3-3
飲み会の帰り、送ると申し出た田代をきっぱりと断り、チヨはさっさと家に戻ってきた。改めてそういう視線で観察してみると、彼がいかに露骨に好意をアピールしていたか、ようやくわかった。今日はつれない彼女の態度に戸惑っていたようだが、変な期待を持たせない方が彼のためでもある。今後は二人で会おうと言われても、断固として断るつもりだ。
悠花などに言わせれば「モテモテでいいじゃん」なのだそうだが、生憎自分は男を手玉に取る趣味はない。たった一人でも苦戦をしているというのに、これ以上悩みの種を増やしてたまるものか。
それが水曜日の夜のことで、今日は金曜日。二人とも夜のバイトがない日だったので、チヨは思い切って淳に電話を入れた。先日の事を謝って、どこかで楽しく食事でもしよう。今日こそ家に呼んで一緒に映画を観てもいい。昨日ダウンロードした「ノーマンズランド」は淳も観たいと言っていた作品だ。
しかしそんな彼女の期待に満ちた妄想は、機械音による圏外アナウンスに打ち切られた。きっとまた充電をサボったのだろう。チヨ以上に電話に依存しない淳は、ともすれば数日電源が落ちたまま携帯を持ち歩いている事もある。
仕方がないのでチヨは、経済学部の教室あたりをウロついてみる事にした。それを真っ先に見つけたのは、淳本人でなく水谷だった。
「おー、チヨさん、海東に用事?」
「そうなの、電話が繋がらなくて」
「伝言なら伝えるよ、俺ら今から会うから」
「え、今から?」
「うん、まあ飲み会っていうか、ちょっとね」
せっかく勇気を出したのに、がっかりだ。普段は飲み会になんか行かないくせに、どうしてこんな日に限って。
しかし淳のことなので、早めに切り上げて帰って来るはずだ。遅い時間に電話をして、出かけられるようならお茶をしてもいいし、明日のランチに誘ってもいい。そう気持を切り替え、チヨは水谷にいつものビッグスマイルを向けた。
「じゃあ、携帯の充電を忘れんな、って言っといて」
「りょーかい、っす」
その夜、ジャワティー片手に映画を観たチヨは、感動の涙に咽んでいた。フランス、イタリア、ベルギー、イギリス、スロヴェニアの映画人が手を取り合って描いた、わずか98分のフィルム。その中には戦争の不条理が余すところなく集約されていた。
殆ど激しい戦闘シーンなどないのに、この衝撃の大きさはどうだろう。ボスニア紛争の最前線、両軍の中間地帯である「NO MAN'S LAND」で交錯する、生と死と人間のエゴイズム。全世界の指導者は、この映画を観るべきだ。
久方ぶりに心を揺さぶられる一作に出逢い、チヨはぜひとも淳にこれを観せてやらねばと思った。できるなら、今すぐにでもこの気持を共有したい。そう思うが早いか、チヨは電話を手繰りよせ淳のナンバーを呼び出していた。
一方、淳はその頃、後悔の嵐の中にいた。背後のバスルームからは、シャワーの音が派手に聞こえてくる。繁華街から一歩路地裏に流れた所にある、安っぽいホテルの一室で、名前も知らなければ顔もロクに覚えていない女と、今から事に至ろうという、そういうシチュエーションなのである。
なぜこうなってしまったか。一番大きな理由は昨今の肉体的欲求不満によるものだろう。有体に言えば、健康な20歳の男が目の前に好きな女という餌を吊られた状態で、いつ終わるとも知れない生殺し状態に耐えている。それは自分で望んで飛び込んだ試練ではあったが、思った以上に厳しいものであった。
そんな中で背中を押したのは数日前、チヨと起こした諍いである。剥き出しのチヨの肌を、舐めるように這う田代の視線を想像しただけでムカついたし、要領は悪かったにせよ注意を促した自分を、チヨは無碍にしたのだ。
「海東くんに関係ないよね?」――その言葉が淳に少なからずショックを与えていた。チヨは結局、自分を受け入れるつもりはないんじゃないか。だったらもう勝手にしろと、その憤りのままコンパに来ていた女の誘いに乗ってしまったのである。
「俺は気持ちを伝えた。でも、向こうの都合で付き合ってないんやから、とやかく言う権利はない」
淳は心の中で何度も言い訳をくり返した。しかしいざ冷静になってみると、自棄になって他の女で鬱積を解消しようなど、いかにも大人気ない行為に思えてきた。過去にもこういう遊びは経験があるが、その時はただの性欲処理として何の咎も感じなかった。
今日の相手も「彼氏持ち」と言いながら、会ったばかりの男をホテルに誘う節操のない女だ。一晩限りで後腐れはないだろうが、現在進行形で好きな女がいる身としては、陰で不実な真似をするのはいかがなものか。そう思っているうち、女がシャワールームからタオル一枚で現れた。
「ねえ、シャワー使う?」
ようやく女の顔をまともに見た。細い目を無理に囲んだアイラインが湯気でどす黒く滲んでいる。金茶に近いブリーチの髪は何とかというモデルを真似しているのだろうが、どう見ても使い古しのモップにしか見えない。チヨの黒髪のほうが数百倍きれいだと淳は思った。
そのモップ女がだらしなくベッドに横になり、バッグから煙草を出して咥えるのを見てますます萎えたが、ここまで来たら仕方がない。淳はジーンズを乱暴に脱ぐと、まだ先ほどの湯気が充満するバスルームのドアを開けた。
もう何度目のコールになるだろう。最初は映画を観せたくて何度もかけていたのだが、深夜0時を過ぎると心配な気持の方が勝ってきた。呼び出し音が鳴るので電池切れではないようだが、LINEの既読はつかない。
あの人間嫌いが二次会に行ったとは考えにくいし、どこかに寄り道でもしているのだろうか。どっちにしても間もなく家には帰って来るはずだ。チヨは車のキーをつかんで外に出た。家の前で待っていたら、淳はどんな顔をするだろう。
ちょっとした悪戯心と、今夜中に仲直りしてしまいたいという乙女心と。その時のチヨにはまさか、淳が朝帰りするなど思いもよらなかったのだ。
車のウィンドウがノックされる音で、チヨは目を覚ました。日陰ではあったが車内は半ば蒸し風呂状態で、全身がびっしょりと汗にまみれている。ダッシュボードの時計を見たら、9:22と表示されていた。どうやら車の中で淳を待つうち眠ってしまったらしい。ぼやける目を擦ってウィンドウの方を見上げると、待っていた人物が呆れたような顔をして車内を覗き込んでいた。
「何やっとんねん」
開けたウインドウから、アホかという含みの声が飛び込んでくる。チヨは寝ぼけた頭で必死に昨日からの行動を整理した。そうだ、映画を観て感動して、そして謝りたくて、ここへ来て待っていたのだ。なのに何時間待っても淳は帰ってこなかった。だからこうして、妙齢のレディが車で爆睡などというマッチョな真似をしでかす結果となったのだ。
「どうして帰ってこなかったの、昨日」
チヨとしては別に責めるつもりではなく、単純な疑問として尋ねたのだが、淳の顔色が一瞬にして変わった。
驚いたのはチヨだ。友人と麻雀をしていたとか、酔って水谷の家に泊まったとか、即答で返ってくると思ったのに、淳は落ち着きなく目を泳がせて言葉を捜している。もしやトラブルに巻き込まれたのではと、チヨはさらに突っ込んだ。
「何か、あった?」
「いや、別に」
その時、淳のシャツにシミがついているのをチヨの目が捕らえた。衿の先から鎖骨にかけて、茶色くこすったような色がついている。最初は「泥かな」と思ったが、その汚れをチヨは日常的に目にしている。ファンデーションの色移りだ。
途端に心臓に凍りつくような痛みが走る。間違いない、よく見るとリップの色も混じっている。それは即ち、淳が化粧をした人物と接触をした事に他ならない。昨夜、彼がどこで何をしていたのか、そしてそれを言えなかった理由を、チヨはハッキリと理解した。




