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「お迎え、ご苦労!」
敬礼の真似事をしてみせるチヨの、不自然な明るさが淳にはかえって痛々しかった。そうでもしないとチヨ的に平静を保てないのだろうが、圧倒的に悪いのはこちらで、ここへは謝るために来たのだ。これ以上、彼女に精神的な負担をかけるわけにはいかない。
淳はチヨの方へ歩み寄り、先に謝ってしまおうと口を開きかけたその時、チヨがニヤッと笑った。
「怒鳴られたんだってね」
淳の全神経が、久しぶりに見るチヨの笑顔に集中し、出かかっていた言葉が呑み込まれる。しかしその微笑みはすぐに消え、ジーンズのポケットから車のキーを引っ張り出した。
「ここまで良く来れたねー、ありゃ、眼鏡は?」
「水谷がバイクで送ってくれた、眼鏡は踏んで割った」
「そっか、駐車場こっちだから」
そう言うとチヨは淳を残し、さっさと歩き出した。まるで淳の口から出る言葉を避けているような、そっけない素振りだ。不安を覚えた淳が、慌てて声をかけた。
「謝ろうと思って、来たんや」
チヨは一瞬立ち止まり、そのまま背中で短い返事を返した。
「車ん中で聞くよ」
近所のコインパーキングから車を出し、チヨが国道にゆっくりとワゴンRを滑り込ませた。深夜のため、三車線の道路には僅かな数の車が流れているだけだ。
「こんな時間だから、下の道でいいかな」
「任せる」
今から話をする内容を考えれば、緊張を強いられる高速より一般道の方がいい。タイミングを待っていても埒が開かないと思ったので、淳は返事をしたそのまま、昨日の朝に至る経緯を説明してしまう事にした。
「すまん、先に俺から話してええか」
前を走っていたバンを追い越しながら、チヨが「どうぞ」と答えた。感情の感じられない声だ。淳は乾いた唇を舐めて湿らせ、ありのままに、正直に、昨日のコンパから朝に至る事実を告白した。
そして数日前に田代とチヨを見かけ、捻くれた独占欲から不愉快な言動でチヨを怒らせた事を詫びた。チヨは黙って聞いていたが、やがてハザードランプを点滅させ、路肩に車を寄せて停車した。
「基本的には、さ」
1分ほど沈黙した後にようやく言葉が出た。チヨには珍しく歯切れの悪い間が開いたが、感情を整理し、言葉を選んで話そうとしているのが伝わってくる。淳は辛抱強く待った。掌にじっとりと汗をかいている。
「海東くんと私って、別に付き合ってる間柄じゃないし。お互い、どこで誰と何しようが、本人の勝手だと思うんだ」
続きがある、続きがあるから大丈夫だと、淳は祈るような気持でチヨの二の句を待った。
ここで完結されたら、ふられるよりも性質が悪い。「元から他人でした」など、チヨの口から聞きたくなかった。例え恋人同士ではなかったにせよ、淳とチヨの間には、他の人間とは違うリレーションシップがあったはずだ。
怒鳴られてもいい、詰られてもいい、どうか俺を突き放さないでくれと、淳はどこだかわからない町の風景をフロントガラス越しに凝視しながら、チヨの言葉を待って全身の神経を集中させた。
「でも、ショックだった」
車内の空気がピンと張る。突然ある種の熱を帯びたように、今まで淡々とした調子だったチヨの声にはじめて感情が混じった。淳にとってはナイフで刺されるようであったが、待ち望んだ痛みでもある。しかしチヨの言葉は淳の思惑とは逆に、自虐の刃へと変わっていった。
「海東くんが、好きだって言ってくれた時、嬉しかった。私、女系家族で女子高で、おまけに男で早々に大失敗して。この先、女としてちゃんとやって行けるのか不安だったの」
きつい言葉が飛んでくるものと構えていた淳が、訝しげにチヨの表情を伺う。ハンドルに突っ伏しているため、長い髪で顔は見えないが、その肩が微かに震えているように感じられた。チヨはその姿勢のまま、話を続けた。
「だから、私にとって海東くんはすごく特別な人間だった。この頃は、だんだんその気持ちが強くなってきてたんだけど、私それをうまく伝えられなくて、待たせるばっかりで」
そこまで言うと、チヨはハンドルから身を起こし、「ほんと、ごめんね」と淳に力なく笑って見せた。違う、これは本当の笑顔ではない。そう気付いた瞬間、淳は車中を揺るがすような声で叫んでいた。今言ったチヨの言葉を、まるごと駆逐する勢いで叫んだ。
「ちゃう、お前はいっこも悪くないねんて!俺が勝手に好きや言うといて、しょうもない事したんや!俺が一方的に悪いねんて、謝んなや、頼むから!」
この数ヶ月で淳は気付いていた。チヨは普段は歯に衣着せぬ女だが、他人との関係の中で自分の「我」を押し通す事は絶対にしない。きっぱり自己主張をした上で、意見の相違があった場合は譲れる範囲でさらりと退く。お人好しともまた違う、彼女流の交際術なのだろう。
そのさっぱりと潔い性質は、チヨの人間的な魅力のひとつである。しかし、こと恋愛に関しては利口になる必要など全くないのだ。ましてや今回は淳が馬鹿な真似をしてこうなった訳で、有りもしない落ち度を穿り返して、自分を責めることだけは彼女にさせたくない。淳はなおも叫び続けた。
「アホ言うてどついたらええやろ、ボロカス言うて当り前やろ!過去も全部ひっくるめて、好きになったんや。一年でも二年でも、一生でも待たせといたらええねん!」
「そんなこと、できない」
「ええねんて、俺には好き勝手言うて構へんねんて!俺はいつまでも待つ、お前が俺を、もういらん言うまで!」
叫びとともに荒い呼吸が切れ、再び静寂を取り戻した車内に沈黙が流れる。デジタル時計は間もなく午前5時になろうかという時刻だ。あれから一日、それは彼らにとってひどく長い時間だったように思えた。二人は依然として黙ったままだったが、その均衡を破ったのはチヨの苦しげな声だった。




