第5話 音楽と料理と
暗がりで人気のなくなった小路を、一人の男性が歩いていた。彼は壮年を過ぎた頃で、口髭を生やしている。スーツは着慣れてややくたびれているが、仕事に対する活気にあふれていた。彼は道中、賑やかな明かりに目が止まった。見るに、料理店のようである。音楽でもかかっているのか、店内からは静かな賑やかさを感じる。鼻をくすぐる心地よい香りに誘われ、男性は店へ入った。
出迎えたのは、意外にも十代半ばの少女であった。彼女に連れられ、男性はカウンター席に腰を落ち着けた。その間、男性を見た他の客から小さなどよめきが起こった。彼は、愛華涼といえば知らない人はいないとまで言われる、有名な料理評論家だったのだ。彼が高く評価した料理店は必ず繁盛するほど、影響力の強いコメンテーターである。そんな人物がこの小さなレストランに訪れるなどとは、誰も夢にも思わなかった。
涼はふと、音楽を見た。てっきりCDでもかかっているのだと思っていたが、これまた十代の少年がピアノを弾いて歌っている。
「彼は?」
カウンター越しに店員に問い掛ける。少女は涼の視線を追うと、合点がいったように笑いかけた。
「雇って、ここでピアノを弾いてもらっているんです。」
彼のレパートリー内ならリクエストにも応えてくれますよと、少女は微笑む。涼は短く返事をし、目先をメニューに落とした。店長オススメであるという料理を注文する。それを受けた少女はパタパタと店内に消えていった。曲が終わったのか、ピアノを弾いていた少年は息を吐いて頭上を仰いだ。涼は彼に話し掛ける。
「曲をお願いできるかい?」
少年は振り向き、はいと明るく返事をする。涼は曲を一つ頼んでみた。料理店たるもの料理の良し悪しは重要な観点だが、人が集まる場である以上はその店の雰囲気にも気を配るべきだ。この店は清掃が行き届いているし、訪れる客も穏やかだ。あとは音楽という媒体で雰囲気を形作っているこの少年の実力が知りたかった。涼はちらと厨房を盗み見る。まだ、料理ができるのには時間がかかりそうだった。少年はピアノの前に座り直し、指に力を入れた。
軽快なピアノの音が、小さな店の中で弾む。それらは楽しそうに宙に舞う。そうでありながら、穏やかな雰囲気を乱すことなく包んでいく。涼はいつの間にか、その中に引き込まれていた。
ほどなくして、料理が運ばれてくる。涼は一度、椅子に座り直した。飴色のスープが湯気を立てている。その中に、様々な野菜が包まれていた。それを一つ、口にほうり込んでみる。目が飛び出すほど高額な最高品種、というわけではないようだった。しかし一つ言えるのは、それが新鮮だということだ。歯ごたえが良く、素材本来の味が生きていた。飾りすぎない味付けが、いっそうそれを引き立てる。
「この野菜はどこで買ったのですか?」
「この街の市場です。この辺りで作られたいい野菜が手に入るんですよ。」
やはり。涼は満足げに微笑んだ。近くで採れた材料だからこそ、このような料理ができる。裏を返せば素朴ということだが、それは同時に贅沢でもあった。身近なものを丁寧に作り込む、それがこの若い店長の心意気なのだろう。庶民の味と言うべき料理に、涼は心が温かくなるのを感じた。




