第8話 代役一名、返事は今日中。
実技審査の朝、立花玲央は朝食を二回食べた。
一回目は、緊張していることに気づく前。
二回目は、緊張している人間は何か腹に入れたほうがいい、と気づいたあとだった。
三回目のトーストへ手を伸ばしたところで、神崎大和が皿ごと引いた。
「それ、俺の」
「朝、食欲ないって言ってなかった?」
「お前が一回目を食べてるあいだはな。二回目を見てたら、空腹より腹が立ってきた」
二〇五号室のテーブルには、審査用の台本、履歴書、二人分のマグカップが並んでいた。床は相変わらず散らかっているが、玲央が台詞を言う場所だけは四角く空いている。昨夜、大和が足で物を寄せた場所だった。
玲央は三回目を諦め、台本を持った。
「最後に一回、見て」
「昨日、一人でやるって言ってただろ」
「見るだけ。何も言わないで」
「分かった」
玲央は立ち上がり、息を整えた。
「――お前がいなくなってから、この街の時間は止まったままだ」
大和は黙って見ていた。
「行くな。頼むから、行かないでくれ」
最後まで言い、玲央は台本を下ろした。
大和は何も言わない。
「どう?」
「何も言うなって」
「終わったら言っていいよ」
「そのルール、始める前に決めろよ。観客参加型の演劇でも、途中で説明は足さない」
「じゃあ、今決めた。どう?」
「朝飯を二回食った男が、誰かを引き止める切実さには見えなかった」
「演技の話して」
呼び鈴が鳴った。
大和が玄関を開けると、小森美咲、芦屋玲奈、雨宮ひばりが並んでいた。美咲は水筒、玲奈は紙袋、ひばりは小さな鉢植えを抱えている。その後ろから、桐生蒼真が折り畳んだ紙を見ながら階段を上がってきた。
「全員来たの?」
玲央が言うと、美咲は靴を脱ぎながら答えた。
「全員じゃない。老田さんは店」
「六人の話」
「分かってる」
ひばりは鉢植えを窓際へ置いた。
「何、その草」
「帰ってきたとき、結果に関係なく育ってるものがあったほうがいいかなって」
「数時間では育たないだろ」と大和。
「じゃあ、帰りが遅くても大丈夫」
「そういう問題じゃない」
美咲が水筒を玲央へ押しつける。
「飲んで」
「前みたいに苦いやつじゃない?」
「今日は普通のほうじ茶。飲み終わっても、勝手に効能を足さないで。普通のお茶は緊張を治さないから」
「先に逃げ道を作るなよ」
玲奈は紙袋を差し出した。
「移動中に食べて」
「何?」
「おにぎり。梅と鮭を一つずつ」
「朝飯、食べた」
「二回」と大和が補足した。
玲奈は玲央の顔を見てから、紙袋を引っ込めかけた。
「じゃあ、審査のあと。結果がよくても悪くても、昼食は必要でしょ」
「それはもらう」
「食べ物にだけ判断が早いね」
最後に入ってきた蒼真は、折り畳んだ紙をテーブルへ広げた。手書きで時刻と行動が細かく記されている。
「玲央、審査会場までの移動を確認しておこう。十一時十二分の電車に乗れば、受付開始の二十二分前に着く。下北沢駅では中央口じゃなくて東口。途中で台本を読み返すなら、ホームではなく車内にして」
「何で?」
「ホームで没頭すると乗り過ごす可能性がある」
「乗る前に乗り過ごすって何?」
「乗るべき電車を見送ること」
「定義しなくていい」
玲央は紙を持ち上げた。
「帰りの予定まである」
「結果は今日中に連絡すると募集要項に書いてあったから、帰宅後の待機も考えた。僕たちは必要以上に質問しない。玲央も、五分おきにスマートフォンを確認しない」
「必要以上って何回?」
「それを今から決めると、必要以上に考えることになる」
大和がトーストをかじりながら言った。
「もうなってるよ」
玲央は鞄へ台本と履歴書を入れた。ほうじ茶、おにぎり、蒼真の予定表も続けて押し込む。ひばりが鉢植えを持ち上げた。
「これは?」
「連れていかない」
「待合室に緑があると落ち着くかも」
「俺以外が落ち着くだろ」
玄関で靴を履いた玲央が、振り返った。
「じゃあ、行ってくる」
「頑張って」と美咲。
玲央は片足を上げたまま止まった。
「言わないんじゃなかった?」
「誰が決めたの」
「前回、大和が」
「俺は今日言ってない」
「僕の予定表にも書いてない」と蒼真。
「応援まで管理しないでよ」
「だったら早く行きなさい。電車、見送るよ」
美咲に背中を押され、玲央は廊下へ出た。
「行ってきます。あと、誰も合格祝いとか用意しないで。落ちたとき困るから」
五人は返事をしなかった。
玲央はその沈黙を見回した。
「今ので、用意するって分かった」
扉が閉まる。
足音が階段を下りきるまで待ってから、美咲が言った。
「ケーキ、焼くよ」
*
審査会場は、劇団ミナモが借りている古い稽古場だった。
受付の長机には、油性ペンと番号札が置かれている。壁には過去公演のチラシが何枚も重なり、床の黒いテープは、何度剥がしても残った跡で曇っていた。
玲央を含めて八人。全員が同じ役の代役候補を争う。
「立花さん、こちらへどうぞ」
受付の女性に呼ばれ、玲央は履歴書を渡した。
女性は経歴欄の途中で止まる。
「節分の鬼?」
「商店街の催しです」
「三百人分の豆を受けた、と」
「人数は主催者発表です。途中から、豆より小袋のお菓子のほうが痛かったです」
隣で待っていた応募者が少し笑った。受付の女性も口元を緩め、番号札を渡す。
「今日は豆、飛んできませんから」
「それだけでも来た価値あります」
待機用の椅子に座り、玲央は台本を開いた。
頭の中に、五人の声が順番に戻ってくる。
視線は遠くへ。間を急がない。椅子を使う。時計を見る。ギターを鳴らす。台詞を一行足す。
第五話で全部取り除いたはずなのに、緊張すると人の助言は勝手に戻ってくる。
玲央は鞄から蒼真の予定表を出した。審査開始の欄の下に、小さく一行だけ書かれている。
『直前に新しいことを始めない』
玲央は台本を閉じた。
「立花玲央さん」
「はい」
稽古場の中央へ進む。
演出家の国分寺は壁際の椅子に座り、応募書類をめくっていた。
「始めてください」
紙テープも、古時計も、椅子もギターもない。
玲央は息を吸った。
「――お前がいなくなってから、この街の時間は止まったままだ」
最初の一文を言う。
昨日よりうまいかは分からない。ただ、誰かの正解を再現しようとはしなかった。
「行くな。頼むから、行かないでくれ」
最後まで言い、頭を下げた。
国分寺は手元の紙へ何か書いた。
「ありがとう。結果は今日中に連絡します」
「今日中、というのは」
玲央は聞きかけて、やめた。
「何ですか?」
「いえ。今日の中です」
国分寺が初めて顔を上げた。
「そうですね」
*
同じ頃、二〇三号室の台所では、丸いケーキを前に五人が揉めていた。
美咲が焼いたスポンジに、玲奈が白いクリームを塗った。表面にはまだ何も書かれていない。
「『お疲れさま』でいいだろ」と大和。
「無難すぎる。わざわざケーキに書く言葉じゃない」
美咲は赤いクリームを入れた絞り袋を持ち、何もない表面を睨んでいる。
「『合格おめでとう』と書いて落ちたら、食べるたびに傷つくだろ。落ちた本人がケーキの文字をスプーンで消すところまで想像してみろ」
「じゃあ『残念だったね』と書いて、受かったら?」とひばり。
「その場合は、俺たちが玲央に傷つけられる」
「面白いけど」
「面白さを求めてない」
玲奈は紙へ候補を書き出していた。
「『結果にかかわらず、本日のご健闘を称えます』は?」
「表彰状みたい」と美咲。
「『次がある』」と蒼真。
「受かったとき失礼」と大和。
「『今日は食べよう』」とひばり。
「普段と同じ」と玲奈。
「『立花玲央』でいいんじゃないか」と大和が言った。「本人の名前なら、どっちの結果でも間違いじゃない」
蒼真は少し考えた。
「でも自分の名前が書かれた丸いものに包丁を入れるのは、祝いとして不穏じゃないかな」
「急に怖くするなよ」
案だけが増え、ケーキは白いままだった。
ひばりが冷蔵庫の上に置かれた鉢植えを見た。
「植物に決めてもらう?」
「どうやって」と美咲。
「右へ伸びたら、おめでとう。左なら、次がある」
「今日中に伸びないって、朝に確認したよね」
「じゃあ公平」
美咲は絞り袋を置き、包丁の背でケーキの中央へ薄い線を引いた。
「半分に分ける。片側に『おめでとう』、反対に『次がある』。結果に合わせて向きを変える」
「合理的だ」と大和。
「間違えて逆を出す未来が見える」とひばり。
「間違えない。冷蔵庫の棚にも向きを書く」
美咲が赤い文字を書き始める。
右半分に『おめでとう』。
左半分に『次がある』。
玲奈が定規を持ってきて、中央の線を測った。
「右側が三ミリ広い」
「測らなくていい」
「結果への期待が三ミリ表れてるよ」
「偶然」
蒼真は予定表の裏へ、ケーキの扱いを書き加えた。
「玲央が帰っても、結果を自分から話すまで聞かない。連絡が来るまではケーキを見せない。通知音がしても全員で画面を覗かない」
大和が紙を横から読む。
「最後の一行、必要?」
「必要だと思う」
五人は互いの顔を見た。
誰も否定しなかった。
*
午後四時七分、玲央が帰ってきた。
二〇三号室には、テレビを見る大和、生活費の表を作る玲奈、ギターの弦を替えるひばり、本を読む蒼真がいた。美咲は台所で夕食の下ごしらえをしている。
全員が、普段どおりを演じていた。
「ただいま」
「おかえり」
五人の声が、妙に揃った。
玲央は鞄を置き、ソファへ座った。
誰も聞かない。
玲央も言わない。
テレビでは古い怪獣映画が始まった。怪獣が港へ上陸し、逃げる人々を踏み越えているのに、大和は音量を一つ下げた。
「静かすぎない?」と玲央。
「映画を見てるから」と大和。
「怪獣が出てるのに?」
「静かに見たい怪獣もいる」
美咲が台所から顔を出した。
「お茶、飲む?」
「飲む」
「普通のほうじ茶」
「聞いてない」
玲央の前へ湯呑みが置かれる。
また沈黙した。
蒼真は本を開いたまま、同じ行を三度読んでいた。玲奈の鉛筆は生活費の表の『通信費』で止まり、ひばりは一本の弦を五分近く巻き続けている。
玲央が湯呑みを置いた。
「結果は今日中だって」
「そう」
美咲だけが答えた。
「審査は終わった」
「お疲れさま」
大和がテレビを見たまま言う。
「何も聞かないの?」
「聞いてほしいの?」
「いや、聞かないでほしいけど、ここまで聞かれないと、審査に行ったこと自体を疑われてる感じがする」
蒼真が本を閉じた。
「審査へ行ったことは疑ってない。十一時十二分の電車にも乗れた?」
「そこから聞くの?」
「聞かない約束は結果についてだけだから」
「乗れたよ。受付もした。台詞も言った。節分の鬼の話もされた」
「それで?」
五人が少しだけ身を乗り出す。
玲央は目を細めた。
「今、結果以外を全部聞いて、結果の直前まで来ようとしてるだろ」
全員が元の姿勢へ戻った。
午後四時十九分、玲奈のスマートフォンが震えた。
五人の視線が一斉に動く。
「私のです」
玲奈が画面を伏せた。
「分かってる」と美咲。
「何の通知?」とひばり。
「覗かない規則じゃなかった?」玲央が言った。
「玲央の画面だけ」と蒼真。
「俺以外の個人情報には関心あるんだ」
玲奈は画面を見た。
「生活費の表を、自分宛てに送った通知」
「自分から自分?」
「端末が壊れたときのため。母に見せる前に残しておきたくて」
玲奈の母への返事は、明日の午後三時だった。
美咲が冷蔵庫を開け、ケーキを確認して閉めた。
三十秒後、もう一度開けた。
「玲央みたいになってる」と大和。
「クリームの状態を見てるだけ」
「三十秒では変わらないよ」とひばり。
「あんたの植物もね」
ひばりは鉢植えを窓際へ移した。
「場所を変えたら、少しは」
「夕方になって日が当たらなくなってる」
午後五時二分、大和のスマートフォンが鳴った。
全員が見る。
「会社」と大和。
「出なくていいの?」と玲央。
「メール。『人間味のある修正版を本日中に』」
「そっちも今日中なんだ」
「俺のほうは、来ないでほしい連絡が来た」
大和は黒い手帳を取り出しかけ、五人の視線に気づいて会社のノートへ持ち替えた。
午後五時四十一分、ひばりのスマートフォンから軽快な音楽が流れた。
また全員が見る。
「目覚まし」
「何で夕方に?」と美咲。
「朝、起きなかったときの予備」
「夕方まで寝てたら、その日はもう諦めなさい」
ひばりが音を止めようとして、別の曲を再生した。止める。今度はチューナーの基準音が鳴る。
「一度、全部しまって」
美咲がスマートフォンを取り上げ、テーブルへ伏せた。
その瞬間、玲央のポケットから短い振動音がした。
全員が立ち上がった。
「近い、近い!」
玲央は五人を手で押し戻し、画面を開いた。
「違う。天気」
「通知、切っておけば」と美咲。
「大事な連絡も来なくなるかもしれないだろ」
蒼真が考え込む。
「連絡先ごとに通知を分ければ」
「今から設定を変えて、本番のメールだけ消したらどうするんだよ。朝、自分で書いてただろ。直前に新しいことを始めるなって」
「審査はもう終わってる」
「結果待ちも審査の一部だよ!」
玲央の声が部屋に響いた。
全員が黙る。
「……ごめん。自分でも何言ってるか分かんない」
玲央は座り直した。
美咲も腰を下ろし、少しだけ声を落とした。
「分かんなくていいよ。今日一日くらい」
大和がテレビの音量を戻す。怪獣はいつの間にか海へ帰っていた。
「一番大事なところ、誰も見てない」
ひばりが言うと、大和はリモコンを置いた。
「今日の俺たち全部それだよ」
*
午後六時。
五人は、通知を待っていることをやめるため、夕食の支度を始めた。
美咲が野菜を切り、玲奈が皿を並べる。蒼真は六人分の箸を等間隔に置き、大和は仕事の修正版を考え、ひばりは鉢植えへ水をやろうとして止められた。
「朝もあげた」と美咲。
「今日は長いから」
「植物にとっても一日は一日」
玲央は玉ねぎの皮を剥いていた。何もしていないとスマートフォンを見てしまうため、美咲に渡された仕事だった。
「今日中って、二十三時五十九分まで?」
「厳密にはそう」と蒼真。
「聞かなきゃよかった」
「でも劇団の業務時間を考えると、一般的には十九時前後までの可能性が高い。担当者が帰宅後に送るなら別だけど」
「詳しく聞かなきゃよかった」
玲央のスマートフォンが鳴った。
午後六時四十七分。
六人全員の動きが止まる。
玲央の手から、剥きかけの玉ねぎが転がった。
「今度は?」と大和。
「メール」
「誰から?」とひばり。
「まだ見てない」
「見なさいよ」と美咲。
「見る。見るけど、全員、俺より先に顔を作らないで。受かってたら喜ぶ。落ちてたら残念がる。その中間だったら――」
「その中間はないでしょ」
玲央は画面を開いた。
メールを読む。
もう一度、読む。
「何て?」と玲奈。
「『代役候補として、稽古に参加してください』」
「受かったの?」
「分かんない。候補って書いてある」
大和が玲央の肩越しに読む。
「本役が休演した場合に備えて、稽古期間中の代役候補。稽古参加後、本番待機に進む一名を決める」
「じゃあ、まだ審査中?」とひばり。
「次へ進んだんだよ」と美咲。
「でも、代役一名にはまだ選ばれてない」と蒼真。
「蒼真、今そこを正確にしなくていい」
玲央は画面を五人へ向けた。
「これ、喜んでいいやつ?」
五人がそれぞれ別の角度で画面を読む。
「待って。下にまだある」と玲奈。
玲央が画面を戻した。
「どこ?」
「注意事項の下。『次回選考について』」
全員の顔が、もう一度スマートフォンへ寄った。
玲央は親指で画面を送る。そこには、さっきまでの事務的な文章と同じ大きさで、まるで集合時刻の補足のように書かれていた。
「『次回選考は、連続ドラマ――』」
そこで玲央の声が止まった。
「読んで」と美咲。
「読んでる」
「声が止まってる」
「目は読んでる。口が追いついてない」
大和が横から続きを読んだ。
「『連続ドラマ〈BIBANT〉の撮影現場に、端役候補として参加していただきます。当日の演技および現場対応を見て、代役一名を選考します』」
ロンドの台所から音が消えた。
鍋の中で、味噌汁だけが小さく煮立っている。
「……BIBANT?」とひばり。
「あの『BIBANT』?」と玲奈。
「同じ名前の別のドラマがなければ」と蒼真。
「主演、高井雅樹の?」
美咲が確認すると、玲央は画面を見たまま、ゆっくり頷いた。
高井雅樹。
玲央がまだ俳優を「テレビの中にいる特別な人」としか思っていなかった頃、初めて、自分もそちら側へ行きたいと思わせた俳優だった。台詞を叫ばなくても、ほんのわずかな目の動きだけで場の空気を変える。玲央は学生時代、高井の出演作を録画しては、鏡の前で同じ表情を作ろうとしていた。
「玲央、高井雅樹に憧れて役者を始めたんだよね」
玲奈の言葉にも、玲央は反応しなかった。
代わりにスマートフォンを持つ手だけが、少し震えた。
「共演じゃないからな」と大和が言う。「端役候補として撮影に参加して、そこでまた選考される。高井雅樹が同じ日に現場へいるとも書いてない」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「今、頭の中で十五歳の俺が走り回ってる」
「止めなさい。まだ集合場所も読んでないでしょ」と美咲。
玲央は深く息を吸い、続きを読もうとした。しかし親指が一度上へ滑り、メールの冒頭へ戻った。
「戻った」
「落ち着いて」と蒼真。「まず、次回選考へ進んだこと。次に、撮影現場が『BIBANT』であること。この二つを分けて認識しよう」
「分けられるか。俺にとっては、パンに高井雅樹を挟んだみたいな通知だぞ」
「何も伝わらない」と美咲。
「すごくうれしいものが、日常の薄い一枚に挟まって突然出てきたってこと」
「説明しても伝わらない」
玲央はもう一度メールを最初から読み直した。途中まで口元が緩み、それを隠そうとして、今度は不自然に険しい顔になる。
「その顔で現場へ行かないでよ」とひばり。
「まだ行ってない。今は喜んでいいのかを審査してる」
「喜んでいい。でも、終わってはいない」と大和。
「じゃあ、ケーキはどっち向き?」
ひばりが冷蔵庫を指した。
美咲の顔から喜びが消えた。
「両方だ」
玲奈が冷蔵庫を開ける。美咲が皿を持ち、蒼真がテーブルの上を片づける。
ケーキの片側には『おめでとう』。もう片側には『次がある』。
二つの文字を玲央へ向けるには、皿を斜めに置くしかない。
「これが正解」
美咲が慎重に運ぶ。
「でも『次がある』の『あ』が見えない」と玲奈。
「玲央が少し右へ行けば読める」と蒼真。
「ケーキじゃなくて俺が動くの?」
「皿を回すと『おめでとう』が隠れる」と大和。
「じゃあ私が向こうから鏡を持つ」とひばり。
「鏡文字になるだろ」
「一回、全員どいて!」
美咲が言った瞬間、ひばりが窓際の鉢植えへ下がった。倒れかけた鉢を玲奈が受け止め、その肩が蒼真に当たる。蒼真はテーブルの端にあった玲央のスマートフォンを守ろうと手を伸ばした。
「メール、落ちる」
「画面じゃなくて本体!」
大和がスマートフォンを拾い、玲央が玉ねぎを踏みそうになって跳ねた。
その足が、蒼真の置いた椅子を押す。
椅子の背が、美咲の肘へ軽く当たった。
ケーキが宙を舞った。
白いクリームと赤い文字、二つの未来が一緒に床へ落ちる。
誰も動かなかった。
床の上で、『おめでとう』と『次がある』が上下逆に重なっている。
ひばりが鉢植えを抱えたまま覗き込んだ。
「両方、読めなくなったね」
玲央が最初に笑った。
「今の俺と同じ」
大和も吹き出す。玲奈は助けた鉢植えを見てから、床のケーキを見た。
「植物だけ無事」
「持ってきた意味あった」とひばり。
「ない」
美咲は一人ずつ見た。
「誰」
全員が蒼真を見る。
「僕?」
「椅子を置いた」と玲央。
「予定表に、そこへ置くと書いてあった?」と大和。
「書いてない」
「じゃあ予定外だね」とひばり。
美咲が布巾を蒼真へ渡した。
「掃除」
「はい」
「全員」
五人も返事をした。
*
床を拭き終えたあと、玲央は形の残ったスポンジを皿へ集めた。
玲奈が小さな紙を二枚持ってくる。
『おめでとう』
『次がある』
手書きの札を、崩れたケーキの両側へ立てた。
「これなら、どちらも読める」
「食べ物に説明札をつける人、初めて見た」
「どちらかに決まったら、不要な札を外せるよ」
蒼真が言うと、玲央はスプーンですくって食べた。
「味は?」と美咲。
「合格」
「まだ候補」と大和。
「ケーキの話だよ」
玲央はもう一口食べた。
その横で、朝から一ミリも育っていない鉢植えが、六人分の崩れたケーキを見ていた。
玲奈の母への返事は、明日だった。
(第9話につづく)




