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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;3 カミングアウト
32/77

3-9



 コーヒーの香ばしい香りで目が覚めた。カウチの横のテーブルに置いた腕時計を手にとり、時刻を見ると間もなく午後1時。淳は慌てて飛び起き、スマホを掴むとバイト先の宅配会社のナンバーを呼び出した。



「すいません、海東です、あの、ちょっとまだ熱が。はい、すんません二日も続けて、はい、失礼します」



 電話を切った途端、背後からくくっと堪えるような笑いが聞こえた。



「ほほー、昨日から熱がねえ」


「げっ」



 振り向くと、チヨが大きなマグカップを二つ持って立っていた。髪が湿っているところを見ると、さっきシャワーを浴びたのだろう。コーヒーの香りに混じってシャンプーの残り香が漂ってくる。それが淳の寝ぼけた感覚器官を強烈に覚醒させた。


 眠気が飛んだ瞬間、色気と食い気が同時に襲ってくるとは。我ながら人間の三大欲求に忠実な体質だと思いながら、淳は有りがたくコーヒーを受け取った。



「トーストとゆで卵くらいしかないけど、食べる?」


「食べる……けど、もう大丈夫なんか、起きて」


「うん、ちょっと疲れただけみたい。寝たら回復した」


「せやったらええけど」



 チヨがトースターにパンをセットし、ダイニングのテーブルにジャムやバターを並べ始めたので、淳もカップを持ったまま移動した。


 多分、頭が凄いことになっているはずだ。くせっ毛で量の多い淳の髪は、朝からシャワーで濡らさなければ外に出歩けないほど爆発する。しかも今日は昨日の汗がこびりついて、髪とはいわず体中がベタベタだ。図々しいとは思いつつ、淳はチヨに浴室を貸してもらえないかと尋ねてみた。



「どーぞ、トイレの横のドアだから」



 実にあっさりと浴室を貸してくれたチヨに拍子抜けしながら、淳はまだ床の乾ききらないバスルームに入った。その瞬間、さっきの何倍も強いシャンプーの香りが淳を包む。単なる香料なのだと言い聞かせてみても、網膜に焼きついたチヨの濡れ髪のせいで身体は反応せずにはいられない。浅ましい男の性に今日も朝から悩まされる事に、半ばうんざりしながら素早く淳はシャワーを済ませた。






 動揺が顔に出ていなかっただろうかと、チヨは深呼吸をして緊張を解放した。さっき「浴室を貸してくれ」と言われた時には、正直身が固くなったが、咄嗟に何でもない素振りを装った。妹はもうバイトに出かけてしまって、部屋には淳とチヨだけだ。そんな中で年頃の男と女が交代でシャワーを浴びる事が、どれほど意味深であるか、彼はわかっているのだろうか。



 やがて、浴室からザーッという水音が聞こえてきた。今朝、彼が寝ている間にこっそりシャワーを使った時より数倍ドキドキする。そしてその音は同時に、一昨日どこか知らない場所で知らない女性と彼が行った事を連想させ、ちりちりと胸の焦げるような痛みでチヨを悩ませるものでもあった。


 チヨは下唇をぐっと噛んで意識を手元に集中させると、焼きあがったトーストを皿に盛り、ゆで卵にプチトマトとピクルスを添えた。自分がどんなに彼を責めようが、そして彼がどんなに後悔しようが、過ぎた時間は巻き戻せない。大切なのは、二度と繰り返さない事。それが亀裂の入ってしまった二人の関係を修復する唯一の方法だ。






「具合どうや」



 食事の後、二杯目のコーヒーを飲みながら淳がチヨに尋ねた。



「うん、もう普通だよ」


「せやったら、聞いて欲しい話があるんや」



 カップを持つ指に力が入る。話が終わっていない事はチヨにもわかっていたので、そろそろ続きが来るだろうと思っていた。


 昨夜は淳がコンパの後の一件について告白し、それでもチヨへの想いが変わっていないことを伝えた時点で話が切れてしまった。順番から行けば、それに対してチヨが気持を表す番だ。


 昨日の今日でまだ混乱している部分はあるが、およその方向性は固まっている。それを言おうとして口を開きかけた時、思いがけず淳がそれを制した。



「あのね、昨日の話に対する私の答えなら――」


「いや、それより先に聞いてもらわなあかん話があんねん」




 淳の声は震えていて、目も不安げに揺れている。それでも、彼の表情は何かを決心したような、強い意志を感じさせた。とても大切な話をしようとしているのが気配でわかる。初詣の帰り、自分に好きだと言った淳が、最後まで曝け出せなかった本音の扉を今、彼は自らの手で開けようとしているのだ。チヨは無言で頷いた。



「俺の、過去に関する話や」




 そう前置きして淳が語り出したのは、彼がまだ幼稚園に入ったばかりの頃の話だった。


 もともと内向的だったうえに、弟ができたり新しい環境におかれたりで、一時的なものではあるが、淳はひどく内に篭る子供になってしまった。それを心配した母親が、「積極性が出るから」という親戚のすすめで彼を児童劇団に入れたのが、海東淳にとって運命の分岐点だった。



「劇団でも暗いガキやったけど、その頃たまたまドラマの子役募集があって、両親の虐待で言葉を失う子供の役に抜擢されたんや」



 それが先日、駅で声をかけてきた女性が言っていた「家族の肖像」というドラマだった。オーディション当日、無表情に大人たちを見据える色白の美しい男の子は、まさに彼らが探し求めていた素材そのものだった。満場一致で役が決まり、それからの半年は毎週末、母親に付き添われて新幹線で東京のスタジオに収録に通った。


 淳としては、普段は弟で手一杯の母親の関心を一身に受けられるし、撮影現場では黙って共演者を睨みつけているだけで良かったので、その生活は少しも苦痛ではなかったらしい。


 しかしその収録が終わってドラマがオンエアされた途端に、海東家の歯車がおかしな方向に狂い始めた。理由はドラマが爆発的な視聴率を集め、淳が天才子役として時の人になってしまったからだ。


「家の周りに記者とか野次馬がいてんねん。学校にも行かれへんし、親父の工場にも入って来よるし、こらあかんわ、いうて一切の芸能活動をやめてもうたんや」



 しかし劇団は彼を手放さなかった。いつかブームが落ち着いて普通に活動できる時期が来れば、再び海東淳は劇団の看板として役に立つと思ったのだろう。そして人の噂も何とやらで、数ヶ月のうちには淳の存在はマスコミのニュースから消え去り、やがて普通の児童として地元の小学校に入学をした。



「何しろ6歳の頃の話やからな、同年代はドラマなんか見てへんわ。せやから、学校では普通に生活してたんや、高校まではな」



 淳がすっかり冷めてしまったコーヒーをすすった。何か言い淀んでいる空気が、話がいよいよ核心に触れるという事をチヨに知らせる。淳は大きな溜息をついて、決心したように再び話を始めた。



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