第8話 後輩女子の損切りと彼女の告白
「ええっ?」
山根さんは、スマホの画面を俺に向けた。
そこには、鋭い山を描いたあと、崖のように急落する株価チャートが映し出されていた。
「こんなはずじゃ……」
山根さんは、再びスマホの画面に目を落とした。
「わたし、どうすれば……」
「涼香ちゃん」
向かいの席から、葵ちゃんの声が響いた。
「明日の取引が始まったら、売却することも考えたほうがいいかもしれないわね」
「えっ、売るんですか?」
「ええ。山高ければ谷も深くなりやすいの。損失が小さいうちに損切りすることが大切よ」
「で、でも……」
山根さんは、スマホを握りしめた。
「せっかく買ったのに、もう売っちゃうんですか?」
「買ったばかりだからこそ、冷静に考えてほしいの。買ったときの値段にこだわっていると、判断を誤ることもあるから」
葵ちゃんは、静かに続けた。
「……わかりました」
山根さんは、力なくうなずいた。
◇
結局、山根さんは翌朝、保有していた百株を売却した。損失は約二万円。
「二万円……」
山根さんの表情には、悔しさがにじんでいた。
「一ノ瀬先輩。わたし、バカでした。先輩の忠告を素直に聞いていれば……」
「いいえ。少なくとも、借金をしてまで買ったわけじゃないでしょう? 自分の資金の範囲で取引したことは、大切なことだと思うわ」
「……はい」
山根さんはしばらく黙ったあと、顔を上げた。
「先輩。私、これからどうすればいいんでしょう?」
「投資で資産を築くこと自体は、いいことだと思うわ。ただ、急いで儲けようとしないこと。短期間で大きく稼ごうとすると、リスクも高くなりがちだから」
葵ちゃんは、穏やかな口調で続けた。
「長期・分散・積立という考え方もあるし、NISAを活用する方法もある。そういう選択肢を、少しずつ勉強していけばいいと思うわ」
「長期・分散・積立……。先輩、私に投資を教えてもらえませんか?」
「絶対の正解はないけれど、リスクを抑えるための考え方なら教えてあげられるわよ」
「ぜひ、お願いします!」
山根さんは、深々と頭を下げた。
「いいわ。これから、少しずつ勉強していきましょう」
「ありがとうございます、一ノ瀬先輩!」
山根さんの表情に、ようやく笑顔が戻った。
◇
翌日。
朝、出社するなり、山根さんが元気よく宣言した。
「一ノ瀬先輩! 私、NISAの積立設定をしました!」
仕事の準備をしていた葵ちゃんが、少し驚いた顔をした。
「あら。早いわね」
「はい! 昨日教えてもらったことを参考に、S&P500のインデックスファンドを積み立てることにしました!」
山根さんは、元気よくブイサインを掲げた。
そういえば、昨日の帰り際、二人はLINEを交換していた。
どうやら、山根さんは帰宅後、さっそく葵ちゃんに教わったらしい。
それにしても。
昨日、二万円の損失に落ち込んでいたというのに、もう次の行動に移っている。
なんというメンタルの強さとバイタリティーだろうか。
感心するやら、あきれるやら。
葵ちゃんは、うんうんとうなずいた。
「ところで、毎月いくら積み立てることにしたの?」
「はい! 自分の限界まで積み立てようと思いまして!」
山根さんは、鼻息荒く答えた。
……待て。
もしや。
葵ちゃんに触発されて、毎月十万円を積み立てるなんて言い出すんじゃないだろうな。
いや、いくらなんでも、それはやりすぎだ。
山根さんの給料で、そんなことをしたら……。
止めなければ!
俺は、思わず立ち上がりかけた。
「毎月、五千円です!」
山根さんは、得意げに胸を張った。
……五千円?
俺は全身から力が抜け、どすっと椅子に崩れ落ちた。
「あれ? 長瀬先輩、どうしました?」
山根さんが、不思議そうに俺を見つめた。
いや、なんでもない。
……いや、むしろ、それでいいんだ。
◇
週末。
この日も葵ちゃんは、俺のアパートで手料理を振る舞ってくれた。
今日のメニューは、ナスとベーコンのトマトパスタ。なんだかおしゃれで、しかも、うまい。
パスタを平らげたあと、俺たちはキッチンに並んで後片付けを始めた。
俺が皿を拭きながら、ふと思い出す。
「そういえば、山根さんが買ってたAppBankの株って、どうなったの?」
「まだ株価は戻っていないわね。下落基調が続いているわ」
「そうかあ。損失が膨らむ前に売却できたのは、よかったね」
「ええ。少なくとも、今の山根さんにとっては、いったん手を引くという判断も大切だったと思うわ」
それにしても。
今週の一件で、俺は改めて思った。
葵ちゃんは、投資についてずいぶん詳しい。それに、山根さんへの助言も、驚くほど的確だった。
「なあ、葵ちゃん」
「なあに?」
「山根さんにアドバイスしてたとき、すごく真剣だったよな。どうして、あそこまで親身になってあげたの?」
「それは……」
葵ちゃんの手が止まった。
いつもの明るい表情が、わずかに曇る。
「……なんだか、昔の自分を見ているような気がして。放っておけなかったの」
「昔の自分?」
葵ちゃんは、手にしていた皿をそっと置いた。
「私も昔、株取引で大失敗したことがあるの」
その声は、いつもより少しだけ震えていた。
俺は、思わず息をのんだ。
いつも堅実で、何事にも慎重な葵ちゃん。
そんな彼女にも、失敗した過去があったなんて。
「私が大学生だった頃の話よ」
葵ちゃんは、手元の皿に視線を落とした。




