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淳がマンションを出た時すでにプジョーは消えていた。さすがに今夜は待つだけ無駄と判断したようだ。歩きつつ、右の拳がじんじんと疼く。さっき殴った時に至近距離で森脇を見たが、思った以上にいい男だったのでムカついた。きっと彼なら女には不自由しないはずなのに、なぜ8歳も年の離れた元教え子を追いまわしているのか。
森脇は自分のことをチヨの何だと思っただろう。先日も一緒のところを見られて、それでも今夜チヨを説得しに来たという事は「ただの友人」扱いか、よっぽど格下に見られたか。
どちらにしてもパンチを喰らった以上は好感を持つはずもない。しかしそれはお互い様だ。チヨが車に連れ込まれそうになった時点で、淳も森脇を敵と見なしているのだから。
チヨの話が終わった後、淳は黙って立ち上がり、辞去の短い挨拶をしてそのままマンションを後にした。今夜はお互い一人の時間が必要だと思ったし、チヨも淳を引き止めなかった。
静かな夜の歩道を歩きながら、携帯で時間を確認するとすでに日付が変わっている。あと数日で今年も終わるかと思うと気が重くなった。明後日には大阪の実家に帰り、また将来の事だの成績の事だの、親族からあれこれと聞かれてはうんざりするのだ。
そう言えばチヨは実家がないと言っていたが、年越しはあのマンションでするのだろうか。そうなると、いくら妹が一緒だとはいえ不安なはずだ。森脇がまた訪ねてこないとは限らないし、当分は友人の家にでも泊まったほうがいい。取りあえず明日の朝チヨに電話をしてみようと淳は思った。
「おっはよー」
翌朝、チヨはことさら明るい声で淳の電話を取った。彼が心配して電話をしてくる事は予想していたので、早起きして待ち構えていたのだ。
「なんや、朝からえらい元気やな、高血圧か」
「違うよ、早起きして掃除とか洗濯とかしてたからだよ。それに私、低血圧だよ、上が85で下が50だもん」
「レバー食え、レバー」
「貧血じゃないって、低血圧なんだって」
「同じようなもんちゃうんか」
「ぜんぜん違いまっせ、兄さん」
漫才みたいな掛け合いをするうち、チヨはすっかり心が晴れてきた。昨夜、勢いで打ち明けてしまった後、話が話だけに淳に心理的負担をかけたのではと申し訳なくなったが、一人で抱え続けてきた闇を解放したことで、嘘みたいに心が軽くなったのもまた事実だ。
彼とは知り合って長くないし会ったのも数えるほどなのに、どうして全てを打ち明ける気になったのだろう。そして、それを当然のように受け止めてくれた海東淳という人間も不思議な存在だ。会えば喧嘩ばかりするくせに、今朝は彼からの電話が待ち遠しかった。これ以上彼に頼ってはいけないと思う反面、どっかり腰掛けてしまいたい欲求がこみ上げてくる。
甘え下手なぶんだけ、チヨは心を許せる人間の前ではとことん弱さを晒してしまう。森脇の時もそうだった。彼はそんな彼女を放っておけずに手を伸ばしてしまったのだ。
「しばらく、家におらん方がええんちゃうか」
「うん、友達の家に泊めてもらうつもり」
森脇の件に関してはチヨも不安だったので、今朝のうちに友人の家に泊まる約束を取り付けていた。幸いチヨには千夏子という小学校からの親友がおり、彼女は森脇のこともすべて承知の間柄だ。
昨夜のことを言ったら、向うから「正月はこちらで過ごせ」と命令されてしまった。彼女も仕事や恋愛の悩みが色々あるようで、今年の正月は女二人で人生の不条理を嘆きつつ飲みまくる事で話が落ち着いたのだ。
「それやったら心配ないな、ほなまた来年」
「うん、海東くんも良いお年を」
電話を切った後、チヨは暖かい気持になっていた。ただの挨拶に過ぎない「また来年」が楽しみに思えてくる。
その時、チヨの頭にある小さなアイデアがひらめいた。明日か明後日、ひとりで観にいこうと思っていた映画があるのだが、淳が実家から帰ってきたら誘ってみよう。確か正月明けまで上映期間があったはずだ。
その作品は、チヨにとってはあまり観ないジャンルであるアニメーションで、9.11後のアフガニスタンを舞台に、ある少女の目線で戦争や中東の女性問題を描き出している。題名である「ブレッドウィナー」とは稼ぎ手という意味で、フライヤーを手にした瞬間からこの映画が問いかけるものに興味を持った。
きっと淳にとっても、この題材は未知のジャンルではなかろうか。ぜひとも映画の後は、またコーヒー片手に評論大会をやりたい。今まで映画は一人で観る主義だったが、こうして感動を共有できる相手がいるのなら、一緒に観るのも楽しいものだとチヨは思った。
新幹線がホームに滑り込んだ瞬間、そこから先は文化圏が変わる。新幹線から在来線へ乗り換えると、電車の中は大阪弁の洪水だ。
淳は一年ぶりに耳にする故郷の騒音に巻き込まれ、徐々に関西のリズムが体に呼び戻されるのを感じていた。歩く速度、エスカレーターの立ち位置、おばちゃんの身を飾る貴金属の大きさ。同じ都会の姿をしながら東京とは全く異質な文化を持つこの土地で、淳は18年間生きてきた。
東京に暮らして約2年経つ今も、言葉や習慣は関西人のそれである。しかし、心はすでにここにはない。自らの手で断ち切ってしまったのだ。忌々しい出来事と、それにまつわる己の愚かな感情を道連れに。
「次は大阪、大阪……」
電車が都心に近づくにつれ、封印していた記憶が放たれそうになり吊革を持つ手に力が入る。胃の奥がムカムカして気分が悪い。しかしどうやって目を逸らそうとしても、この街では一度くらいは目にしてしまうのだ。かつて淳が盲目的に崇拝し、やがてこの世で最も醜悪な生き物になったあの女の顔に。
案の定、御堂筋線を難波で近鉄に乗り換える地下道の途中で、古びた看板が目に入った。数年前に近鉄沿線にできたゲームセンターの広告で、もう今は閉店しているにも関わらず放置されている。いかにも大阪的なセンスのけばけばしい色彩の中、満面の笑みでVサインをするモデルの顔を見て、淳はうんざりと溜息をついた。
「……化け物め」
顔をいじり続けてバランスを失い、人工的な様相を呈するその表情には、もはや少女時代の透明感はない。その昔、しばらく会わないうちに胸が二周りも大きくなっていた時には驚いたものだが、その時は子供だったので「太った」という言い訳であっさりと騙された。
しかし今こうして見てみると、彼女はどこもかしこも嘘だらけだ。身体も心も、平気で他人を欺ける魔女だ。ふと淳はチヨの顔を思い出した。今彼女がここにいてくれたら、こんな鬱々とした気分などたちどころに一掃してしまえるのに。そう思うと無性にチヨの声が聞きたくなった。




