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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;1 偏屈男とサバサバ女
10/77

1-9



 心地よい秋の夜風に吹かれながら、歩くこと約30分。チヨのマンションのエントランスが見えたところで、あるハプニングが起こった。何とチヨがいきなり淳の腕に縋りついてきたのだ。


 何が何だかわからない淳は、慌てて引き剥がそうとするが、チヨの腕は思いのほか強くしがみ付いている。アルコールの匂いに混じって微かなシャンプーの香りが漂い、淳の背筋にぞくりと小さな興奮が駆け登ったその時、耳の下でチヨの切羽詰った声が聞こえた。



「お願い、ちょっとだけこのまま、助けると思って」


「な、なんやねん、いきなり」


「入り口の所に人がいるでしょ」



 そう言われて淳がエントランスを見てみると、薄暗い灯の下に黒っぽい服の男が立っている。年は30歳前後だろうか、こちらを凝視しているところを見ると、チヨの帰りを待っていたものと思われる。



「何や、あの男ストーカーか」


「違うの、でもお願い。一緒に家まで行ってくれない」



 その声の響きにあからさまな怯えが含まれているのを感じ、淳は無言でチヨの肩に手を回した。潤んだ目が淳を仰ぎ見る。こうして密着してみると、やはりいくらかチヨの方が背が低い。その事に妙な安心感を覚えながら、淳はチヨをマンションへと促した。



「お前の男のふりしたらええんやろ、ほら行くで」


「ありがとう」



 淳は男から遮るようにチヨの肩を抱いたまま、エントランスを抜けた。しかしチヨがオートロックを解除しようとした時、背後から男が彼女の名を呼んだ。



「チヨ」



 淳の手に、チヨの身体が強張る感触がはっきりと伝わる。しかしチヨは答えず俯いたまま建物内に入り、何事もなかったかのような表情でエレベーターのボタンを押した。淳はようやくチヨの肩から手を外し、何も言わずに従った。今チヨに起こっている事が、ついさっき話したばかりの「聞かれたくない」事ではないかと直感したからだ。






「ごめんね、面倒かけちゃって」



 チヨが申し訳なさそうにテーブルにコーヒーを置く。夜だから薄めに淹れたというコーヒーは、夜風で冷えた身体に優しい味だった。


 淳はここへ来た事は別に面倒だとは思わなかったが、問題は帰るタイミングだ。さっき窓から下を見たら、あの男が乗ってきたと思われる黒いプジョーがまだ停まっていた。多分、淳がすぐに出てくるのか泊まるのか、チヨとの関係を確かめるために見張っているのだろう。淳は単刀直入にチヨの意向を聞いた。



「あの人、まだおるみたいやけど、どないしたらええ。今出て行ったら見られるけど、それでええんやったら帰るわ」



 チヨはコーヒーのカップを両手で包んで、じっと考え込んでいる。先日は映画の感想で盛り上がったリビングが、やけに今日は冷え冷えと感じられた。時刻は間もなく午前1時半。チヨは無言でカップを見つめたままだ。



「正直に言えや、今さら遠慮されてもしゃあないし」



 チヨが頷いて、吹っ切れたように真っ直ぐ淳を見た。



「できれば泊まってもらえると助かる」


「了解」



 その夜、淳は毛布を借りてカウチで眠り、チヨは何度も浅い眠りと覚醒を繰り返しながら朝を向かえた。6時過ぎ、窓の下を覗いてみるとすでに車が消えていたので、チヨはようやく穏やかな気分で朝食を作った。そのうち淳も目を覚まし、やはり窓の下を確認してくれている。それがチヨにはことのほか心強く思えた。



「おはよう、朝ごはん食べる?」


「おう」



 今度は淳も断らなかったし、チヨも納豆は出さなかった。お互いに昨夜の事には一言も触れずに朝食を取る。まるで何事もなかったように淡々と。チヨの妹が起きてきて男がいるのに驚いた以外は、極めて穏やかな、平和すぎるような朝だった。






 その次に二人が会ったのは、学校の最寄り駅前。チヨがお気に入りのパン屋でオート麦の食パンを買って駅に向かう途中、同じ年頃の学生数人と歩道にたむろしている淳を見かけて声をかけた。



「何してるの、こんな所で」


「教習所のバス待ち」



 淳はこの夏から普通免許の教習所に通っているが、バイトが忙しくまだ卒業検定までこぎつけていない状態だという。そこで、どうにか早急に免許を取るため秋口からは時間があれば平日も通うことにしたらしい。


 それを聞いてチヨの耳がぴくぴくした。チヨは1ヶ月半でMT免許を取ったのが自慢であり、元来教え好きな性格でもある。そんな人間にとって、まさに目の前の初心者クンは恰好の獲物と言えよう。チヨは獲物に向かって突進した。



「免許取ったら練習に付き合ってあげるよ、この間のお礼」


「はあ、練習?」


「何よぅ、これでもMT免許取って4年、車もあるんだから」


「え、車持ってんのか」


「持ってるよ、妹と共有の軽だけどね」



 淳はほう、と目を剥いた。普段は意識さえしないが、そういう話題になるとやはりチヨは自分より年上なのだと再認識させられる。


 ともかくこれは淳にとってはかなり嬉しい申し出だ。現在の淳のバイトは宅配会社の仕分け業務だが、運転ができれば時給の高い配送セクションに移動できる。そのためには出来るだけドライビングスキルを高めておく必要があるのだ。


 淳はチヨの好意に甘え、免許が取れたら連絡するからと互いの携帯番号とLINEアカウントを交換した。



「そう言えば電話番号とか知らんままやったな」


「意外だよね、2回もうちに泊まってるのにね」



 今までは偶然に会うだけの「ただの顔見知り」であったのが、いざ意識的にコンタクトを取るとなると、どこか気恥ずかしさを覚えなくもない。それでも二人は初めてちゃんと聞く互いのフルネームを、生真面目に正確な漢字で入力し終えた。



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