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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;2 彼女の事情・彼の隠しごと
21/77

2-10



 近鉄難波から上本町で乗り換え、結局淳は実家に帰ってきた。道すがらどこか静かな場所はないかと探してはみたが、正月の特別運行は初詣に出かける人で寿司詰めに近く、とても電話どころの騒ぎではない。


 しかし今夜ばかりはどうしても気持ちを研ぎ澄まして話をしたかった。ならば延々と場所を探して時間を費やすよりは、いっそ自分の部屋に戻ってしまった方がいいと判断したのだ。



「おかえり」


「おう」



 玄関から続きの暗いキッチンの中、開け放たれた冷蔵庫はそこだけ煌々と光が溢れている。風呂からあがったばかりらしい弟の正哉がボクサーパンツ一枚で、ミネラルウォーターの2Lボトルを直接あおっていた。


 その背中は自分がこの家を出た時より確実に逞しくなっている。もともと骨細い造りの淳に比べ、弟はがっしりとして背も高い。それでも大学に入る頃まではかろうじて淳の方が背が高かったが、今では5センチ以上正哉の方がデカいだろう。この夏からは部活の剣道部でも主将を務めていると聞く。全く兄の面目も何もあったもんじゃない。


 これ以上弟の肉体美を見て惨めな気分になるのも阿呆らしく、そそくさと二階に上がろうとした背後から、正哉が「兄ちゃん」と淳を呼び止めた。



「なんや」


「兄ちゃん、何かあったんか」


「は、何もないで」


「せやったらええねんけど、何か元気ないみたいやったし」


「そんな心配はせんでええ」


「自慢の兄ちゃんやしな、気になんねん」



 屈託なく笑う弟の顔に、返す言葉が見つからない。小さい頃から兄を慕って成長した正哉にとって、今も淳は英雄であるらしい。しかしその実態は、挫折したまま現実に直面できないでいる腰抜けだ。こんな兄貴が自慢になるわけがない。むしろ自慢されるべきは正哉の方だ。


 淳は正哉に「はよ寝え」とだけ言い残すと階段を二段飛ばしで上り、自室のドアを閉めるなり明かりもつけずに携帯の通話ボタンを押した。






「――はい」



 数日振りに繋がったその回線は、長いコールの後に待ち望んだ声を淳の鼓膜に響かせた。その声を聞いた途端、淳の中で何かが弾け飛ぶ。思わず口をついて憎たらしい言葉が出てしまったのはそのせいかもしれない。



「なんや、生きとったんか」


「こっちの台詞だよっ」



 明らかに暴投と思われる球をクリーンヒットされ、淳の全神経に痺れるような快感が走る。求めていた場所に一瞬で到達した、その事実が淳の中で曖昧だった気持ちを確信へと変えた。


 淳はもっとチヨの声を聞きたくて適当な話題を探したが、無口の権化のような男が電話で気の利いた話をしようなど無謀に近く、その気はなくても口調がついつい横柄になってしまう。



「携帯、切れっぱなしやがな」


「ごめん、充電してなくてさ。もしかして電話くれた?」


「電話せなんだら、切れてるかどうかわからんやろ」


「ははっ、だよねー。何か用事だった?」



 そう言うと電話の向こうで淳が黙り込んでしまった。チヨが「おーい」と呼んでみても返事が返ってこない。こういう時は単に言葉が見つからないだけか、本当に深刻な用事があるかだ。


 淳の性格からすると言葉不足の線が濃厚だろうが、もしや何かあったのかもしれないと一抹の不安がよぎる。しかし再度「おーい」と呼んでも淳が答えないので、チヨのいたずら心がムクムクと頭をもたげた。



「もしもーし、海東くーん、何で黙ったままですかー。まさか私の声が聞きたかっただけですかー、なーんてね」



 そこまで言えば「ナニイウテンネン」と反撃が来るかと思ったのだが、相変わらず淳は黙ったままで、仕方がないのでチヨがさらに突っ込もうとしたその時、遠くでくぐもったような淳の声が聞こえてきた。



「……そのまさか、て言うたら」


「え、なに? 聞こえない」



 聞き取れずチヨが復唱を求めると、今度はハッキリと淳の声が耳に届いた。



「そのまさかや。しんどかってん、こっちにいてる間ずっと。せやから話したくて電話した、それだけの事や」



 予期せぬ言葉に、今度はチヨが沈黙する番になった。時間にすればほんの何秒だったと思う。しかしそのインターバルを当惑と受け取ったらしく、淳がいきなり通話を切り上げようとした。



「すまんかったな、忙しいときに邪魔して。ほなまた――」


「待ってよ海東くん、私も!」



 咄嗟に出た大声に自身が驚いたが、しかしここで話を終わらせてはいけない、とチヨは直感した。深い意味を咀嚼するまでには至らないものの、さっきのフレーズは彼のSOSと見て間違いあるまい。それがどんな理由にせよ、あの偏屈王の海東淳が何かを訴えようとしたのだ。ならばこちらも彼の叫びに誠実に向き合うべきだ。チヨは思ったとおりの言葉をストレートに吐き出した。



「私も、話したかった。電話してくれて嬉しいよ」



 つけっぱなしのテレビでは、今まさに新年を迎えるカウントダウンが始まったところだ。チヨは沈黙する電話の向うに「3、2、1」と呟いた。



「ゼロ!あけましておめでとう」


「……おめでとう」



 ブラウン管から歓声が聞こえた途端、どちらともなく新年の挨拶を交わす。その平和な響きが先ほどの緊迫した雰囲気とあまりにギャップが大きく、思わずチヨは笑い出してしまった。



「なに笑うとんねん」


「だってー、カウントダウンなんかしちゃってるし、うちら」


「俺はしてへん、そっちが勝手に数えただけやろ」


「いいじゃん、目出度いんだし硬いこと言わないの。ところで海東くん、いつ千葉に帰ってくんの」


「三日の夜には帰るけど」



 そこでチヨは息を吸い込んで、お誘いをかけた。きっと淳が電話してきた理由からは脱線してしまうが、今は勢いよく明るいムードで押し流したい。



「じゃあさ、映画行こうよ、フレンチアニメの面白そうなのがあるんだ」


「おう、知っとる。キモいやつやろ」


「キモいけど可愛いんだよ、世界中で絶賛されてるんだからね」


「わかった。ついでに初詣も行くか」


「行こう行こう、じゃあ帰ってきたら連絡ちょうだい」



 結局SOSの解決になったのかどうかはわからないが、電話を切った時点ではいつもの淳に戻っていたので結果的にはオーライだろう。やがてプリングルズとアイスを買って帰ってきた親友に、チヨは「おめでとう」と言った後で手を合わせて平伏す事になった。初詣と言うからには「初」は取っておかねばなるまい。チヨはそういう所に几帳面だ。



「ごめん、千夏子。……初詣は行けなくなった」


「ほほぉ、親友との先約より優先する人がいるわけですね。高いよぉ、この貸しは……、っつーかこのやろっ、吐きやがれ!」



 千夏子がチヨをくすぐり、二人して部屋を転げ回る。弱い脇腹を責められてひいひい言っているチヨの背中にどっかりと負ぶさって、長年の友が囁いた。



「チヨも、そろそろ幸せになっていい頃だ」


「そんなんじゃないよ」


「それならそれでいい。でも、もしそうなった時は」


「わかってるよ、ありがと」


「うしっ、飲みなおすべ」



 翌朝は関東も関西も快晴に恵まれ元旦を迎えた。年賀を交わしたり、お雑煮を食べたり。そんな普通の正月のお決まりが、この年に限ってチヨと淳にとって特別に感じられたのは、目に鮮やかな青空のせいだけではない。


 漠然と、しかし何かが確実に動き出している。そんな予感も一緒にバックパックに詰め込みながら、二人は何日かぶりの我が家への帰り支度を始めた。



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