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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;3 カミングアウト
27/77

3-4



「海東くん、自分のシャツ、ここんとこ見てごらん」



 そう言われてサイドミラーに姿を映した淳が、そのシミに気付いた途端、身体を硬直させた。思い当たる節がある。酔った女がホテルのエレベーターの中で淳にしなだれかかっていた、その時についたものだろう。


 口元を押さえたまま何もいえない淳の耳に、チヨの静かだがきっぱりとしたアルトの声が響いた。



「人には色々言っといて、自分はそれなの。海東くんの言ったこと、真に受けた私がバカだったよ」



 それだけ言うと、チヨはサイドブレーキを下ろした。エンジンの振動に思わず淳が一歩退くと同時に、タイヤを鳴らしてワゴンRが急発進する。見る見るうちに遠くなるその銀色を追いかけようとして、淳は立ち止まった。今の自分には、彼女を追う資格などない。


 好きだと告白し、側に居たいと願った大切な女を、安っぽいセックスと引きかえに裏切り、信頼を失ってしまった。去り際に見た、チヨの絶望した表情が目に焼きついて離れない。傷ついた羽根を癒している彼女を、守ってやりこそすれ苦しめるなど、何より許されない行為であるはずなのに。



「アホめ!」



 淳は頭を抱えて舗道にしゃがみ込んでしまった。昨夜も愚かな行為だという自覚はあったが、いざそれが現実の裁きを受けてみると、自分が思っていたより何倍も罪深い事に気付き愕然とする。


 もう二度とチヨは自分に笑顔を向けてはくれないだろう。激しい後悔と自己嫌悪が襲いかかるが、もう後の祭りだ。自分で自分を殴りつけたい衝動に駆られながら、淳は重い足取りで自分の部屋へと向かい、そのままシャワーの栓をひねった。


 熱い湯を頭からかぶり、体中を激しくタオルで擦る。昨日の出来事を、女の匂いを、消し去ってしまいたい。肌が赤く腫れ上がるほど擦り続けた淳は、濡れた身体を拭こうともせずぐったりとベッドに倒れこんだ。






 ハンドルを握る手が冷たくなっている。精神的なショックが大きく、体中にアドレナリンが充満したままだ。さっき路肩に車を寄せて、この春から東京で一人暮らしをしている千夏子に電話をした。どこへ向かおうかと考え、彼女の所しか思いつかなかったのだ。



 休日だったらしく、ベッドで二度寝を楽しんでいた千夏子は、チヨの「今から行っていいか」との問いに「いいよ」とだけ答え、その理由は何も聞かなかった。


 こういう時、親友の存在は何にも増して有りがたい。何かあった事は見抜かれているとは思うが、千夏子のことだ。ゆったり構えて今ごろは、プロ顔負けの腕をふるったランチの用意にでも取り掛かっている事だろう。






 ベッドで悶々とする事しばし。淳はむっくりと体を起こすと、ようやくこもった湿気を追い出すために窓を開けた。



 猫の額のようなベランダから見える、寂れた児童公園。昨夜、チヨはその前に車を停めて自分の帰りを待っていた。彼女がどうしてそのような行動に出たのかはわからないが、自分がここへ帰ると信じて疑わなかったからこそ、眠ってしまうほど長い時間待っていたのだ。


 彼女を取り戻せと、もう一人の自分が激しく叫んでいる。その資格がないとはわかっていても、諦める事などできない。彼女が納得するならどんな謝罪でもするし、二度と馬鹿な事はしないと誓う。自分が彼女を追う事で、もう一度チヨを傷つけてしまうかもしれない。しかしどうしても、彼女を失うわけにはいかない。チヨが必要だ。



 ――淳は部屋を飛び出した。






「疲れた、ちょっと寝る」



 専門学校を卒業後、新卒で勤めた会社を退職し、東京に出てきたのがこの春。転職して数ヶ月目の千夏子の部屋は、決して広いとは言えない単身者用1DKだが、几帳面な彼女らしく整理整頓が行き届いている。その快適な部屋の小さなカウチに横になり、チヨはぐったりと目を閉じた。




 ここへ着いたのは11時過ぎ。程よく冷房の効いた室内には、千夏子特製クラムチャウダーの香りが充満していて、いきなりチヨの胃袋が反応を示した。そう言えば、昨夜から何も食べていない。「まずは喰え」という親友の言葉に従い、チヨは遠慮なくがっついた。


 チーズを溶かし込んだ濃厚なトマト味のマンハッタン風チャウダーとソルトクラッカーが、空っぽの心の隙間を埋めていく。人間、やはり基本欲求に逆らってはいけない。食欲、睡眠欲、性欲…と考えたところで、スプーンを持つチヨの手が止まった。



 基本欲求に正直な男の顔が目に浮かび、鎮まりかけた痛みが再び激流のようにチヨの血管を遡る。



「初詣の彼?」


「……」


「ちゃんと話しなきゃだめだよ」


「別に何も」


「ないわけないでしょ、荷物も持たずに。何かトラブって、そのまま飛び出して来たの丸わかりじゃん」



 やはり千夏子には隠し事は出来ない。頷くと同時に、空っぽになったチャウダーのボウルに涙がぽたぽたと零れ落ちた。


 すすり泣く、などという可愛いものではない。顔を歪めて鼻水を啜り上げながら、いい年の女が声を上げて泣いた。かいつまんでしか報告していなかった淳との事も全て白状した。昨夜の一件も、洗いざらい。


 皮肉にもチヨはその告白の中で、どれだけ淳のことが好きになっていたかを認識せざるを得なかった。それがまた新たな涙を連れてくる。


 勇気を出して好きだと言ってくれたのに、自分の都合で中途半端に彼を引き留めていた。正直に言えば、好かれている心地よさを楽しんでいた。狡くて残酷な自分には、やきもちを焼く権利など本当はないのだ。きっと彼は前に進めない自分を見限り、他の女に心を移した。そう言いながら、チヨはわんわん泣いた。


 実際はまるで事情が違うのだが、この時点ではチヨにはそうとしか思えなかった。




 そんなチヨを泣きたいだけ泣かして、千夏子はクローゼットから客用の布団を引っ張り出した。案の定チヨが眠ると言い出したので、それを敷いてやり寝息が聞こえたところでチヨの妹に連絡を入れた。


 今晩はここへ泊めて、たまっている感情を全て吐き出させるのがいい。チヨは不器用だが、賢い人間だ。そのうちどうすればいいかが見えてくる。かつて千夏子も、そうしてチヨに助けられた事があった。




 千夏子はチヨの食器を片付け、自分もベッドに横になった。長い夜になりそうな気配に備えて、体力を温存しておくためだ。加えて、きっとやって来るであろうチヨの相方に、がつんと一発お見舞いしてやるために。




 その相方がやってきたのは、草木も眠る深夜2時過ぎ。この夜、海東淳は大人しい女が怒ったらどれほど恐ろしいのかという事を、身をもって体験することになる。



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