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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;3 カミングアウト
24/77

3-1



 あの正月の告白から、すでに4ヶ月。桜の花も散り、チヨと淳は何の進展もないまま3年生になった。とは言えあれ以来、以前にも増して二人の距離が縮まったのは確かだし、バイトや授業の合間を縫って映画に行ったり食事をしたり。LINEだって一日数回のやり取りをする。内容だけ見れば、倦怠期のカップルよりよっぽど密な付き合いなのだ。


 しかし、そこに年頃の男女の色気があるかと言えば答えはノーだ。いや、厳密に言えば秘匿して有事に備えてあるといったところか。男子である淳にとっては、時にそれがストレスとなる場面も最近では多くなってきた。




「あ、わるい」



 歩きつつ、つい当たってしまった手を淳は引っ込めた。恋人ではなく、かと言ってただの友人でもない。好きだとカミングアウトしたまま、互いの事情で平行線を辿っている立場としては、非常に間合いの取り方が難しいのだ。


 正直に言えば、手を引っ込めるどころか、がっつり握ってしまいたいし、もっと正直に言えばそれ以上の事もしたい。風になびくチヨの長い髪が鼻先を掠めてシャンプーの匂いなんか嗅がされた日には、街中でも思わずもやもやする時がある。


 心はともかく体は至って健康なハタチの大学生男子にとって、今の付き合いはまさに蛇の生殺し状態と言えるだろう。




 それでも必死に我慢しているのは、自分に負い目があるからだ。好きとは言ったものの、自身の抱える問題については未だ何ひとつ語れないままでいる、そんな男にチヨを手に入れる権利はない。そして肝心の彼女も、傷ついた心の療養中である。


 それがわかっているだけにジレンマは募る。近づきたい、近づけない、そんな苛々が淳の中で鬱積し、出口を探して熱を高めつつあった。




 一方チヨも、どう名づけていいのかわからない感情を持て余し始めていた。



「ケーキあるんだけど食べていかない」



 家まで送ってくれたお礼という名目で、何度かチヨは淳を家に誘ってみた。しかしあの森脇事件の夜以来、淳は一度も部屋にはあがろうとはしない。理由は明白。部屋に二人っきりになったが最後、理性をコントロールする自信がないからだ。しかしそれを表情には出さず、しれっと涼しい顔で淳は言う。



「いや、帰って洗濯せなあかんし」


「そっか、じゃあ、おやすみ」


「おう、また明日」



 誘惑しているという意識はないにせよ、自ら隙を見せるなど普段のチヨには珍しい。それだけチヨも淳の真意が見えずに、不安を感じているという事だ。


 何しろ好きだと言ってくれたのは一回きりで、あれっきり淳はまた無表情な偏屈男に戻ってしまった。告白したのなら、たまには「その気」の片鱗でも出してくれれば安心するのに。さっきだってそうだ。手が当たったくらいで、あんなに挙動不審になられると気分が落ちる。


 しかし、つかず離れずの距離を提案したのは他でもないチヨ自身である。もしかして、煮え切らない女に愛想を尽かしてしまったのだろうか。でも、その割には避けられるでもなく淡々と付き合いが続いている。これはいったい、どう読めばいいのか。




 チヨは溜息をついた。この数ヶ月、淳がいつも側にいた事で、いつの間にか自分の中で「オンナ」の部分が復活の兆しを現しているのは確かだ。これは大変に喜ばしい事であると同時に、困った事でもある。何故なら、この期に及んでさえ小さな一歩を踏み出す勇気がないのだ。


 それほど彼女にとって傷ついた記憶は深く、いまだに痛みに怯えている。だから、強引にドアを開けて欲しい。そして自分を繋ぎ止めている鎖を叩き切って欲しい。本来なら受身である事を潔しとしないチヨであるだけに、相手に依存していらいらするばかりの自分を、日増しに嫌悪する気持が募っていった。




 淳がもし、こうしたチヨの内面を知ったなら「早よ言わんかい!」と叫ぶところだろうし、チヨとて淳の下心を見抜ければ「あんたこそ!」と怒鳴り返すに違いない。しかし表面上はポーカーフェイスが得意の二人だけに、未だ互いの心互いに知らずである。


 これは一種の悲劇と言えるだろう。共鳴しあっている一組の男女が、心の枷に阻まれ寄り添えないもどかしさ。それが今の二人の間では、本人達が知らないうちに実は爆発寸前になっていたのだ。






 その起爆スイッチが入ったのが、6月に入って間もなく。いつもは淳がすすめた映画をチヨが観るのが恒例だったが、今回はチヨから「みてみてコール」がかかった。


 その映画は「父、帰る」というロシア映画で、物語は母親と暮らしていた二人の兄弟のもとに、蒸発していた父親が12年ぶりに帰ってきてしまう所から始まる。父親は息子たちを旅に誘うが、互いの距離はそう簡単に埋まるはずもなく。戸惑いながらも事実を受け止めようとする兄、反抗心を隠そうともしない弟、そして粗暴で一切を語らぬ父。その三人の葛藤を描き出しつつ、ストーリーが展開する、ストイックな人間ドラマである。


 観ながら、淳は「やられた」と何度も思った。もちろん脚本や役者も良かったし、舞台となる湖の自然も美しかった。しかし何より淳に衝撃を与えたのは、撮影当時弱冠39歳だったアンドレイ・ズビャーギンツェフ監督、その人物の手腕である。


 あらゆるカットにおいて彼は、淳が「俺ならこう撮る」と読んだ手法を実践しながら、小癪な技でひねりを繰り出してくるのだ。それは淳の中で、一種のジェラシーに近い熱を生んだ。自分もこういう映画を撮ってみたいと、素直に思える秀逸な作品だった。


 さすがチヨが薦めるだけの事はある。今まで彼女が「いい」と言った映画で外したものは一本もない。本当なら一緒に観られれば最高なのだが。チヨの家のリビングのあの小さなソファに、二人で並んで座って。観終わった後にはお決まりの批評会。そして……




 そんな妄想に浸っていたせいか、淳は目の前の光景を一瞬幻かと思い、レンズの下の目をこすった。大学から数分歩いた所にある、ガラス張りのコーヒーショップ。この界隈では一軒しかないコーヒー専門店なので、淳とチヨも度々利用しているのだが、その窓際にチヨの姿があった。


 一人ではない。小さなテーブルを挟んだ向かい側に、自分たちと同年代くらいの男が座っていて、チヨの話に相槌を打っている。淳は思わず辺りを見渡し、道の向い側に停車していたワンボックスカーの影に身を潜めた。別に隠れないといけない理由などないけれど、ありのままの状況をじっくり観察したかった。


 男はさっきと同じく時々微笑みを交えながら、さも熱心そうにチヨの話を聞いている。その様子を見ているうちに、淳はある結論に到達した。



 ――あの男は、チヨに気がある。



 間違いない。ヒト科オスの動物的本能が、あいつは敵だと危険信号を発している。だとしたら、いつの間にあの男はチヨに接近したのか。ここ数ヶ月、あんなに隙なく彼女に張り付いていたというのに。お陰で大学の仲間からは「付き合っているのか」と質問攻めにあう毎日だ。


 今までは曖昧にごまかして来たが、ライバル登場とあっては黙ってもいられない。まずは敵の正体を探らねば。思い当たる適任者は約一名。奴ならどうにかして情報を手に入れてくるだろう。そのかわり交換条件を持ち出されるだろうが、この際そんな事は気にしていられない。


 淳は翌日、大学に行くなり水谷をつかまえて、講堂横のカフェテリアへと連れ出した。



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