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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;3 カミングアウト
29/77

3-6



 真美にもらったメモの部屋番号を押すと、しばらく経って女性の声で「はい」と返事があった。背中にどっと汗が噴出す。淳は深く息を吸って、用意していた言葉をインターフォンに伝えた。



「深夜にすいません。海東と言います、瀬川チヨさんを迎えに来ました」



 数分後、エレベーターから一人の女性が降りてきた。中肉中背、色白でセミロングの髪をバレッタでアップにしている。その見るからに大人しそうな女性はロックされた玄関のガラス扉を抜け、ロビーにいる淳の顔を見るなり涼やかな声で強烈なジャブを繰り出してきた。



「ここまで来てもらって気の毒だけどね、海東くん。チヨはもう寝てるし、あなたと会いたくないって言ってた」



 予想していた事ではあるが、いざ言われるとけっこう痛い。しかし、ここへはどんな事があっても諦めない覚悟で来たのだ。淳は千夏子の顔を真っ直ぐ見据えると、頭を下げて懇願した。



「あいつに会わして下さい、お願いします。起きるまでここで待ちます」


「会いたくないって言ってる人間を、無理に会わせられないよ。でも、チヨを部屋から追い出す事なら、できない事もない」



 はっと淳が見上げると、そこには射抜くような切れ長の眸があった。



「海東くん、色々とチヨに言い訳したい事もあるんでしょうけど、その前にまずは私を納得させてみたらどうなの」






 それから約1時間。水谷に語った時よりも何十倍も緊張しながら、淳はチヨとの出逢いから今日に至るまでの全ての出来事と、その中で膨らんできた彼女への思いを千夏子に語った。途中、千夏子は最低限の質問を挟むだけで黙って聞いていたが、話が終わるや堅い表情のまま淳に顔を向けた。



「森脇さん以下だね」


「え」


「前の彼氏。森脇さん、チヨと知り合った時ほかに彼女いたの」



 淳の知らないチヨの傷がまたひとつ見えた。浮かれたり、はしゃいだり、少女時代の特権である無邪気な恋をチヨは知らない。そう思うと、いよいよ自分がしでかした事が罪深い事に思えてならない。千夏子はさらに追い討ちをかけた。



「それでも彼はきちんと手順を踏んで、最終的にチヨを選んだ。あなたは信頼させといて裏切ったから、森脇さん以下」



 首のあたりに圧迫感を感じて淳はよろめいた。それが「胸ぐらをつかまれている」とわかったのは数秒後。そのまま揺すられて、耳から眼鏡が外れて落下するのを感じた。



「ふざけんな!」



 あまりの迫力に、一歩引いてしまった靴の底でパキッと音がした。数日内に二人の女に罵声を浴びせられるなど、そうそうあるものではない。



「本当に好きで、大事にしたい女なら、バレるような浮気なんかすんな!」



 千夏子は拳を握り締め、淳を睨みつけている。「清楚」という言葉が似合いそうな目の前の女性から、よもやそんな激しい感情がぶつけられようとは。しかしその眦から涙が溢れてくるのを見て、チヨが彼女の元へ逃げ込んだ理由がわかった。


 この友人は愛しているのだ、チヨを。だから全身全霊でチヨを守ろうとしているのだ。半端な覚悟でチヨに近づく事は、例え本人が許しても彼女が絶対に許さないだろう。俯く淳の耳に、搾り出すような千夏子の声が聞こえた。



「チヨを連れてくるけど、あなたを認めたわけじゃないから。あの子に本当の笑顔が戻るまで、絶対にあなたを認めないから」



 千夏子はそう言うと、踵を返してエレベーターホールへと消えた。再び訪れた夜の静寂の中で淳は、その時ひとつの決心を固めつつあった。






 眠ったふりをしていたが、目は覚めていた。だからインターホンが鳴ったのにも気付いたし、千夏子が出て行ったのも知っていた。もしかして淳が来たのかと、チヨはタオルケットにくるまり身を固くした。


 さっき千夏子に「妹経由で淳に所在を知らせた」と聞かされ、「余計なことを」と腹を立てたばかりだ。なので、もし淳が来ても追い払ってくれるはずなのだが、それにしても出て行ってからもう1時間ほど経過している。何かあったのではと心配になり始めたその時、玄関が開いて千夏子が勢いよくソファの方に歩み寄ってきた。



「チヨ、帰ってくれない」


「え、なに、何言ってんの」


「海東くんが下で待ってる、帰んなよ」


「やだ、会いたくないって言ったでしょ!」


「チヨ!」




 思わずクッションに抱きついた。普段はおっとり型の千夏子だが、意志を通す時の迫力は凄まじいの一言に尽きる。頭から怒鳴りつけられてチヨは小さくなりながら、おずおずと友人の顔を見上げ、そこに涙の跡があることに気付いた。



「千夏子、泣いてんの」


「泣いたし、叫んだし、大暴れしてやったよ。今ごろ下で大反省してるから、早く行ってあげな」


「でも、彼はもう他に――」


「大丈夫、海東くんは本気であんたが好きだよ。じゃないと、私が大事な友達を引き渡すわけないでしょ」



 そう言って千夏子はチヨをタオルケットごと抱きしめた。初夏とはいえ、深夜に外に長時間いたせいで、体がすっかり冷えている。初対面の淳相手にキレまくる親友の姿が目に浮かび、たまらずチヨも泣き出した。そんなチヨの髪を、千夏子の指先が優しく撫でる。



「私たち、昔は子供だったし、意地っ張りだったし、そのせいで大切なものを手放しちゃったりしたけど。でも、あの頃よりはちょっとだけ大人になってると思うんだ」


「千夏子」


「素直にならなきゃ、幸せにはなれないよ。ねえ、チヨ、あんただって好きなんでしょ、彼のこと」



 頼ったり頼られたり、励ましたり励まされたり。ランドセルの頃からお互いを見守り続けた間柄だからこそ、時には辛口になるけれど、それは相手のことを心から思ってのことだ。親と離別したチヨにとって、千夏子の存在は何にも代えがたいほど心強い。


 その千夏子が淳と一緒に帰れと言っているのだ。わだかまりは力いっぱい残っているが、とにかく話し合ってみようとチヨは腹を決めた。




 ざばざばと顔を洗い、ティッシュで豪快に洟をかむと、チヨはいつものジーンズに身を固めた。玄関を出るとき、金曜の夜に観た映画のことを思い出した。感動を淳と共有したくて、勢いで家を飛び出したのだ。


 あの瞬間の海東淳は、チヨにとって大切な何かを分かち合える特別な存在だった。また、以前の二人に戻れるだろうか。それが叶うかどうかは、自分次第である。チヨはスニーカーの紐を固く結ぶと、ぴんと張り詰めた夜の空気の中に、力強く勇気の一歩を踏み出した。



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