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電車が八尾の駅に着いた。ここが淳のホームタウンだ。大阪市の南東で奈良との府県境。歯ブラシの生産量が日本一という事と、やたら有名人の出身者が多い事以外は、取り立てて名物もない。
それでも97年に、今はなき近鉄バファローズが大阪ドームに本拠地を移すまでは隣町に藤井寺球場があり、淳の父親も自転車に乗ってよく野球を見に行っていたらしい。野次と喧嘩の花咲くスタンドは、関西のおっさん連中にとって世界で最もエキサイティングな空間で、今もこの街にはかつてのバファローズを懐かしむ野球ファンが多い。
幼い頃の淳も、コテコテのバファローズファンの父親に連れられ、近鉄デパートの催事でスター選手だった中村紀洋と握手したことがある。そんな事を考えながらぼんやりしていると、お馴染みの青と黄色のバスが来た。これに乗れば家まではもうあと十数分だ。淳は車窓の風景から目を逸らすかのように、複雑な思いで目を閉じた。
「帰ったで」
「おう」
相変わらず無口な父親は、いつものように汚れた作業着にジャンパーを引っ掛けて工場にいた。「海東ラヂエータ」と書かれた古い看板は、淳が小学生になった年から変わっていない。
淳の実家は車や空調機のラジエーター部品を製造する町工場で、最近では時勢からスマートフォンの部品も扱うようになった。従業員は両親を入れて6人。この不況下で零細ながら堅実に生き残ってこられたのは、何より馬鹿がつくほど正直な父親の経営努力と、専務である母親のクレーム処理の賜物だ。
いざという時、彼女はお得意さんに土下座までするし、追い返されても相手が根負けするまで取引先の門前で謝り続ける。その浪花女のど根性が何度も工場の危機を救った事は、父親がいつも言う「うちは社長より専務が偉いんや」の言葉の中に、遠まわしで深い感謝の念として刻み込まれている。
「おかんは?」
「裏でケイシーに餌やっとる」
工場の裏は自宅になっていて、淳が姿を現すと庭の片隅の犬小屋で餌をもらっていたケイシーが盛大に歓迎の声をあげた。
ケイシーという名は往年の近鉄の大投手、鈴木啓示からもらったもので、たぶん柴犬とハスキーは確実に入っているだろうと思われる、茶色でデカくて無芸な雑種犬だ。もう海東家に来て9年になるから立派なシニア犬だが、母はいまだに赤ん坊言葉で喋りかける。淳にとっても小中高と共に過ごしたケイシーは、離れて暮らす今も大切な心の友である。
「なんやあんた、電話したら迎えに行ったのに」
「荷物も少ないしバスで構へん、こらケイシーやめんかい」
ケイシーに思い切り顔を舐められ、ひぃひぃ言いながら淳は母屋に逃げ込んだ。その後を、母親が嬉しそうに付いて歩く。海東家にはもう一人、正哉という弟がいるものの、久方ぶりに全員が揃って迎える正月に心が弾んでいるのだろう。
台所には白葱や春菊がどっさり用意されていた。どうやら今夜はすき焼きらしい。普段は息子の電話不精に文句たらたらの母親だが、こうして帰省するたび自分の好物を作って待っていてくれる。親というのは有難いものだ。そして有難い半面、何とも申し訳ないような気分にもさせられてしまう。
「そう言えば、橋本くんから電話あったで」
橋本と聞いてこめかみがぴくりと緊張した。橋本は淳の親友であると同時に、最も記憶から抹消したい時代を共に過ごした人間でもある。淳が大阪を離れてからは疎遠になるかと思っていたが、向こうは全く昔通りのスタンスを崩さない。もっともそれは橋本がめちゃくちゃ友情に厚い男である上に、疎遠になりたい理由を淳が説明していないのだから当然と言えば当然なのだが。
「橋本、何て?」
「いつ帰ってくんのって。あんたが電話に出えへんって嘆いてた」
「ふうん」
淳は心が重かった。電話に出ないのは、隠し事をするのが苦手なせいだ。橋本みたいに真っ当な人間には、到底理解できない黒歴史が淳にはある。若気の至りでは済まされない後悔を、一生彼には隠しておくつもりだ。だから、会うのが怖い。
その夜は家族とすき焼きを食べながら、話題は自然と淳の大学生活の事になった。3回生になればそろそろ就活も始まる。向こうで働くのか大阪に戻ってくるのか、親にはそれがいちばん知りたい事で、しかし淳にとっては就職地どころか自分が就職する未来さえ想像の枠外だ。
目の前で黙々と箸を動かす朴訥な父と、肉の煮え具合を気にする世話好きな母。この夫婦二人三脚のお陰で自分は千葉の大学に通わせてもらっている。淳が故郷を離れた本当の理由が「広い世間を見てみたい」という建前とは違う事を、知っていながら黙って行かせてくれた両親。
彼らはきっと待っている、淳が過去を乗り越えてくれる日を。しかしその願いが叶えられることはないだろう事に、淳は深い罪悪感を覚えた。
食後、今は物置がわりになっている自室で寝転んでいると、案の定橋本から電話がかかってきた。一瞬出るかどうか迷ったが、大阪にいる以上一度も会わずに済ますわけにもいかない。淳は観念すると通話ボタンを押し、なるべく感情のこもらない声で「もしもし」とだけ言った。
「まいどっ!」
相変わらず陽気な関西男の橋本は、淳に相槌を打たせる間もないくらいのマシンガントークで、まずは「生きとったんか」の挨拶から始まり、仲間うちの近況報告から飲み会の日程まで、しゃべくり漫才のごときフルコースを堪能させてくれた。
無口な淳と喋りの橋本。このコンビが生まれたのは二人が小学2年生の時。橋本が淳の所属する少年演劇クラブに入ってきたのがきっかけだった。
「ああ、そう言えば、笙子やけどな。たもっちゃんと付き合うとるで、先月くらいから」
あの女の人工的な笑顔が脳裏をよぎる。中谷笙子。橋本の従姉妹でモデル、純潔の皮をかぶった生まれつきの娼婦。彼女は欲しいものを手に入れるためなら、自らのセックスを提供することなど朝飯前だ。
橋本と共通の友人、たもっちゃんこと倉田保から今度は何を引き出そうというのか。おおかた、彼の父親が経営するホテルのイメージキャラクターでも狙っているのだろう。どちらにしても、目的が果たされた暁には男がお払い箱になるのは目に見えている。かつての自分も、いずれはそうなっていたはずだ。
「自分の従姉妹やし、あんま言いたないねんけどな。お前、別れて正解やったで、あいつますます手当たり次第や」
何も知らない橋本が、笙子の派手な男癖を嘆く。表面上だけ見れば別れて正解だろう。しかし単純に別れただけなら、自分も笑って「アホやな」で済ませられる話だ。淳の場合はそんなに甘いものではなかった。家庭裁判所が関わるような、重くて辛い記憶なのである。
橋本の電話を切った後、淳は辛抱たまらずチヨのナンバーを呼び出した。今すぐあの涼やかなアルトの声に縋り付いて、過去の悪夢を払拭してしまいたい。しかし受話器を通して聞こえてくるのは淳が渇望していた声ではなく、電話会社の無機質な案内メッセージだった。
現在電源を切っているか電波の届かない所に――
淳はスマホを放り投げると髪を掻き毟るようにベッドに突っ伏し、絞り出すように彼女の名前を呼んだ。
「……チヨ」




