2-12
ジェイズを出た時には、まるで夢から覚めたような気分だった。さっきまでの心地よい酔いが、吹き付ける木枯らしや駅前のうらぶれたネオンに醒まされて色あせていく。
チヨはコートの前をかき合わせてしょんぼりと肩を落とした。これから数分歩いて電車に乗り、さらにいくつか駅をやり過ごせば、また見慣れた日常が戻ってくる。それが悪い事だとは思わないが、久方ぶりにあんなに陽気に笑えたのに、その時間がお開きになるのが残念で仕方がない。しかしそれは淳も同じで、腕時計を見てまだそんなに遅くない時間であるのを確認すると、
「酔い覚ましに、ちょっと歩こか」
そう言って線路沿いの高架下を、さっさと歩き始めた。その態度は褒められたものではなかったが、チヨもそうしたかったので素直に従った。二人はしばらく無言で冷たい風に吹かれながら歩いていたが、そのうち間が持たなくなったチヨが先に口を開いた。
「ねえ、実家はどうだった?」
「別に」
「何かイベントとかなかったの」
「何もあらへん、帰るだけ金の無駄や」
その言葉にチヨは何か考えるように黙り込み、やがて手に白い息を吐き出しながら、独り言のような調子でぽつりと漏らした。
「でもさ、実家があるだけでもいいことよ」
その寂しげな響きに、淳の鼓膜が反応した。チヨの家庭環境を知っていながら、さすがに不用意な発言だったと気付いたが、口から出てしまったものは仕方がない。ここはちゃんと謝るべきだ。淳は立ち止まり、不器用ながら精一杯の謝意を伝えた。
「すまん」
「あ、やだ、別に気に触ったとか、そんなんじゃないよ。ちょっと羨ましかっただけ、私お正月は居場所がないからさ」
ハハッと陽気に笑って、チヨは再び歩き出す。街灯に照らされたその背中で、長い黒髪が絹のように輝くのを見て、淳は思わず手を伸ばしてみたい衝動に駆られた。
どこの街でも線路沿いがそうであるように、今二人の歩いている道も生活と喧騒の澱が吹き溜まり、殺伐とした様相を呈している。放置された自転車、風俗店の立看板、踏み潰されたビールの缶、それら猥雑な風景の中にあって、チヨの姿だけが凛とした色彩を放っていることは、淳にとって一種の感動に近かった。
それが胸の奥の扉を開放したのかもしれない。気がつけば淳の唇から思いがけなく言葉が紡がれていた。
「好きや」
「えっ」
聞いた方はもちろん、言った本人がいちばんびっくりしたらしく、振り向いたチヨが見たものは、呆然と目を丸くしている淳の表情だった。しばらく二人はそのまま無言で対峙していたが、このままでは埒が開かないと判断したチヨが、その場を収拾するべく冗談めかした調子で笑顔を見せた。
「やーだ、何て顔してんのー!」
いまだ表情を固くしている淳の顔の前で、チヨがひらひらと手を振る。
「酔っぱらうと、イミフなこと言っちゃうときあるよ。びっくりするよね」
「そんなんと、ちゃう」
チヨの言葉を遮る勢いで、淳が首を激しく振る。
「確かに酔うてるし、勢いで言うてもうたんは認める。せやけど、お前が好きなんはホンマの事や」
いきなり好きだと言われたことよりも、淳が自身の心の内を見せたことにチヨは驚いていた。挨拶さえもまともに交わせないコミュニケ―ション音痴のこの男が、本音を語るなどあり得ない事に思える。しかし、それだけ何か伝えたい事があるのだ。チヨは慎重に淳の二の句を待った。
「返事なんかいらん、好きになってもらおうとも思わへん。そもそも俺は、誰かを好きになれるような立派な人間やない」
「海東くんが立派じゃないなんて、誰が決めたのよ」
「自分でそう思うねん、お前も俺の事を知ったら最低やと思うはずや。何でそうなんかは言われへんけど」
握り締めた淳の拳が小さく震えている。その姿を目にして、チヨは彼の中に自分と同種の匂いを見出した。海東淳は大きな傷を抱えて生きている。そして勇気を振り絞り、ギリギリの自分を曝け出そうとしているのだ。
ならば、彼にとってはこれがブレイクスルーに繋がるチャンスかもしれない。先日、淳が自分の受け皿になってくれたように、今度は自分が受け止める番だとチヨは直感した。
「言いたくない事は、言わなくていい。そのかわり、言いたいことは全部ぶちまけちゃいなよ」
しかし淳はしばし沈黙した後、何かを言いよどみ、やがて大きな溜息とともに俯いてしまった。
「あかん……」
淳としても、チヨが精一杯自分を受け入れようとしているのは感じていたので、できれば思い切って飛び込んで行きたかったのだ。しかし彼を縛る記憶の鎖が、開きかけたドアを再び封印してしまった。淳は情けない思いで肩を落とした。
「すまん、思うてる事だけ勝手に言い逃げみたいになってもうて。そんなん卑怯やっちゅうのはわかっとる、それでも……」
チヨは淳の目を見つめている。その瞳の中に真剣で暖かな光を見出した瞬間、淳はまるで背中を押されたように、咽喉に引っかかっていた最後の一言を口にした。
「……それでも、側におりたい」
それを聞いて、チヨの大きな口がいつもの陽気な三日月形を描く。たとえ心の解放にまで至らなかったとしても、彼の勇気ある一歩が嬉しかった。この無愛想な男は、本当は臆病で傷つきやすい人間なんだろう。そう思うと、チヨはますます淳の色んな側面を見たいと思わずにはいられなかった。
「それでいいよ」
チヨが淳に一歩近づき、さらに口の端を引き上げる。
「海東くんといると、私は楽しいよ。それでいいじゃない、私も中途半端な女なんだしさ」
「中途半端とか言うなや」
「だって本当だよ、正直まだ過去を引きずりまくりだし。私の方こそ、誰かを好きになれるような状態じゃないもん。だから、かえって助かる、つかず離れずでいてくれた方が」
チヨがくるりと踵を返し、再び青白い街灯に照らされた高架下を歩き出した。彼女にとって過去に関する事は、口に出す事さえ辛い類の事に違いない。それでもありのまま、己の弱さをも認めてしまうのがチヨらしい。
淳は改めて彼女の潔さを再認識させられた。同時に、そんなきっぱりした女がいまだに引きずる傷の痛みを思い、森脇の存在が心底憎らしくなった。せっかく立ち直ろうとしているチヨを、なぜこの期に及んで再び傷つけるような真似をするのか。沸々と苛立ちを募らせていた淳の思考を、チヨの声が中断した。
「ただし、傷の舐めあいだけは御免だからね」
まっすぐ前を見たまま、チヨが毅然とした口調で言い放つ。
「確かに、私には色々とまだ解決していない問題があるし、海東くんだって、どんな事があったのか知らないけど、同類の人間と寄り添って楽になろうなんて、私はイヤだから」
そこまで一気に言うと、チヨは淳の方に勢いよく向き直った。口を引き結び、真面目な表情だ。長い髪から覗く耳たぶが寒さで赤くなっているのを見て、またもや伸ばしそうになった自分の不謹慎な指先を、諌めるように淳はぐっと握りこむ。
「私ね、今はどうしようもないヘタレだけど、いつかはここから脱出してやる、って頑張ってるんだ」
「わかってる」
「海東くん、さっきは答いらないって言ってたけど、取りあえず私が復活した暁には、きちんと答を出すよ。ただし、その時まだ海東くんが他の女の子に目移りしてなければだけど」
三日月の口元から白い歯がこぼれ、からかうような表情になったが、チヨの目は笑っていない。
「アホなことぬかすな」
「なんでアホよ、明日の事なんてわかんないでしょうが。逆に海東くんだって、私を拘束する権利はないんだからね」
「わかってる」
そんな会話をしているうち、いつしか一駅歩いてしまったらしい。お互い名残惜しくはあったが、さすがにこの厳寒の中をもう一駅歩く根性はない。駅構内に入ると、二人は定期を出して改札を抜けようとした。その時、四十代くらいの女性がすれ違いざまに淳の顔を見て、驚いたような声をあげた。
「あっ、あなた」
その女性は嬉しそうに目を輝かせると、淳の方に寄ってくる。
「あなた、『家族の肖像』のリョウ君じゃない、そうで――」
「人違いです」
瞬時に答える淳に、チヨは小さな違和感を覚えた。普通こういう場合には、びっくりするなり戸惑うなり、何かしら突然の出来事に対するリアクションがあるはずだ。それなのに淳は、まるでマニュアルがあるかのように彼女の問いかけを切って捨てた。その表情はまるで苦い薬でも飲んだように顰められている。
「行くで」
「あ、でも」
「ええから、行こ」
淳がチヨの肘のあたりを掴んで歩き出す。引きずられるような格好になりながら、チヨはまだこちらをポカンと眺めている先ほどの女性に向かい、格好ばかりの会釈をした。
電車に乗ってからも淳は黙ったまま、何かを拒絶するようなオーラを全身から放っている。チヨの違和感はますます膨らんだが、こういう時は無理に触れない方がいい。全く眠くはなかったが、チヨは目を閉じ寝たふりをする事にした。正月運行のガラガラに空いた電車のシートで、微妙な間を空けて揺られながら、二人の心中にはそれぞれの靄が去来していた。




