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結局、昨夜は電話がつながらないまま、気がついたら枕に突っ伏して眠っていた。おかしな格好で寝たので、首や腰がきしんで痛い。それでも今日は高校時代の友人と年越し宴会をする事になっているので、寝てばかりいるわけにもいかない。
時間を見ようとしてスマホを覗き込むと、画面にチヨのメモリーが表示されたままになっていた。昨夜は繋がらなくて助かった。繋がっていたら、何を喋っていたかわからない。淳は画面を閉じて階下に下り、熱いシャワーでぼやけた頭を無理矢理覚醒させた。
久しぶりに会う高校時代の友人は、淳が想像していたより大人びていた。身長が伸びるのを期待して買ったブカブカの制服を、とうとう3年間ブカブカのまま着続けた委員長は、何と卒業後に10センチも背が伸びて別人になっていた。高校時代、遊び人の名を欲しいままにしたサッカー部のエースは、心斎橋のクラブでバーテンをやっている。ちなみに彼は早くも結婚していて、来年は子供が生まれるらしい。
そんな連中の顔を見渡して、卒業後の2年の月日の間に、かつての友がそれぞれの人生をしっかりと歩き出していることが淳には眩しかった。
「海東、東京の大学やねんて?」
「東京とちゃう、千葉や」
「へえ、ほんでどうやねん、千葉の大学生活は。よっぽど勉強したい学科か何かあったんやろ」
言葉に詰まる。大阪にいられない理由ができたので千葉まで逃げた、と言えればどんなにか楽だろう。実際、大学だって行きたかったわけではない。「何がしたいか」というより「何がしたくないか」を優先した結果がこれだ。惨めな気分を噛みしめながら、淳は曖昧な笑いでその場を誤魔化すしかなかった。
「俺は海東が向こうに行ったんは、テレビの関係か思うてたけどな」
最も触れられたくない話題に話が転んでいく。少年時代の演劇クラブ、毎週末通い続けた東京のテレビ局、幼い自分が台本どおりにブラウン管の向うで泣いたり笑ったりしている。その光景が頭に浮かぶたび、最後にはあの葬りたい記憶に辿り着くのだ。
淳は深みに落ちていきそうな思考を断ち切ると、何気ない風を装って立ち上がり、友人達に離席の断りを入れた。気が落ち着くまでしばらく、この和やかで残酷な空気から離れる必要がある。
「テレビはもう関係あらへん、俺、一般人やし。ちょっと悪い、電話一本かけてくるわ」
「おいおい、彼女かー」
うまい具合に話題がひやかしに変わった。淳は思わせぶりに薄笑いを浮かべると、店の外に出て冷たい空気を思い切り肺に吸い込んだ。もうあと数時間で年が変わる。初詣に向かう着物姿の女性が目の前を何人か通り過ぎていった。その姿を眺めて、また淳は無性にチヨの声が聞きたくなった。
電話をして何を伝えたいわけではない。ただ彼女の存在を確かめたいのだ。約550kmの距離の向こうに、自分をありのままの自分として認めてくれる人間がいることで、どんなにか魂が救われるか知れない。
淳は白い息を吐き出し、今立っている場所の数十メートル向こう側を眺めた。そこにはかつて小さな再映館があり、名作を安い料金で上映してくれるので、映画好きな若者たちの溜まり場だった。
淳が初めてそこを訪れたのは、たしか高校に入ってすぐの頃。その時観た「ニューシネマパラダイス」の感動が、今日の海東淳の精神世界の一端を築き、瀬川チヨと結びつけてくれたのだ。そう考えると、ますますチヨの声が聞きたくなった。淳はもう一度深呼吸をするとスマホをつかんだまま店に引き返し、友人たちに辞去を告げた。
「すまん、俺ちょっと帰るわ」
「なんやねん、女か?」
「悪いな」
「むっちゃむかつく、このド助平」
やんやの野次に送られながら淳は大晦日の街に飛び出し、人の波をすり抜けるように先を急いだ。どこか静かな場所でチヨに電話をかけたい。その衝動で店を出たはずなのに、足は無意識に近鉄難波方面を目指している。無意識に家に帰ろうとしているのだ。2年経っても習慣とは抜けきれないものらしい。
淳はうんざりした気分になった。道頓堀川にかかる戎橋は新年を待つ若者の人だかりで、歩くのさえ難儀なほど混雑している。見上げるとニヤケ顔でバンザイをしているグリコのネオンと目が合った。出て行った時と何も変わらない街で同じように家路を辿る自分を、見下されているようで気が滅入る。
淳は喧騒と自虐のメルティングポットから抜け出すべく、心斎橋筋を南に向かって歩を早めた。
チヨがようやくスマホを充電したのが大晦日の夜。まさか千夏子の家に着くなり電池が切れるとは思っていなかったが、そのまま「まあいいかと」夜通し宴会で盛り上がり、翌日は夕方まで二日酔いでダウン。そして翌朝は完全復活した勢いで、突発的に車で日帰り温泉ツアーなるものを決行してしまった。
その間、スマホは鞄の中で死んだまま。千夏子とはコネクタが違うのでケーブルを借りるわけにもいかず、かと言って買うのはチヨのケチケチ精神に反する。もっとも、携帯依存症ではないチヨは、電話がなくても不便はしない。しかし、さすがに年越しとなると親戚筋からの連絡も多くなるので、仕方なく温泉のついでのドライブとして、自宅に充電器を取りに帰ることにしたのだ。
「おー、LINEの未読が50通以上たまっとる」
「人気者じゃん!」
「半分は妹からだよ、あの携帯中毒女め」
「ほんっと、キャラぜんぜん違うよね、姉妹なのに」
千夏子の家に帰ったチヨは充電器に携帯を突っ込み、熱燗を飲みながら紅白を見た。古い友人といると無邪気な自分に戻れるのが嬉しい。こんなに腹の底から笑ったのは何時ぶりだろう。
高校時代、両親が離婚した時も森脇と別れた時も、いつも傍にいてくれたのは千夏子だった。慰めるでもなく諭すでもなく、ただじっと見守ってくれる彼女のお陰で、いちばん苦しい時期を乗り越えられたと言っても過言ではない。お互い今は自由な独り身を満喫しているが、そのうち大切な誰かができたら真っ先に紹介したい。千夏子はチヨにとってそんな友人だった。
「ねーチヨ、紅白終わったら初詣行かない?」
「いいねぇー、お賽銭5円でいくつ神頼みしてやろうかな」
「罰が当たるよ、あんた」
その時、充電器に突っ込んでいたチヨのスマホが勢いよく震え出した。ディスプレイに光る「海東淳」の文字を見て、咄嗟にチヨが千夏子の方を伺う。別に探られて困る相手ではないはずなのに、何故かここで話をするのが躊躇われた。
その様子に何かを感じ取ったのだろう、千夏子は財布を持つと立ち上がり「コンビニ」と言って出て行ってしまった。チヨはまだ鳴り続けている携帯を充電器から抜き取り、息を吸い込んでから「はい」と一言だけ言葉を発した。




