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淳からチヨに連絡があったのは1カ月後。早速、翌日の午後に出かける約束を取り付け、チヨは愛車のワゴンRで張り切って出発した。淳もコンビニで1日保険に加入し、準備万端だとLINEが来た。
チヨが淳の家に行くのは初めてだったが、思いのほか近いことに驚いた。いかにも男子学生の住処らしいその画一的なワンルームマンションは、チヨの家から車で3分、歩いても20分かからないほどで、淳の部屋は最上階の5階にある。
マンション前に車を乗り付けて待っていると、やがて白いコットンのシャツに洗いざらしのジーンズをはいた淳が出てきた。いつもは意識して見ていないが、こういうシンプルな格好をしたときに、生まれ持った造形のポテンシャルが分かる。小さな顔を縁取るくせのある黒髪、くっきりとした目と花びらのような唇。背はそれほど高くないが、腰の位置が高く均整がとれているので、歩く姿が様になる。
不覚にもうっとりと眺めていたら、ドアが開く音がしてチヨは我に返った。慌ててハンドルをギュッと握って姿勢を正す。
「どうする、いきなり運転しちゃう?」
「せやな、途中で変わるのもメンドいし、こっから行こか」
「うぃす、了解」
チヨはシートベルトを外し、サイドブレーキを越えて助手席に移動した。空いた運転席に淳が乗り込むと、車内がたちまち狭苦しくなる。妹と二人で乗る時は感じない圧迫感に、細身といえども淳も男なのだとチヨはひとり感心した。
「教習所の車と感覚がちゃうな」
「しばらく運転してたら慣れるって。友達の自転車と一緒だよ」
「そんなもんか」
「そんなもんだよ、ほいレッツラゴー」
さほど道が混雑していない事もあり、スムーズに車は市街地を抜け県道に出た。淳の運転技術が問題のないレベルだったので、チヨがちょっと飛ばしてみようかと提案したのだ。ここなら制限速度が街より20km上がる。回りの車がビュンビュン飛ばして行くのを見て、淳も大胆にアクセルを踏んだ。
11月になったばかりの快晴の空はコバルト色に澄みわたり、開けた窓から吹き込む風が小さな車内を清涼な空気で満たしていった。
「気持ちええな!」
「最高だよね、こんな日に車で飛ばすの」
「このまま真っ直ぐ行ってええんか」
「どこか行きたいとこある?」
カーナビがついていないので、チヨはスマホのマップを開いた。たいていは妹や友人がナビをするので、チヨ自身は殆ど地図を見たことがない。こんな風に助手席に座ってドライブするなんて何年ぶりだろうと考えた時、チヨの胸に先日の夜の事が思い出されて、小さな痛みが走った。
最後に彼の車に乗ったのは、チヨがようやく19歳を迎えたばかりの、ある早春の午後。とても寒い日で、しまいこんでいたコートを引っ張り出して着たのを覚えている。
以来、彼とは誕生日を祝う事なくチヨは22歳になった。あの日の記憶は今も色鮮やかにチヨの脳裏に焼きついていて、思い出すたびに当時と同じ哀しみを蘇らせる。チヨは苦しげに唇を噛みしめた。
「どないした、具合悪いんか」
チヨの様子がおかしいことに淳が気付いたらしい。その声で現実に引き戻されたチヨは、ふるふると頭を振って尤もらしい言い訳を見繕った。
「いや、車の中で地図見てたら目が変になっちゃって」
「どっか停めるか」
「大丈夫、ねえ海まで出てみない」
「ええけど、道どっちかわからんで」
「私わかる、取りあえず片貝の県道に入ろう」
チヨが決めた行き先は九十九里浜で、有料道路の方が近道だったが二人はのんびり県道を走るルートを選んだ。のどかな景色を楽しみながら走るうち、やがて仄かな潮の香りが車内に流れ込んできた。
道路脇の看板に「ようこそ九十九里へ」の文字が見えると同時に、車窓に海岸の景色が広がる。秋の平日の午後、人もまばらな駐車場に車を停めて、チヨと淳は思い切り潮風を吸い込んだ。
「運転お疲れさん!」
チヨが近くの自販機から冷たい緑茶を買ってきた。今日はジャワティーは手に入らなかったらしい。淳は礼を言うと一気にペットボトルの半分ほどまで飲み干した。本当ならビールが飲みたい気分だったが、それでも充分すぎるほど気分は爽快だ。淳もチヨも来て良かったと、思う存分穏やかな海辺の風景を満喫した。
「どうだった、初ドライブは」
「めっちゃ気持ええな、多少気疲れしたけど」
「そうでしょ、私なんか運転してると嫌なこと忘れちゃう」
「そうなんか」
「うん、風景が流れていくと気が晴れるよ」
淳は堤防の突端まで進み出て、チヨの姿を遠巻きに眺めた。コンクリートの堤防に腰掛け、スニーカーの足をぶらぶらさせているチヨは、今日は長い髪をひとつにまとめている。その風景が、淳のお気に入りの映画『イル・ポスティーノ』の一場面を彷彿させた。
先日の夜、怯えるチヨを見て以来、淳は溌剌とした彼女の笑顔の奥に一抹の翳りを感じるようになっていた。今まできっと何度も、ハンドルを握りながら嫌な現実を忘れ去ろうとしてきたのだろう。彼女を怯えさせるものとはいったい何なのか。恐らくはあの黒い服の男が関係しているに違いない。
そんな事を考えている自分が、淳は不思議でならなかった。人に関わらない主義であるはずの自分が、彼女の過去を知りたい欲求に、こんなにも駆られているのは何故だろう。
「そろそろ帰らないと、バイトなんじゃない」
午後4時を過ぎた頃にチヨが淳に声をかけた。淳は今日、夜番で宅配仕分けの仕事が入っている。今から帰れば渋滞に巻き込まれないだろうし、うまくいけばシャワーを浴びて出かける余裕もあるだろう。淳は立ち上がってジーンズの砂を払った。
「帰りは私が運転するよ」
さすがにチヨの運転は慣れたもので、有料道路を使ったせいもあり思った以上に早く帰り着けそうだ。しかし普段なら心地よいと思える、スムーズな車の流れのその中で、二人の心中には同じ思いが渦巻いていた。
――もう少しだけ、このままで。
暮れなずむ秋の夕陽が、小さな車窓を茜色の紗で染め上げている。淳は助手席から眺めるその光景を指で作ったフレームに収め、ひとコマずつ頭の中のフィルムに焼き付けた。
「なあ、さっきの景色」
「ん?」
「ちょっと『イル・ポスティーノ』に似てへんかったか?」
「ふふっ、やっぱ、そう思った?」
潮の香りとさらさらした砂の感触と、どこまでも見渡せる九十九里の海岸線。そのシチュエーションを何よりも鮮やかに浮き上がらせているのは、陽気な、それでいて少し哀しげなチヨの笑顔だ。
淳は記憶の中で何度も何度も、チヨの長い髪が振り向く様子をリフレインした。それは今までに体験した事のない、不思議な感覚を彼の中に呼び起こすものであった。




