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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;2 彼女の事情・彼の隠しごと
13/77

2-2



 淳がその企みを実行に移したのは、翌週の金曜日。ドアを開けて入ってきた見覚えのあるカーキ色のカバーオールに気づいたチヨは「いらっしゃいませ」と言いかけた口を「あ」の形にして棒立ちしてしまった。


 おいでよとは言ったものの、まさか朴念仁の見本のような海東淳が映画館以外の場所に現れるとは。当の淳はチヨがびっくりした事に満足の様子で、口の端を一瞬ニヤリと歪ませると、入り口から程近いカウンター席にさっさと腰掛けた。



「びっくりした」


「来い言うたんそっちやんけ」


「そうだけどさ、たまに休んだりするから言ってよ、来るなら」



 チヨが少し照れくさそうに爪先でカウンターをコツコツ叩く。今日の彼女は真っ白なTシャツに程よく色の抜けたブルージーンズ、そして足元はプーマのローテクシューズだ。それが店内の雰囲気によく合っている。その時、淳はこの店の内装がある映画のシーンに似ている事に気付いた。


 無造作にポールに引っかけられた赤いカフェカーテン、雑然としたカウンターテーブルの上に、そこだけ異常に目立つ黄色いコーヒーポット。



「この店、何かの映画と似た作りやったりせえへんか」


「うっわー、気がついた?」



 チヨは待ち構えていたリアクションを手に入れて、心の中で小さくガッツポーズを決めた。たいていの人間が言うまで気付かない店主の遊び心を、きっと淳なら一発で見抜いてしまうに違いないと思っていたのだ。かつて初めてここに足を運んだ時の自分がそうであったように。



「バグダッド・カフェやろ」


「ご名答!正解したから一杯奢っちゃう」


「ほな、お言葉に甘えるわ」



 淳がビールを注文したので、チヨはサミュエル・アダムスのボストンラガーを選んでカウンターに置いた。オーナーがアメリカ人のこの店では、様々なアメリカンビールが楽しめるが、チヨの一押しはこの銘柄だ。濃い茶色の瓶にブルーのラベルが鮮やかな、そのビールを淳がしげしげと眺めた。



「珍しいビールやな」


「美味しいから飲んでみて、私これがいちばん好きなんだ。アメリカのビールって軽い印象があるけど、これは香りがよくって独特のコクと味わいがあるんだよね」



 そう言われて淳は、キンキンに冷やしたグラスに注がれたビールを一口飲んだ。酒を飲み慣れているとは決していえない淳だが、確かにうまいと思った。香り立ちが爽やかで、アメリカンビールとは思えないしっかりとした味わいが心地よく喉を滑り落ちる。そのまま一気にグラスをあけて、淳が唸った。



「うまいな」


「でしょー」



 チヨは無邪気に嬉しかった。淳と飲食の好みが折り合ったのは初めて会った合コン以来だ。しかもあの時は二人とも茄子が「嫌いでない」というレベルだったが、今回は「うまい」とまで言わせた事が、チヨにとってはある意味での勝利のように思われたのだ。


 その時、カウンターの奥から身長2メートルに達するかと思われる大柄な白人男性が現れ、チヨに何やら早口の英語で喋りかけた。



「Chiyo, Will you introduce me to your boyfriend?」


「He is not, Jay.」



 淳がかろうじて聞き取れたのは「ボーイフレンド」という言葉だけで、あとは皆目見当がつかない。いきなり登場した巨大な外国人にも驚いたが、それよりチヨがするりと英語を喋ったのが衝撃だった。


 男の言葉にチヨが首を横に振ったところを見ると、「こいつは彼氏じゃない」と答えたのだろう。なぜか複雑な気分になった自分に淳は苛ついた。だったらどう答えて欲しかったというのだ。自分だって「彼女は恋人か」と聞かれたら、迷わずNoと言うくせに。



「海東くん、この人がオーナーのジェイ。体はでっかいけど気は優しいから怖がんないでね」


「ジェイデスヨロシクネ~」



 バナナの房まるごとのような、どでかい手が差し出された。仕方なく淳が手を出すと、がっちり掴んで鬼のようにシェイクされ、それだけで腱鞘炎になりそうだ。ジェイは淳の手を掴んだまま、何やら言っている。



「What do you go by?」


「おっさん何言うてんねん」


「何て呼んだらいいの、って」



 意味がわからないジェイは「What?」と訝しげにその様子を見守っていたが、やがて改めて淳がジェイの手を力いっぱい握り返して自己紹介をした。



「Sunao Kaitou. ス・ナ・オ」


「O.Kay, Sunao. Beautiful!」



 その返事が「いい名前だ」という意味であるという事は、熱々のフライドポテトを運んできたチヨが教えてくれた。ジェイは何故だか淳がいたく気に入ったようで「俺の奢りだ」と言って看板メニューのポテトをサービスしてくれたのだ。皮ごとパリッと揚げられ、ピリ辛のサルサが添えられたポテトは抜群に旨く、淳もご機嫌でサミュエル・アダムスをおかわりしながら、まめまめしく働くチヨの姿を眺めて過ごした。



 6人掛けのカウンターに、テーブルが3つ。そう大きくもない店ではあるが、ジェイとバイト2人で切り回しているだけに、いちばん混みあう週末の夜8時過ぎともなると、日本語・英語入り乱れてのオーダーが飛び交う。それでもチヨは要領よく客の注文をさばき、たった一年留学しただけとは思えない流暢な英語で、店の半数以上を占める外国人客の話し相手を務めている。


 そう言えば初めて会ったコンパの席でも、自分が盛り下げた場の雰囲気を収拾してくれたのはチヨだった。あの機転や人をそらさない会話の上手さは、生まれ持った彼女の資質に違いない。人付き合いが極端に苦手な淳には、そんなチヨの姿がとても眩しく思えた。



「よう働くな」



 ようやく客が一段落した10時前、まだビールをちびちびやっていた淳が、カウンターの中で洗いものを始めたチヨに声をかけた。



「まあねー、生活かかってるし」


「仕送りないんか、実家から」


「うち、離散した家だからね。取りあえずあのマンションは、父親からもらったから家賃タダだけど、学費と生活費は自分で稼がなきゃ」



 チヨはそれだけ言うと、そそくさとパントリーに入ってしまった。逃げ込んだという方が正解かもしれない。親の事を聞かれると、感情を交えずに話す自信がないのだ。


 特殊な事情があると言うと、大抵の人はそれ以上踏み込んでは来ない。たまに詮索好きな人間がしつこく聞いてくる事もあるが、そういう時は深刻な顔をして「ごめんね」とだけ言えばいいのだ。しかし淳に対しては、なぜか先日さらっと喋ってしまった。それが自分でも不思議で、チヨは深呼吸して気持ちを落ち着かせると、再び店内に戻った。




 チヨがカウンターに戻ると、淳はそろそろ帰ると彼女に告げた。おそらくチヨの振舞いの中から何かを察したのだろう。自分たちはある意味、似た者同士かもしれないとチヨは思った。表面上は陽気なチヨと無愛想な淳は正反対のタイプに見えるだろうが、それは世間に対する「表の顔」に陰陽の違いがあるだけで、心の底に誰にも触れさせる事のない何かを抱えているのは同じだ。



「長居してもうた」


「大歓迎だよ、よかったらまた来て」


「ここおったら英語の勉強できそうやしな」


「そう、まさに私の場合は英会話の勉強目的もあるんだ。駅前留学したらお金かかるけど、ここなら時給が出るもんね」


「英語、そんな勉強してどうすんねん」


「仕事だよ、仕事。将来は私、国際交流の仕事に就きたいんだ。大学をエーサンにしたの、国際科のゼミが充実してるからだよ」



 淳はその言葉に、少なからずショックを受けた。将来のビジョンも持てず、ろくに専攻科目も吟味しないままにエーサンを受けた自分とは大違いだ。国際交流事業がしたいと宣言したチヨの眸は、力強い輝きに満ちていた。


 店からの帰り道、何度も自分の数年後を予想してみようとして、淳はますます惨めな気分にさせられた。全く思い描けないのだ、将来の自分が。考えるほど頭をいっぱいにするのは全て過去の屈辱ばかりであることに、淳はKOを喫したボクサーのような、やりきれない敗北感を味わっていた。




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