第9話 一週間分の家賃と、三日分の返事。
母への返事の日、芦屋玲奈の財布には一万二千四百三十円入っていた。
喫茶ロンドから受け取った三日分の試用賃金と、正式採用後の数日分。そこからスニーカー代と食費を引いた、現在の全財産である。
玲奈は紙幣と硬貨をテーブルへ並べた。
「これを、お母様に見せようと思います」
203号室で、小森美咲は生活費の表を見ていた。
「見せて、どうするの」
「自分で働いた証拠になります」
「一週間働いた証拠にはなる。でも、一か月暮らせる証拠にはならない」
玲奈は硬貨を数え直した。
何度数えても増えない。
「家賃は、おいくらですか」
「そこから?」
「昨夜調べましたが、部屋によって違いすぎました」
「当たり前でしょ」
「一週間分だけなら、払えますか」
「家賃は一週間ずつ払わない」
玲奈は生活費の表へ、新しく線を引いた。
『家賃 一週間単位ではない』
「そこ、メモするんだ」
「同じ間違いをしないためです」
美咲は時計を見た。母との約束は午後三時。まだ五時間ある。
「お金を増やそうとしないで。今ある数字で計画を作るの」
「増やす方法があるのですか」
「今の話、聞いてた?」
玲奈は立ち上がった。
「増やせるのであれば、試してから計画を作ります」
「玲奈さん」
「一つずつ、でしたね。まず増やします」
「そういう意味じゃない」
*
同じ頃、205号室では、立花玲央が黒いジャケットを三着並べていた。
「どれが一番高く売れる?」
神崎大和はネクタイを結びながら答えた。
「売る理由から聞いていい?」
「稽古場までの定期代」
「昨日まであっただろ」
「書類通過のお祝いで、後輩にご飯おごった」
「代役候補になったのは、そのあとだよな」
「先に祝っておいた」
「未来を担保に飲み食いするな」
劇団ミナモの稽古は三週間。稽古場は乗り換えが必要な場所にあり、毎日通えば交通費がかかる。玲央の口座残高では、最初の一週間しか持たない。
「今日、線路跡地沿いの貸し広場でフリーマーケットあるだろ。そこで売る」
「その服、売れるのか」
「俳優が舞台で着たジャケット」
「お前が受付の帰りに着ただけじゃない?」
「劇場にはいた」
「舞台には出てない」
大和は鞄を持った。
「書き方は考えてやる。でも、嘘はなし」
「〇・七を一・二に見せるやつ?」
「今回は〇・二くらいだから、〇・七が限界」
*
世田谷代田方向へ続く線路跡地沿いの貸し広場には、古着、食器、古本、手作り雑貨の小さな店が並んでいた。
玲奈と美咲が着いたとき、玲央、大和、ひばりはすでに一卓を確保していた。
「どうして皆さんが?」
「玲奈さんこそ」
玲央が聞き返す。
玲奈は紙袋から、帯留め、絹の巾着、未使用の髪飾りを出した。
「実家から持ってきた、私のものです」
「それ、売っていいの?」
「私物です」
美咲が横から言った。
「売るのは止めてない。でも、値段を決める前に由来を確認する」
玲奈は帯留めを布の上へ置いた。
「こちらは職人が一つずつ螺鈿を――」
「説明はあと」
「価値をお伝えしないと」
「価値を全部伝えたら、フリーマーケットの値段じゃなくなるよ」
隣では大和が、玲央のジャケットへ値札をつけていた。
『現役舞台俳優・立花玲央 劇場使用ヴィンテージジャケット』
美咲が読んだ。
「“劇場使用”って何」
「劇場で着用した」
「受付の帰りにね」
「場所は劇場」
「広告会社って怖い」
ひばりの前には、値札のない品が並んでいた。片方だけの手袋、石、空き瓶、短くなったギター弦。
「これは売り物ですか」
玲奈が聞く。
「欲しい人がいたら」
「価格は?」
「相手が決める」
「商売として成立しますか」
「さっき石が三百円で売れたよ」
玲奈は自分の帯留めを見た。
まだ一つも売れていない。
*
最初の一時間で、ひばりは千百円売った。
大和の広告効果で、玲央の服にも人が集まった。
玲奈の品は、手に取られても説明の途中で戻された。
「こちらは明治期の意匠を基にした復刻で、貝の光沢が角度によって――」
「おいくらですか」
「本来の制作費を考えますと、少なくとも」
玲奈が金額を言うと、客は丁寧に帯留めを戻した。
美咲が小声で言う。
「ここで売るものじゃない」
「安くすれば、作った方に失礼です」
「だったら売らない」
「でも、お金が必要です」
「だからって、価値のあるものを急いで手放すの?」
玲奈は答えられなかった。
隣の卓では、玲央の黒いジャケットが売れた。購入したのは、演劇好きらしい若い男性だった。
「立花さんが舞台で着たものなんですよね」
玲央は一瞬、大和を見た。
「劇場では着ました」
「どの作品ですか」
「作品というか、受付の手伝いの日に」
男性の表情が変わった。
「舞台衣装じゃないんですか」
「値札には舞台衣装とは書いてない」
大和が言った。
「“現役舞台俳優・劇場使用”って、普通そう思うでしょう」
大和は反論しかけ、値札を読み直した。
「……そう思うな」
「返金してください」
玲央が代金を返そうとしたところで、玲奈がジャケットの袖口を見た。
「少々お待ちください。ここ、ほつれています」
「今そこ?」
美咲が言った。
「このままお返しするのは」
「まず返金」
玲奈は口を閉じ、玲央が金を返すのを待った。
「補修だけ、させていただけませんか。無料で」
男性は迷った末、ジャケットを渡した。
玲奈は美咲が持ってきた裁縫道具を借りた。元の糸をほどき、袖口の縫い代を整え、表へ響かないよう縫い直す。
「これなら、普段着としてまだ長く使えます」
男性は袖を確かめた。
「買わないですけど、直してくれたのは、ありがとうございます」
「はい。それで構いません」
玲央は返した代金を見つめた。
「構わなくない。定期代が」
「自業自得」
大和が自分で作った値札を破いた。
*
午後一時半、玲奈の売上はゼロだった。
玲央は服を二着売ったが、交通費には足りない。
「蒼真に借りれば?」
大和が言った。
「昨日、玲奈さんに貸そうとして断られてた」
「もう頼んだんですか」
玲奈が聞く。
「生活費の表を見た瞬間、桐生さんが現金を出されました」
「蒼真らしい」
美咲がため息をつく。
「でも、借りたくありません」
「俺も」
玲央が言った。
二人は売れ残った品を見た。
「じゃあ、どうする?」
ひばりが聞く。
玲奈は帯留めを箱へ戻した。
「売りません」
「お金は?」
「今ある金額で話します」
玲央もジャケットを畳んだ。
「俺は、劇団に相談する」
「何て?」
「交通費が足りないので、設営の仕事があるならやらせてください、って」
「恥ずかしくない?」
大和が聞いた。
「めちゃくちゃ恥ずかしい」
「じゃあ、今すぐ電話しろ。帰ったら逃げるから」
玲央は劇団へ電話した。
稽古場の仕込みと撤収を手伝えば、数日分の日当を出せると言われた。交通費すべてには届かない。それでも、一週間より先へ進める。
*
午後三時前、玲奈は母の迎えの車へ乗った。
今度の車は、広い道に停まっていた。
「一週間で決めたことを話しなさい」
母は前置きをしなかった。
玲奈は生活費の表を渡した。
「今の所持金は一万二千四百三十円です。ロンドで働き続けても、今月の家賃を一人で払うことはできません」
「それで?」
「小森さんの部屋へ、三か月だけ置いていただけないか、正式にお願いします。家賃と生活費は、給料から毎月払います」
「三か月の根拠は」
「今の仕事を続けられるか判断し、次の住居を探し、実家の仕事と私の生活を分けて考えるためです」
「見合いは」
「お断りします。先方へは私からお詫びします」
母は表を見た。
「この収入では、三か月後も部屋は借りられません」
「はい。ですから、仕事を増やすか、条件を変える必要があります」
「決まっていないのね」
「決まっていません。でも、決めるために三か月ください」
母はすぐには答えなかった。
玲奈は財布を見せなかった。働いた証拠として並べたかった紙幣は、鞄に入れたままだった。
「三か月後、数字で判断します」
「はい」
「こちらから生活費は出しません」
「お願いします」
「お願いするところではないでしょう」
「では、承知しました」
母は表を封筒へ入れた。
「あなたが作った資料としては、誤字が多すぎます」
玲奈は表を見直した。
『光熱費』が『高熱費』になっている。
「修正します」
「三か月後は、誤字もなくしなさい」
「はい」
それが母の承諾だった。
*
夜、203号室へ戻った玲奈は、美咲へ三か月の同居を申し込んだ。
家賃、光熱費、食費、家事の分担を紙へ書き、テーブルに置く。
「ルール、多くない?」
美咲が読んだ。
「小森さんに合わせました」
「私、こんなに面倒?」
「はい」
「即答するようになったね」
美咲は紙へ一行加えた。
『最初の一か月は家賃なし。その代わり、生活費を貯める』
「交換条件ではないのでは?」
「今度は契約」
玲奈は少し考え、署名した。
*
205号室では、フリーマーケットで売れ残った大きな収納箱を、美咲が二人へ渡していた。
「これ、使って。中へ入れたものは週一回整理する」
「分かった」
大和は答えた。
三十分後、箱の中には台本、服、菓子の袋、郵便物、片方だけの靴下が詰め込まれていた。
外見だけはきれいに閉じている。
ひばりが部屋へ入り、迷いなく箱を開けた。
「なんで場所知ってるの?」
玲央が聞く。
「私のギター弦、入れたから」
「いつ?」
「箱が来る前」
ひばりは弦を取り出し、蓋を閉めた。
大和と玲央は、質問を諦めた。
(第10話につづく)




