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「あの……悪いんだけど」
「どないした」
「何だか、気持ち悪くなっちゃって……。運転、代わってくれたら助かる」
淳が驚いてチヨの顔を覗き込むと、顔色が真っ青に変わっている。目がぼんやりとして、非常に辛そうだ。そんなチヨの様子を見て、淳は彼女に無理をさせた事を悔いた。
昨夜は蒸し風呂のような車の中で眠ったうえに、大きなショックを受けて東京へと車を走らせた。そして今日も殆ど眠らないまま、深夜まで精神的なダメージを受け続けているのだ。いくら若くても疲れがたまらないはずはない。
淳はすぐさま車外に出て運転席からチヨを後部座席に移動させ、綿のブランケットがあったので、それを彼女の身体にかけてやった。急いで帰ってベッドに寝かせてやるべきだ。道は全くわからないが、どうにか勘で運転するしかない。淳はバックミラーの位置を合わせると、慎重にワゴンRを発進させた。
「……海東くん、眼鏡なくて大丈夫?」
後部座席から、チヨが心配そうに声をかける。
「ああ、あれな、実は度が入ってないねん」
「やっぱり、伊達か……」
「え?」
聞き返したが、チヨはそれきり黙ってしまった。我慢していたが、相当きつかったのだろう。その数分後には小さな寝息が聞こえてきた。
チヨが目を覚ましたとき、彼女の心の中では自分はどういうポジションに当てはめられるのか。謝るという目的はうまく達成できなかったかもしれないが、そのかわり思いがけず自分に正直になる事ができた。本当はもう一歩、曝け出してしまいたい事もあったが、それはチヨの体調が整わない限り難しそうだ。
どちらにしても、もう彼女には何も隠すものはない。海東淳の全てをぶつけ、拒絶されればそれまでの事。踏ん切りがついたせいか、淳の心は軽かった。間もなく昇る朝陽に向かい、淳は快調にアクセルを踏み続けた。
チヨの駐車場に車が到着したのが6時前。スマホの地図で位置を確認しながら、安全運転で帰ってきたせいで少々時間はかかったが、チヨはぐっすり眠れたようだ。
ブランケットごと後部座席から寝ぼけたチヨを抱え出そうと淳が苦戦していると、背後から「おねえちゃん」と女性の声がした。妹の真美が起きて待っていたらしい。詳しい事情を知らされていなかったぶん、心配していたようだ。淳はまだ後部座席で半分眠っているチヨを顎で示した。
「遅なってすまん、連れて帰ったで」
「おねえちゃん、寝てるの?」
「ちょっと、途中で気分が悪なって。悪いけど、家に運ぶの手伝うてくれる」
「あ、はい」
チヨの左側を淳が支え、右から真美が手を添えた。とは言っても、殆どの体重は淳に依存しているのだが、それでも誰かが付き添ってくれて助かった。
大柄と認識していたチヨの骨格は思ったよりも小さく、肌を密着させればその感触は女以外のなにものでもない。真美が側にいなければ、つい邪な事を考えてしまったかもしれない。
弱っているチヨ相手に、そのような妄想を繰り広げるのは本意ではない。それでも男の身体は隙さえあれば反応してしまう。それは自然の摂理ではあるが、暴走すると痛い目にあうということを、今回の事で学んだばかりだ。
「起きるまで、ここにおりたいんやけど」
チヨをベッドに寝かせて、淳が真美に尋ねた。以前にもこの家で夜明かしした事が何度かあるが、それはチヨの許可があっての事で、今はその本人は眠っている。常識的に考えて、ここは引き上げるのが妥当だろう。しかし淳はどうしてもこのままチヨから離れがたい気持になっていた。
「あなた、おねえちゃんの彼氏、ですか?」
探るような瞳で真美が訊ねる。ここへは今まで数度訪れ、真美にも何度か会ってはいるが、まともに喋るのは今回が初めてで、お互いに紹介された事もない。
というより、紹介したくてもできなかったのだ。あなたの姉が好きで彼女の心の準備が整うまで審査待ちしている男です、というのを端的に表す言葉が見つからず、口篭ってしまった淳に、真美は警戒の色を強くした。
「おねえちゃんが自分で招く分にはいいんですけど、私の判断で男の人をおねえちゃんの部屋に泊まらせるわけには……」
当然の答えが返ってきて、逆に淳は安心した。親のいない彼女たちだが、しっかり生活をしているという証拠である。淳は真美の意見に従う事にした。
「そやな、そしたら目ぇ覚ましたら呼んで。俺、外で待ってるから」
「あの」
立ち上がって玄関へ向かおうとした淳を、真美が呼び止めた。
「私たちの部屋、鍵がかかるんで、リビングで寝ませんか。もちろん、物がなくなってたら警察に届けますけど」
綿菓子みたいな女の子の、きっぱりとした物言いの中にチヨの妹である片鱗が垣間見える。淳は数秒考え、甘える事にした。やはり今は彼女の側にいたい。まだこの一連の出来事は、大切な部分の終結を残したままなのだ。
淳は真美からブランケットを受け取ると、勝手知ったるリビングのカウチに体を横たえた。すっかり朝になってしまった陽光が、オリーブベージュのカーテンの隙間から長い光を投げかけている。目を閉じようとした淳に、ドアの隙間から真美が顔を出してひとこと声をかけた。
「そう言えばおねえちゃん、家を出る前にあなたに映画を見せなくちゃって言ってましたよ」
パタンとドアが閉まり、内カギのかかる音がした。淳はむくりと起き上がり、これまた勝手知ったるチヨ家のテレビをつけ、ヘッドホンを装着してリモコンで動画配信画面を呼び出した。
一昨日の夜、チヨが最後に視聴した作品「NO MAN'S LAND」をスタートさせる。彼女が自分に伝えたかったものを、今すぐ分かち合いたかった。
思い起こせば、一年前。映画という精神世界を共有する事から、二人の関係は始まった。その原点に戻り、もう一度魂を触れ合わせたい。淳は息を詰めるようにして画面に食い入り、98分の映像に込められたメッセージを、チヨと同様の衝撃をもって受け止めた。




