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第7話 誤配された夜

「もし、神様みたいに全能になれたら、何する?」


 夕方の喫茶ロンドで、美咲が唐突に言った。


 窓際のテーブルには、読みかけの新聞、飲みかけのコーヒー、誰も片づけようとしない砂糖の包み紙が散らばっている。蒼真は新聞から顔を上げ、大和はアイスコーヒーの氷をストローで鳴らした。ひばりは頬杖をついたまま、天井の染みを見ていた。


「全能って、何でもできるってこと?」


「そう。お金も出せる。空も飛べる。嫌いな人をカエルにもできる」


「最後の能力だけ急に私情が入ったな」


 大和が言う。


 ひばりは少し考えてから、眠たげに口を開いた。


「わたし、自分を二人にする」


「二人で何するの?」


「一人が働いてるあいだ、もう一人が寝る」


「交代制?」


「ううん。働くほうは、ずっと働く」


「全能になって最初にすることが、自分への搾取なの?」


 美咲が眉をひそめたところで、入口のベルが鳴った。


「おはよう、庶民たち」


 玲央が、両腕を広げて入ってきた。誰も反応しなかったので、その腕をゆっくり下ろす。


「ねえ玲央。もし全能になれたら、何する?」


「多分、自殺する」


 あまりに即答だった。


 美咲は笑いかけた顔のまま止まり、蒼真は新聞を畳んだ。


「……どういうこと?」


「だって、息子が使えなかったら、生きててもしょうがないだろ」


 数秒、店内から音が消えた。


 カウンターの奥で老田が皿を拭く音だけが、やけに乾いて響いた。


「玲央」蒼真が眼鏡の位置を直す。「それは“不能”だよ。いま話してるのは“全能”」


「だから、どう違うんだよ?」


 玲央は真顔だった。


 蒼真は何かを説明しようとして口を開き、しかし何も言わずに閉じた。代わりに、畳んだ新聞を玲央の胸へ投げつける。


「なんで俺が怒られたんだよ」


 新聞を抱えた玲央だけを残し、四人は示し合わせたように席を立った。


          *


 数日後。


 同じ窓際の席で、ひばりが死んだように眠っていた。


 正確には、最初の十五分は美咲も寝かせておいた。三十分を過ぎたところで水を置き、四十五分で肩を揺すり、一時間が過ぎたころには、鼻の下へ紙ナプキンを近づけて呼吸まで確かめた。


「ひばり。ねえ、起きて。ここ、宿泊料取るわよ」


「……つけといて」


「何に?」


「祖母のツケに……」


 ひばりは片頬をテーブルに貼りつけたまま、ようやく目を開けた。編み込んだ髪の小花が一つ、コーヒー皿の上に落ちている。


「昨日、寝てないの?」


「寝る場所がなかった」


「また追い出された?」


「祖母の新しい彼氏が泊まりに来てさ。二人とも、わたしのベッドで死にかけてた」


「死にかけてた?」


「うん。苦しそうな声が、ずっと」


 美咲の手が止まった。


「……それ、たぶん死にかけてない」


「救急車呼ぼうとしたら、祖母にスリッパ投げられた」


「元気じゃない」


 ひばりは目を閉じ直した。美咲はため息をつき、ずり落ちかけた薄手の上着を肩へ掛けてやる。


「今夜、うち来れば。玲奈もいるし」


「いいの?」


「ベッドは貸さないわよ。床」


「床は死にかけない?」


「静かに死ねる」


 そこへ、店の外から大きな声が近づいてきた。


「九十五、九十六、九十七――」


 扉が開く。


「九十八、九十九、百!」


 玲央が勝ち誇った顔で敷居をまたぎ、その後ろから大和が、人生の大部分を無駄にしたような顔で入ってきた。


「ほらな。俺んちからロンドまで百歩以内」


「お前って異常なくらい暇なんだな」


「百歩ちょうどだぞ。奇跡だろ」


「途中、信号で足踏みした二歩を入れてただろ」


「あれも人生の歩みだよ」


「人生を語るな。百歩しか歩いてないくせに」


 言いながら、大和は眠るひばりの向かいへ腰を下ろした。玲央は店内を見回し、隅で本を読んでいた蒼真を見つけると、上着の内ポケットから封筒を取り出した。


「蒼真。誕生日おめでとう」


「ありがとう」


 蒼真は素直に封筒を受け取った。


 それから、ほんの少し考える。


「……ん?」


 顔を上げた。


「僕の誕生日、五か月前だけど」


「だからサプライズになっただろ?」


「忘れてただけだよね」


「人の善意を日付で判断するなよ」


 蒼真が封筒を開ける。中から出てきたのは、神宮球場の観戦チケットだった。ヤクルト対ベイスターズ。一塁側の内野席が三枚。


「今夜じゃないか」


「俺と大和と三人。席も結構いいぞ」


 玲央は得意げだったが、蒼真の目は試合カードではなく、その下に印字された日付で止まっていた。


 ほんのわずかに、眉間が曇る。


 美咲がそれを見逃さなかった。


「まさか、その日も?」


 蒼真は答えなかった。チケットを伏せる。


 玲央と大和が、何事かと顔を見合わせた。


「どうした?」


「その日、何かあるのか?」


「……いや。何でもないよ」


「何でもない顔じゃないだろ」


 大和に言われ、蒼真はしばらく迷った。周囲を見れば、老田がいる。美咲がいる。完全に起きたひばりまで、頬をテーブルにつけたまま目だけをこちらへ向けている。


 逃げ道がなくなったように、小さく息を吐いた。


「僕と麻友が初めて……」


 そこで言葉を止める。玲央も大和も、続きを待っていた。


「肉体的な関係を、築いた日なんだ」


「肉体的な関係?」


 玲央が首をかしげる。


 蒼真は唇を結んだ。耳が少し赤い。


「……初エッチ」


「ああ」


 玲央と大和の声が、きれいに重なった。


 蒼真はチケットを玲央へ返そうとした。


「悪いけど、観戦はパスするよ。その日だけは、野球を楽しめる気がしない」


「いや、だからこそ行くんだろ」


 玲央は受け取らず、チケットを蒼真の胸元へ押し返した。


「部屋で一人になったら、絶対そのことばっかり考えるぞ。球場なら、少なくとも試合中は忘れられる」


「それは玲央にしては筋が通ってる」


 大和も腕を組んでうなずいた。


「過去の記念日なんて、新しい記憶で上書きすればいい。三人で野球を観た日に変えてこい」


 大和にまで言われ、蒼真は伏せたチケットを見つめた。しばらくして、小さく息を吐く。


「……分かった。行くよ」


「よし。失恋に勝つにはホームランだ」


「離婚だけどね」


 そのとき、厨房の奥から玲奈が飛び出してきた。


「皆さん、見てください!」


 胸元で大事そうに抱えているのは、一枚の給与明細だった。頬が上気し、いつもの整えられた髪も少し乱れている。


「初めてのお給料です。自分で働いて、自分でいただいたお金なんです」


「おめでとう」


 蒼真が微笑み、皆も口々に祝った。


「何に使うの?」と美咲。


「まず、皆さんにご馳走します。それから生活費を美咲さんにお渡しして、残りは貯金して――」


 話しながら、玲奈は明細を開いた。


 笑顔が止まる。


 紙を少し遠ざけ、次に近づけた。裏返し、もう一度表を見る。


「……少なすぎます」


「声に品がなくなったな」


 大和が言った。


「いえ、違うんです。総支給額は、もっとあります。なのに、ここから……健康保険、雇用保険、所得税……」


 玲奈は指で項目を追い、やがて顔を上げた。


「保険さんと所得さんが、私のお給料を差し引いています」


 誰もすぐには訂正しなかった。


 玲奈の目が、裏切られた人のそれだったからだ。


「所得さん、結構取るんですね」


「そいつ、毎月来るぞ」


 大和が静かに告げると、玲奈は給与明細を両手で握りしめた。


          *


 球場へ向かおうと男三人が店を出たところで、玲央が急に立ち止まった。


「うわ。でか」


 店の前に、黒いロールスロイスが横づけされていた。磨き上げられた車体が、古びたロンドの看板を歪めて映している。あまりに長く、三人は車道へ出なければ横を通れそうになかった。


 後部座席の窓が、音もなく下がった。


 つばの広い帽子をかぶった女性が座っていた。年齢を感じさせない端正な顔立ちと、相手に断る余地を与えない目。香水の匂いが、開いた窓から薄く流れてくる。


「少し、よろしいかしら」


 女性はスマートフォンを三人へ向けた。


 画面には玲奈の写真が映っていた。今より少し髪が長く、ドレス姿で微笑んでいる。


「この女性を見ませんでしたか?」


 三人は顔を見合わせた。


 言葉はなかった。しかし、玲奈の母親だ、という理解だけが、きれいに共有された。


「見てません」


 大和が言った。


「初めて見る顔です」


 蒼真が続いた。


「でも、あなたみたいな美しい人なら毎日見たい」


 玲央が窓枠へ片手をついた。


 大和がその襟をつかみ、後ろへ引き戻す。


「すみません。こいつ、排気ガスで脳をやられてて」


「失礼ね。まだエンジンは切ってあります」


「じゃあ元からです」


 女性の視線が、店の窓へ向いた。


 蒼真は無意識に半歩動き、その視線を遮った。女性は、その小さな動きを見たようにも見えたが、何も言わない。


「そう。お邪魔しました」


 窓が上がる。車はゆっくりと走り出し、角を曲がって見えなくなった。


 三人は同時に息を吐いた。


「絶対、玲奈の母親だよね」


「写真見せられる前から分かった。車が“親”って言ってた」


「俺、嫌われたかな」


「お前だけは玲奈のことより自分なんだな」


 店内では、玲奈のスマートフォンが震えていた。


 画面に表示された短い文章を読んだ瞬間、玲奈の指先が止まる。


――下北沢に来ています。今夜、話をしましょう。


 既読はつけなかった。


 つけないまま、スマートフォンを伏せる。その横には、保険さんと所得さんに傷つけられた給与明細があった。


 玲奈はしばらく二つを見比べていたが、やがて何も言わず、明細を小さく折った。


          *


 夜、美咲の部屋。


 ミキサーの刃が、氷と果物を派手な音で砕いていた。


 床にはひばりの荷物が広がり、ソファには玲奈が座っている。背筋は伸びていたが、膝の上で組んだ指だけが落ち着かず、何度も絡み直されていた。


「お母さん、まだ下北沢にいるの?」


「分かりません。返信していないので」


「あんな車で走ってたら、だいたい分かるけどね」


 美咲はミキサーを止めた。急に訪れた静けさの中で、玲奈は俯く。


「私がどこにいて、誰と暮らして、どんな仕事をしているのか。全部、自分で確かめないと気が済まないんです。昔から」


「心配してるんじゃない?」


 ひばりが言うと、玲奈はすぐに否定しかけた。けれど言葉は喉元で止まり、少し間を置いてから、低い声に変わった。


「心配と支配は、似ています。でも、同じではありません」


 美咲は何も返さず、ミキサーの蓋を取った。


「とりあえず飲む? 特製カクテル。味は保証しないけど、明日の記憶も保証しない」


「いただきます」


 美咲がグラスを探して振り向いたとき、玲奈はミキサーの容器を両手で持ち上げていた。


「ちょっと、それ――」


 止める間もなく、玲奈は容器へ直接口をつけた。


 ごく、ごく、と喉が動く。


 美咲とひばりは黙って見守った。


 玲奈が空になった容器をテーブルへ置く。口元に桃色の泡がついていた。


「もう一杯、作れますか?」


 美咲は無言でミキサーを引き寄せた。


          *


 神宮球場は、照明の白さと観客の声で、夜の形が見えなくなっていた。


「一塁側、八列……この辺だな」


 大和がチケットと座席表示を見比べながら進む。玲央は売り子を目で追い、蒼真は二人の後ろをついていた。


「あった。八列の九、十、十一」


 その番号を見た蒼真が止まった。


 大和は二歩先まで行ってから振り返る。


「今度はなんだよ」


「席の番号が……記念日と同じなんだ」


「どれとどれが?」


「八列十番。八月十日……今日」


 大和は座席と蒼真を交互に見た。


「球場がお前の離婚に詳しすぎるだろ」


「俺、十一でよかった」


 玲央はさっさと自分の席へ座った。


「蒼真、十二と十三どっちがいい?」


「その選択、どっちもつらいよ」


「じゃあ立って見る?」


「座るよ」


 蒼真は諦めて十三番へ腰を下ろした。ちょうどグラウンドから歓声が上がる。


 その大きな音に紛れて、蒼真は長く息を吐いた。


          *


「私、自立したかったんです」


 二杯目のカクテルを三人で分けたころ、玲奈が言った。


「自分で働いて、自分のお金で暮らして。そうすれば、お母様にも、私は一人で生きていけると示せると思っていました」


「初任給で絶望した?」


 美咲の問いに、玲奈は素直に頷いた。


「家賃と食費と光熱費を払ったら、何が残るんでしょう」


「不安」


 ひばりが答えた。


「不安は無料だから、たくさん残るよ」


「励ましてる?」


「事実を分け合ってる」


 美咲はグラスの中の氷を見つめた。


「まあでも、私だって人に偉そうなこと言えないわよ。店がいつまで続くか分からないし、貯金なんて、数字が二桁増えたと思ったら桁区切りのカンマだったことあるし」


「わたしは明日の予定も分かんない」


「ひばりは今日の予定も分かってないでしょ」


「だから今日まで生きられたのかも」


 三人は黙った。


 本当なら、誰かが笑うところだった。しかし、それぞれが自分の数年後を想像してしまったため、誰の口元も動かなかった。


 冷蔵庫のモーター音が低く唸る。


「……カクテル、もうないんですか?」


 玲奈が訊いた。


「材料も将来性も、もうない」


 美咲が答えると、三人はさらに沈んだ。


          *


 七回裏、球場の熱気は最高潮に達していた。


 最初は拍手も遠慮がちだった蒼真も、今では立ち上がり、周囲に合わせて声を張っている。記念日のことなど、少なくともその瞬間は忘れていた。


「いけ、いけ!」


 木製バットがボールを捉える、乾いた音が響いた。


 打球が鋭く切れ、スタンドへ飛び込んでくる。


 誰かが「あぶない」と叫んだ。


 蒼真が振り向く。


 鈍い音がした。


 次の瞬間、蒼真は鼻を押さえて座席のあいだへ沈み込んだ。


「蒼真!」


 大和が屈み込む。その横で、玲央は両手を伸ばした。


「取った!」


 跳ね返ったファールボールを、玲央が胸元でつかんでいた。


「見ろ、大和! 俺、取った!」


「蒼真を見ろ!」


 周囲がざわつく。すると今度は、スタンドから別の歓声が上がった。


 バックスクリーンの大型モニターに、三人の姿が映っている。ボールを掲げる玲央、画面に気づいて手を振る大和、その足元で鼻を押さえて丸くなっている蒼真。


「映ってる!」


 大和も反射的に手を振った。


「僕は……?」


 下から蒼真のくぐもった声がした。


 二人は手を振るのをやめた。


          *


「急患! 急患なんだけど!」


 病院の夜間受付へ駆け込んだ大和は、蒼真の右腕を肩に回していた。反対側を支える玲央の手には、まだファールボールが握られている。


 受付の女性は電話中だった。


 太い黒縁眼鏡の奥から三人を一瞥したものの、受話器を置く気配はない。


「ですから、湿気てたんです。開けた瞬間に分かりました。パリッ、じゃなくて、モソッ、だったんです」


 大和が受付台を軽く叩く。


「すみません、こいつ、鼻にボールが当たって」


 女性は人差し指を立て、黙れと合図した。


「袋には“この製品にご不満がある場合はお電話ください”って書いてあるわよね? 私はご不満だから電話したのよ!」


 蒼真の鼻から、丸めたティッシュが二本突き出ていた。


「大和、僕、スナック菓子に負けてる?」


「大丈夫だ。人間としては勝ってる」


「今は順位じゃなくて診察を……」


 ようやく電話を切った女性が、ゆっくり顔を上げた。


「保険証」


「その前に急患なんだけど。あの……急患って意味は分かるよね?」


「……あ?」


 低い一音だった。


 大和の眉が動く。玲央はファールボールをポケットへ隠した。


 奥から看護師が出てきて蒼真の状態を確認し、意識も呼吸も問題なく、出血も治まりつつあるため、呼ばれるまで待つよう告げた。


 大和は渋々、受付票を書き始める。


「負傷した状況……野球観戦中、ファールボールが鼻に直撃、と」


「“友人二名は大型画面に夢中”も書く?」


「診察には関係ないだろ」


「僕の心には関係あるよ」


          *


 女子会が人生相談から集団落ち込み会へ変わったころ、インターホンが鳴った。


 三人は同時に顔を上げた。


「カレーだ」


 ひばりの声にだけ、希望が戻った。


 玄関に立っていたのは、赤い帽子をかぶった若い配達員だった。額に汗を浮かべながら、明るい笑顔で袋を差し出す。


「オ待タセシマシタ。ご注文、三点デス」


 美咲が伝票を見る。


「バターチキン、激辛マトン、海老とアボカドの王様カレー……違う。うち、こんなの頼んでない」


「わたしのがない」


 ひばりが袋の中をのぞいた。


「ヘルシーカレーのチーズ増量、ハンバーグ乗せ」


 配達員が聞き返す。


「ヘルシー?」


「そう」


「チーズ増量、ハンバーグ乗せ?」


「そう」


 配達員の顔に一瞬だけ、文化の壁ではない種類の疑問が浮かんだ。


 玲奈が伝票の宛先を指す。


「住所もお名前も違います。ここの居住者は小森です」


「エッ? シモキタさんデハナイデスカ?」


「シモキタ?」


「下北紫耀さんノオタク」


 美咲の動きが止まった。


「……いま、誰って言った?」


「下北紫耀さん」


「前髪分けてて、金髪で、背は百七十くらい?」


「マア、ソウデシタネ」


 配達員はもう一枚の伝票を確認し、見る見る青ざめた。


「ヤバイ。小森さんノ商品、先ニ下北紫耀さんノ家ニ届ケタ。コレ、下北紫耀さんノ注文。全部、逆デス」


「向かいに住んでるの?」


 美咲は、玄関の外まで顔を出した。通りを挟んだ先に、ガラス張りの高級デザイナーズマンションがある。


「クマールさんニ殺サレルヨ。スグ、両方作リ直シマス!」


 配達員が袋を引き戻そうとした。


 美咲は両手でしっかりつかんだ。


「待って。これは、このままでいいわ」


「デモ、注文ト違イマス」


「違うからいいの。下北紫耀が選んだカレーなのよ。むしろ、こっちがいい」


「美咲さん?」


 玲奈が不安そうに見る。


「だって考えてみて。彼が今日、何を食べたいと思ったか。その答えが、いま私の手の中にあるのよ」


「カレーだけどね」


 ひばりが言った。


「しかも三人分あります」


「今夜の彼には、誰かがいるってことね」


 美咲の笑顔がわずかに引きつったが、袋は離さなかった。


「とにかく、これは受け取る。作り直さなくていいわ」


「ワカリマシタ。アリガトウゴザイマス!」


 救われた顔で頭を下げ、配達員が帰ろうとする。


「待って」


 ひばりが呼び止めた。


「わたしのヘルシーカレーは、作り直して絶対持ってきてね」


「チーズ増量、ハンバーグ乗せ?」


「そう。ヘルシーのやつ」


「どこがヘルシーなのよ」


 美咲が言うと、ひばりは真顔で答えた。


「名前」


          *


 配達員が去るやいなや、美咲はカレーをテーブルへ置いた。


「双眼鏡、双眼鏡……」


「食べないんですか?」


「いま食べたら、一番おいしいところを逃すでしょ」


 棚の奥から双眼鏡を引っ張り出し、窓辺へ駆け寄る。カーテンの隙間から、向かいのマンションへレンズを向けた。


 高層階の広いテラスに、室内の明かりが四角く伸びている。


「いた」


 美咲の声が急に小さくなった。


 金髪の若い男が、カレーの容器を三つ抱えてテラスへ出てきた。白いシャツの袖を肘までまくり、テーブルへ一つずつ並べていく。


 蓋を開ける。


 中身を見る。


 もう一つを開ける。


 少し首を傾げた。


「やばい。私たちのカレーを見て困ってる」


 美咲は、誕生日プレゼントでも受け取ったように喜んだ。


「貸して」


 ひばりが手を出す。


「まだ駄目。いま、“あれ?”って顔した。すごくいい“あれ?”だった」


「“あれ?”に良し悪しがあるんですか?」


「顔がいい男にはあるの」


 そのとき、テラスに別の影が現れた。


 美咲の口元から笑みが消える。


「……女らしき物体が見えるわね」


 さらにもう一人、酒瓶とグラスを持った女性が室内から出てきた。


「二匹いるわね」


 ひばりはテーブルのカレーを一つ開け、匂いを嗅いだ。


「てめーのじゃねーぞ、このメス豚」


 美咲は双眼鏡を目に当てたまま、片手だけ伸ばしてひばりの肩を叩いた。外れた手が玲奈の頭に当たった。


「痛いです」


「ごめん。いま戦争中」


「一方的な偵察に見えます」


          *


 病院の待合室では、一時間が過ぎていた。


 足首を気にしながら入ってきた男性が呼ばれ、咳を二度した女性も呼ばれ、付き添いにしか見えなかった老人まで呼ばれた。


 蒼真の名前だけが呼ばれない。


 大和と玲央は並んで受付を見ていた。


 受付の女性も、二人を見ていた。


 誰も口を開かない。


 見えない火花だけが、待合室の中央でぶつかっていた。


「なあ」玲央が小声で言う。「あの人、俺たちの受付票、捨てたんじゃないか?」


「聞こえてるわよ」


 受付から声が飛んだ。


「地獄耳だな」


「それも聞こえてる」


 大和が立ち上がろうとする。蒼真がその袖をつかんだ。


「僕の鼻で争わないで……」


「お前は悔しくないのか」


「悔しいけど、鼻で息ができないから、怒る体力がないんだ」


 玲央はポケットからファールボールを出し、蒼真の目の前へ差し出した。


「これ、やるよ」


「いらない」


「お前が顔で取った球だぞ」


「だったら最初から僕のだよ」


          *


 美咲の部屋では、カレーの容器が空になり、三人はベランダへ出ていた。


 夜風が、酒で熱くなった頬を撫でる。


 向かいのマンションは、つい先ほどまで明るかった。けれど今は、テラスも室内も真っ暗だった。


 美咲は双眼鏡を構えたまま、動かない。


「寝たのかしら」


 ひばりが缶を傾ける。もう一滴も出なかった。


「今頃、三Pでしょ」


 美咲は何も言わず、双眼鏡をゆっくり下ろした。


「……もう一本、飲む?」


 玲奈が気遣うように訊いた。


「二本」


 美咲は部屋へ戻った。


          *


 日付が変わる少し前、診察を終えた男三人が帰ってきた。


 玄関を開けた美咲は、蒼真の顔を見るなり壁へ手をついた。


「何、それ」


 蒼真の鼻には、黒く大げさな固定具が装着されていた。目の周りまで覆う形が、安いヒーロー映画のマスクに見える。


「笑わないで。病院にこれしかなかったんだ」


「バットマン?」


「違う」


「鼻だけ守るバットマン?」


「どんな街を守るんだよ」


 大和が靴を脱ぎながら言った。


 しばらくして、六人はテレビの前に集まった。玲央が持ってきた対戦ゲームを始める。蒼真は固定具で左右の視界が狭く、画面の端から来る攻撃に反応できない。


「ちょっと待って。いま、見えてないところから攻撃しただろ」


「戦場に待ってはない」


 玲央が得意げに言う。


「病人相手に戦場を語るな」


 大和もそう言いながら、反対側から蒼真を攻撃した。


「大和まで!」


 玲奈が笑った。


 声を立てて笑ったあと、自分でも少し驚いたように口元へ手を当てる。その表情から、母親の影はようやく薄れていた。


 テーブルの上で、玲奈のスマートフォンが震えた。


 一度目は、ゲームの効果音に紛れた。


 二度目で、美咲が画面を見る。


「玲奈。老田さんから」


 玲奈の笑顔が、わずかに固くなった。


「こんな時間に、どうしたんでしょう」


 コントローラーを置き、通話ボタンを押す。


「もしもし」


『玲奈か』


 老田の低い声が聞こえた。背後には、店の食器が触れ合う音がある。


『お前と話がしたいって人が来てる。代わるぞ』


「えっ、ちょっと待ってください。誰――」


 返事はない。


 受話器が誰かへ渡される、かすかな衣擦れの音。


 部屋にいた五人は、いつの間にかゲームを止め、玲奈を見ていた。


 玲奈はスマートフォンを耳に当てたまま、動かない。


『玲奈』


 女の声だった。


 たった二音で、玲奈の背筋が伸びる。


『いい加減、逃げるのはやめなさい』


 テレビ画面では、操作を失った玲奈のキャラクターが、崖からゆっくり落ちていった。


 玲奈の笑顔も、消えていた。

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