3-11
長い長い沈黙が流れた気がしたが、実際には手の中のコーヒーに温もりが残るほどの時間だった。ふーっと深い深呼吸をした後、チヨが覚悟を決めたように顔を上げた。
「うん、話はわかった。要するに海東君は、自分がそういう素質を持っているのが怖いってことかな。またきっかけがあれば、暴走しちゃうんじゃないかって」
ひとりで鬱々と抱えて生きてきた、かつての自分に対する激しい嫌悪と、漠然とした恐怖。さらりと紡がれたチヨの言葉が全てを集約している気がした。淳は無言で頷いた。
「まあ、確かにバカなことをしちゃったね。激高すると行動がコントロールできなくなることはあるけど、普通の人はそこまでやらない」
再び淳は頷いた。チヨの言う通りだ、普通の人間は裏切られて腹が立つことはあっても、そんな極端な行動には出ない。今思っても、粛々と裏工作をして脅迫の手順を踏んだ、18歳の自分の狂気に寒気がする。
「でも、二度と起こらない気がする」
はっと淳が顔を上げた。チヨの涼やかなアルトの声は確信に満ちている。目が合うと三日月の口が優美な弧を描いていた。
「なんでそう思う」
二年間、迷い続けた迷路の出口を「ここだよ」とチヨが指し示しているような気がした。淳はすがりつくように、チヨの答えを求めた。
「普段から海東君を見てたらわかるもの。決してキレやすい人じゃない。むしろ、感情を抑圧することのほうが多い。今だってその行いが常軌を逸脱してるってわかってるから怖いんでしょ。もとから狂ってる人は自分を正当化する」
一気にしゃべったチヨはちょっと考えるようなそぶりをし、コーヒーを一口飲んだ。
「そんな海東君が、なんでそんなことしたのかって考えると」
チヨがやわらかな笑みを目元に浮かべた。「聖母マリア様ってこんな感じやったんかも」と淳が見とれていると、声に切ない響きが含まれた。
「好きだったんでしょ、彼女のこと。頭おかしくなるくらいに」
どう答えればいいのか。その通りなのだが、好きな女から聞かれて答えるには戸惑われる問いだ。淳が言いよどんでいると、チヨはふっと笑って言葉をつづけた。はなから答えを求めるつもりはなかったらしい。
「たとえ過去にいろいろあったとしても、私は自分の目で見た海東君を信じるよ。私だって18歳のころにはバカなことをしたけど、今はちょっとはマシになってると思うんだ」
「お前は立派にやってる。ちゃんと目標があって、前に進んでる」
淳にとって身近で最も尊敬する人間はチヨである。彼女も淳と同じく18歳で人生の山にぶつかり、試練を乗り越えて今に至る。しかも自業自得の淳とは違い、不運に翻弄されたのだから、不条理を嘆いてもよさそうなものだが、彼女はその痛みさえも肥やしにして成長している。淳はその不屈の精神に惹かれたのだ。
「ありがと。でも、海東君も前に進みたいんだよね、だから私に話してくれたんだよね」
「進みたいとは思ってる。でも、その方法がわからん」
「まずはその不安を取り除かないとだね。前回は好きな人に裏切られたことが暴走の燃料になったんだよね」
「……、そやな」
「だったら次は、裏切らない女を選べばいいじゃない」
裏切らない女と言われても、それがわかれば苦労はしない。淳はぐっと考え込んでしまい、チヨが空のカップを弄びながら、居心地が悪そうに脚を組み替える。急に会話が途絶えていたたまれないムードが部屋に漂った。
淳が黙っていると、そのうちチヨの指先がテーブルをコツコツとたたき出した。何か余計なことを言ってしまっただろうかと思い返すうち、とうとうチヨがしびれを切らした。
「ああもう、鈍感すぎる!」
チヨがテーブルをドン、と拳で叩いた。長い髪からのぞく耳たぶが赤くなっている。
「目の前にいるでしょ、裏切らない女」
「それって、」
「あたしたち、付き合ってみない、って言ってんの」
目を丸くする淳に、チヨの剛速球ストレートが飛び込んできた。もちろんチヨのことは好きだし告白もした。しかしたった今、自分の黒歴史をさらしたばかりで、この展開についていけず、淳の頭は混乱した。
「お、俺でええんか。聞いたやろ、俺の話」
「聞いたわよ、聞いたうえで付き合おうって言ってるの。海東君、このまま過去を引きずったままじゃ、出家するか無人島で暮らしすしかないわよ。でも私と付き合えば、もし暴走しそうになったときは、容赦なく引き戻してもらえる特典付きだよ」
さっきはマリア様に見えたチヨが、今度は仁王様に見える。やがて目を丸くして呆けている淳に「どうするの」と仁王様の金剛杵が振り下ろされた。
「付き合います、いや、付き合うてください。よろしくお願いします」
淳はキッチンの椅子から降り、床に正座をして頭を下げた。彼ら二人の力関係は、このときに決まったといっても過言ではない
その数日後、チヨは高校時代を過ごした街から少し離れた、小さな喫茶店でカフェモカのカップを手にしていた。この店は森脇と秘密の付き合いをしていたころ、よく来ていた。最後に来てから何年になるだろう。あの頃と変わらない店内を懐かしく眺めていると、ドアが開いて森脇が入ってきた。
「久しぶり」
仕事の帰りらしく、半袖のシャツに夏仕立てのジャケットを羽織っている。彼はチヨと出会った高校を辞め、今は市外の進学校で教鞭をとっている。相変わらず教師には見えないが、三十路になり以前よりやや恰幅がよくなったようだ。
森脇はジャケットを脱いで椅子の背にかけ、ふわっと笑った。この笑顔も懐かしい。この店でうっとりしながら眺めたものだ。
「ようやく会えたと思ったけど、どうやらいい話じゃなさそうだね」
「ご名答。お別れを伝えに来たの」
「直球だな、俺まだ注文もしてないのに」
ちょうど店員が注文を取りに来て、森脇がアイスコーヒーを頼んだ。彼はアイスコーヒーしか飲まない。冬でもアイスコーヒー。
「相変わらずアイスコーヒー好きなんだ」
「相変わらずだよ、好きなものは、ずっと」
いたずらっぽく笑う、その目がちっとも笑っていないことに、チヨは気づいていた。引導を渡すのは自分。雰囲気に引き込まれないよう気をしっかり持って、チヨは話を進めた。




