。
「なによ、そんなに心配だったわけ?」
「信用してないわけやないんやで」
この駅までは、チヨたちの住む街からは1時間15分、片道720円もかかる。それなのに、こっそりついてきて駅前でやきもきしていたようだ。そして、彼女の顔を見た瞬間にしっぽをパタパタさせて嬉しそうにしている。そりゃあ悪い女に騙されるわけだ。
海東淳は本質的に、とても情が深い人間である。小さいころ、母の関心を独占したくて泣き笑いの芝居をした。少年時代の初恋の相手には、身も心も捧げて裏切られた。それからは誰にも心を開かず閉じこもっていたが、一旦蓋が開いてしまえばリミッターが効かない。
厄介な男をつかまえてしまったかもしれないが、面倒くさいのはお互い様だ。チヨは話を聞きたくてそわそわしている淳の手を握ると、改札に向かって歩き出した。
「ちゃんと話はつけてきたから、堂々としてなさい。あんた、彼氏なんでしょ」
「お、おう」
淳は手のひらに汗がにじむのを感じた。付き合いが始まったとはいえ、この間は淳の無分別な火遊びのせいで、チヨを泣かせたばかりである。どういうタイミングで距離を詰めていいか悩んでいただけに、いきなり手が触れたことに戸惑ってしまった。
それなりに女性経験はあるはずなのだが、中学生のような反応をしてしまい、淳は焦った。できれは自分から行動を起こしたかったが、今のところ完全にリードされている。どうやってイニシアチブを取ろうかと考えていたら、さらに追い打ちがかかった。
改札を通り抜け、ホームに向かう階段で、斜め上を歩いていたチヨが振り向いて淳に「うち来る?」と聞いた。内容は意味深きわまりないが、まるで「いま何時?」というようなあっさりした物言いだった。
「真美が車で彼氏んとこ行っちゃって、今日は帰ってこないの。一緒に映画でも観ようよ」
それがどんな意味かは淳にも当然わかる。どうリアクションしようかと思ったそのとき、長い髪からのぞく耳たぶが真っ赤なことに気づいた。そして、つないでいるチヨの手も汗びっしょりだ。
時刻は通勤帰りの乗客がごった返す午後6時すぎ。ツンとしてお姉さんぶっているチヨが可愛くて、可愛くて、大衆の面前などお構いなしに淳はチヨを抱きしめた。
「ちょ、海東くん!」
「チヨ」
チヨが体を離そうともがくが、淳の腕ががっちりと背中に回り、ますます密着度が高まる。チヨは観念して体の力を抜くと、わずかに高い位置にある相方の目を睨みつけた。
「もう、なんなのよ」
「可愛いな、と思うて」
チヨの耳が再び真っ赤になった、そのとき。素早く淳がチヨの唇をふさいだ。そして呆気に取られて声が出ないチヨの耳元で囁く。
「続きは、帰ってから」
ようやくイニシアチブを得て満足した淳がニヤリと笑い、チヨの手を今度は自分からつかんで歩き出した。やはりとんでもない男をつかまえてしまったようだ。耳だけではなく首まで真っ赤に染めながら、チヨは思ったより大きな淳の手をギュッと握り返した。




