第7話 誤配された夜
「もし、神様みたいに全能になれたら、何する?」
夕方の喫茶ロンドで、美咲が唐突に言った。
窓際のテーブルには、読みかけの新聞、飲みかけのコーヒー、誰も片づけようとしない砂糖の包み紙が散らばっている。蒼真は新聞から顔を上げ、大和はアイスコーヒーの氷をストローで鳴らした。ひばりは頬杖をついたまま、天井の染みを見ていた。
「全能って、何でもできるってこと?」
「そう。お金も出せる。空も飛べる。嫌いな人をカエルにもできる」
「最後の能力だけ急に私情が入ったな」
大和が言う。
ひばりは少し考えてから、眠たげに口を開いた。
「わたし、自分を二人にする」
「二人で何するの?」
「一人が働いてるあいだ、もう一人が寝る」
「交代制?」
「ううん。働くほうは、ずっと働く」
「全能になって最初にすることが、自分への搾取なの?」
美咲が眉をひそめたところで、入口のベルが鳴った。
「おはよう、庶民たち」
玲央が、両腕を広げて入ってきた。誰も反応しなかったので、その腕をゆっくり下ろす。
「ねえ玲央。もし全能になれたら、何する?」
「多分、自殺する」
あまりに即答だった。
美咲は笑いかけた顔のまま止まり、蒼真は新聞を畳んだ。
「……どういうこと?」
「だって、息子が使えなかったら、生きててもしょうがないだろ」
数秒、店内から音が消えた。
カウンターの奥で老田が皿を拭く音だけが、やけに乾いて響いた。
「玲央」蒼真が眼鏡の位置を直す。「それは“不能”だよ。いま話してるのは“全能”」
「だから、どう違うんだよ?」
玲央は真顔だった。
蒼真は何かを説明しようとして口を開き、しかし何も言わずに閉じた。代わりに、畳んだ新聞を玲央の胸へ投げつける。
「なんで俺が怒られたんだよ」
新聞を抱えた玲央だけを残し、四人は示し合わせたように席を立った。
*
数日後。
同じ窓際の席で、ひばりが死んだように眠っていた。
正確には、最初の十五分は美咲も寝かせておいた。三十分を過ぎたところで水を置き、四十五分で肩を揺すり、一時間が過ぎたころには、鼻の下へ紙ナプキンを近づけて呼吸まで確かめた。
「ひばり。ねえ、起きて。ここ、宿泊料取るわよ」
「……つけといて」
「何に?」
「祖母のツケに……」
ひばりは片頬をテーブルに貼りつけたまま、ようやく目を開けた。編み込んだ髪の小花が一つ、コーヒー皿の上に落ちている。
「昨日、寝てないの?」
「寝る場所がなかった」
「また追い出された?」
「祖母の新しい彼氏が泊まりに来てさ。二人とも、わたしのベッドで死にかけてた」
「死にかけてた?」
「うん。苦しそうな声が、ずっと」
美咲の手が止まった。
「……それ、たぶん死にかけてない」
「救急車呼ぼうとしたら、祖母にスリッパ投げられた」
「元気じゃない」
ひばりは目を閉じ直した。美咲はため息をつき、ずり落ちかけた薄手の上着を肩へ掛けてやる。
「今夜、うち来れば。玲奈もいるし」
「いいの?」
「ベッドは貸さないわよ。床」
「床は死にかけない?」
「静かに死ねる」
そこへ、店の外から大きな声が近づいてきた。
「九十五、九十六、九十七――」
扉が開く。
「九十八、九十九、百!」
玲央が勝ち誇った顔で敷居をまたぎ、その後ろから大和が、人生の大部分を無駄にしたような顔で入ってきた。
「ほらな。俺んちからロンドまで百歩以内」
「お前って異常なくらい暇なんだな」
「百歩ちょうどだぞ。奇跡だろ」
「途中、信号で足踏みした二歩を入れてただろ」
「あれも人生の歩みだよ」
「人生を語るな。百歩しか歩いてないくせに」
言いながら、大和は眠るひばりの向かいへ腰を下ろした。玲央は店内を見回し、隅で本を読んでいた蒼真を見つけると、上着の内ポケットから封筒を取り出した。
「蒼真。誕生日おめでとう」
「ありがとう」
蒼真は素直に封筒を受け取った。
それから、ほんの少し考える。
「……ん?」
顔を上げた。
「僕の誕生日、五か月前だけど」
「だからサプライズになっただろ?」
「忘れてただけだよね」
「人の善意を日付で判断するなよ」
蒼真が封筒を開ける。中から出てきたのは、神宮球場の観戦チケットだった。ヤクルト対ベイスターズ。一塁側の内野席が三枚。
「今夜じゃないか」
「俺と大和と三人。席も結構いいぞ」
玲央は得意げだったが、蒼真の目は試合カードではなく、その下に印字された日付で止まっていた。
ほんのわずかに、眉間が曇る。
美咲がそれを見逃さなかった。
「まさか、その日も?」
蒼真は答えなかった。チケットを伏せる。
玲央と大和が、何事かと顔を見合わせた。
「どうした?」
「その日、何かあるのか?」
「……いや。何でもないよ」
「何でもない顔じゃないだろ」
大和に言われ、蒼真はしばらく迷った。周囲を見れば、老田がいる。美咲がいる。完全に起きたひばりまで、頬をテーブルにつけたまま目だけをこちらへ向けている。
逃げ道がなくなったように、小さく息を吐いた。
「僕と麻友が初めて……」
そこで言葉を止める。玲央も大和も、続きを待っていた。
「肉体的な関係を、築いた日なんだ」
「肉体的な関係?」
玲央が首をかしげる。
蒼真は唇を結んだ。耳が少し赤い。
「……初エッチ」
「ああ」
玲央と大和の声が、きれいに重なった。
蒼真はチケットを玲央へ返そうとした。
「悪いけど、観戦はパスするよ。その日だけは、野球を楽しめる気がしない」
「いや、だからこそ行くんだろ」
玲央は受け取らず、チケットを蒼真の胸元へ押し返した。
「部屋で一人になったら、絶対そのことばっかり考えるぞ。球場なら、少なくとも試合中は忘れられる」
「それは玲央にしては筋が通ってる」
大和も腕を組んでうなずいた。
「過去の記念日なんて、新しい記憶で上書きすればいい。三人で野球を観た日に変えてこい」
大和にまで言われ、蒼真は伏せたチケットを見つめた。しばらくして、小さく息を吐く。
「……分かった。行くよ」
「よし。失恋に勝つにはホームランだ」
「離婚だけどね」
そのとき、厨房の奥から玲奈が飛び出してきた。
「皆さん、見てください!」
胸元で大事そうに抱えているのは、一枚の給与明細だった。頬が上気し、いつもの整えられた髪も少し乱れている。
「初めてのお給料です。自分で働いて、自分でいただいたお金なんです」
「おめでとう」
蒼真が微笑み、皆も口々に祝った。
「何に使うの?」と美咲。
「まず、皆さんにご馳走します。それから生活費を美咲さんにお渡しして、残りは貯金して――」
話しながら、玲奈は明細を開いた。
笑顔が止まる。
紙を少し遠ざけ、次に近づけた。裏返し、もう一度表を見る。
「……少なすぎます」
「声に品がなくなったな」
大和が言った。
「いえ、違うんです。総支給額は、もっとあります。なのに、ここから……健康保険、雇用保険、所得税……」
玲奈は指で項目を追い、やがて顔を上げた。
「保険さんと所得さんが、私のお給料を差し引いています」
誰もすぐには訂正しなかった。
玲奈の目が、裏切られた人のそれだったからだ。
「所得さん、結構取るんですね」
「そいつ、毎月来るぞ」
大和が静かに告げると、玲奈は給与明細を両手で握りしめた。
*
球場へ向かおうと男三人が店を出たところで、玲央が急に立ち止まった。
「うわ。でか」
店の前に、黒いロールスロイスが横づけされていた。磨き上げられた車体が、古びたロンドの看板を歪めて映している。あまりに長く、三人は車道へ出なければ横を通れそうになかった。
後部座席の窓が、音もなく下がった。
つばの広い帽子をかぶった女性が座っていた。年齢を感じさせない端正な顔立ちと、相手に断る余地を与えない目。香水の匂いが、開いた窓から薄く流れてくる。
「少し、よろしいかしら」
女性はスマートフォンを三人へ向けた。
画面には玲奈の写真が映っていた。今より少し髪が長く、ドレス姿で微笑んでいる。
「この女性を見ませんでしたか?」
三人は顔を見合わせた。
言葉はなかった。しかし、玲奈の母親だ、という理解だけが、きれいに共有された。
「見てません」
大和が言った。
「初めて見る顔です」
蒼真が続いた。
「でも、あなたみたいな美しい人なら毎日見たい」
玲央が窓枠へ片手をついた。
大和がその襟をつかみ、後ろへ引き戻す。
「すみません。こいつ、排気ガスで脳をやられてて」
「失礼ね。まだエンジンは切ってあります」
「じゃあ元からです」
女性の視線が、店の窓へ向いた。
蒼真は無意識に半歩動き、その視線を遮った。女性は、その小さな動きを見たようにも見えたが、何も言わない。
「そう。お邪魔しました」
窓が上がる。車はゆっくりと走り出し、角を曲がって見えなくなった。
三人は同時に息を吐いた。
「絶対、玲奈の母親だよね」
「写真見せられる前から分かった。車が“親”って言ってた」
「俺、嫌われたかな」
「お前だけは玲奈のことより自分なんだな」
店内では、玲奈のスマートフォンが震えていた。
画面に表示された短い文章を読んだ瞬間、玲奈の指先が止まる。
――下北沢に来ています。今夜、話をしましょう。
既読はつけなかった。
つけないまま、スマートフォンを伏せる。その横には、保険さんと所得さんに傷つけられた給与明細があった。
玲奈はしばらく二つを見比べていたが、やがて何も言わず、明細を小さく折った。
*
夜、美咲の部屋。
ミキサーの刃が、氷と果物を派手な音で砕いていた。
床にはひばりの荷物が広がり、ソファには玲奈が座っている。背筋は伸びていたが、膝の上で組んだ指だけが落ち着かず、何度も絡み直されていた。
「お母さん、まだ下北沢にいるの?」
「分かりません。返信していないので」
「あんな車で走ってたら、だいたい分かるけどね」
美咲はミキサーを止めた。急に訪れた静けさの中で、玲奈は俯く。
「私がどこにいて、誰と暮らして、どんな仕事をしているのか。全部、自分で確かめないと気が済まないんです。昔から」
「心配してるんじゃない?」
ひばりが言うと、玲奈はすぐに否定しかけた。けれど言葉は喉元で止まり、少し間を置いてから、低い声に変わった。
「心配と支配は、似ています。でも、同じではありません」
美咲は何も返さず、ミキサーの蓋を取った。
「とりあえず飲む? 特製カクテル。味は保証しないけど、明日の記憶も保証しない」
「いただきます」
美咲がグラスを探して振り向いたとき、玲奈はミキサーの容器を両手で持ち上げていた。
「ちょっと、それ――」
止める間もなく、玲奈は容器へ直接口をつけた。
ごく、ごく、と喉が動く。
美咲とひばりは黙って見守った。
玲奈が空になった容器をテーブルへ置く。口元に桃色の泡がついていた。
「もう一杯、作れますか?」
美咲は無言でミキサーを引き寄せた。
*
神宮球場は、照明の白さと観客の声で、夜の形が見えなくなっていた。
「一塁側、八列……この辺だな」
大和がチケットと座席表示を見比べながら進む。玲央は売り子を目で追い、蒼真は二人の後ろをついていた。
「あった。八列の九、十、十一」
その番号を見た蒼真が止まった。
大和は二歩先まで行ってから振り返る。
「今度はなんだよ」
「席の番号が……記念日と同じなんだ」
「どれとどれが?」
「八列十番。八月十日……今日」
大和は座席と蒼真を交互に見た。
「球場がお前の離婚に詳しすぎるだろ」
「俺、十一でよかった」
玲央はさっさと自分の席へ座った。
「蒼真、十二と十三どっちがいい?」
「その選択、どっちもつらいよ」
「じゃあ立って見る?」
「座るよ」
蒼真は諦めて十三番へ腰を下ろした。ちょうどグラウンドから歓声が上がる。
その大きな音に紛れて、蒼真は長く息を吐いた。
*
「私、自立したかったんです」
二杯目のカクテルを三人で分けたころ、玲奈が言った。
「自分で働いて、自分のお金で暮らして。そうすれば、お母様にも、私は一人で生きていけると示せると思っていました」
「初任給で絶望した?」
美咲の問いに、玲奈は素直に頷いた。
「家賃と食費と光熱費を払ったら、何が残るんでしょう」
「不安」
ひばりが答えた。
「不安は無料だから、たくさん残るよ」
「励ましてる?」
「事実を分け合ってる」
美咲はグラスの中の氷を見つめた。
「まあでも、私だって人に偉そうなこと言えないわよ。店がいつまで続くか分からないし、貯金なんて、数字が二桁増えたと思ったら桁区切りのカンマだったことあるし」
「わたしは明日の予定も分かんない」
「ひばりは今日の予定も分かってないでしょ」
「だから今日まで生きられたのかも」
三人は黙った。
本当なら、誰かが笑うところだった。しかし、それぞれが自分の数年後を想像してしまったため、誰の口元も動かなかった。
冷蔵庫のモーター音が低く唸る。
「……カクテル、もうないんですか?」
玲奈が訊いた。
「材料も将来性も、もうない」
美咲が答えると、三人はさらに沈んだ。
*
七回裏、球場の熱気は最高潮に達していた。
最初は拍手も遠慮がちだった蒼真も、今では立ち上がり、周囲に合わせて声を張っている。記念日のことなど、少なくともその瞬間は忘れていた。
「いけ、いけ!」
木製バットがボールを捉える、乾いた音が響いた。
打球が鋭く切れ、スタンドへ飛び込んでくる。
誰かが「あぶない」と叫んだ。
蒼真が振り向く。
鈍い音がした。
次の瞬間、蒼真は鼻を押さえて座席のあいだへ沈み込んだ。
「蒼真!」
大和が屈み込む。その横で、玲央は両手を伸ばした。
「取った!」
跳ね返ったファールボールを、玲央が胸元でつかんでいた。
「見ろ、大和! 俺、取った!」
「蒼真を見ろ!」
周囲がざわつく。すると今度は、スタンドから別の歓声が上がった。
バックスクリーンの大型モニターに、三人の姿が映っている。ボールを掲げる玲央、画面に気づいて手を振る大和、その足元で鼻を押さえて丸くなっている蒼真。
「映ってる!」
大和も反射的に手を振った。
「僕は……?」
下から蒼真のくぐもった声がした。
二人は手を振るのをやめた。
*
「急患! 急患なんだけど!」
病院の夜間受付へ駆け込んだ大和は、蒼真の右腕を肩に回していた。反対側を支える玲央の手には、まだファールボールが握られている。
受付の女性は電話中だった。
太い黒縁眼鏡の奥から三人を一瞥したものの、受話器を置く気配はない。
「ですから、湿気てたんです。開けた瞬間に分かりました。パリッ、じゃなくて、モソッ、だったんです」
大和が受付台を軽く叩く。
「すみません、こいつ、鼻にボールが当たって」
女性は人差し指を立て、黙れと合図した。
「袋には“この製品にご不満がある場合はお電話ください”って書いてあるわよね? 私はご不満だから電話したのよ!」
蒼真の鼻から、丸めたティッシュが二本突き出ていた。
「大和、僕、スナック菓子に負けてる?」
「大丈夫だ。人間としては勝ってる」
「今は順位じゃなくて診察を……」
ようやく電話を切った女性が、ゆっくり顔を上げた。
「保険証」
「その前に急患なんだけど。あの……急患って意味は分かるよね?」
「……あ?」
低い一音だった。
大和の眉が動く。玲央はファールボールをポケットへ隠した。
奥から看護師が出てきて蒼真の状態を確認し、意識も呼吸も問題なく、出血も治まりつつあるため、呼ばれるまで待つよう告げた。
大和は渋々、受付票を書き始める。
「負傷した状況……野球観戦中、ファールボールが鼻に直撃、と」
「“友人二名は大型画面に夢中”も書く?」
「診察には関係ないだろ」
「僕の心には関係あるよ」
*
女子会が人生相談から集団落ち込み会へ変わったころ、インターホンが鳴った。
三人は同時に顔を上げた。
「カレーだ」
ひばりの声にだけ、希望が戻った。
玄関に立っていたのは、赤い帽子をかぶった若い配達員だった。額に汗を浮かべながら、明るい笑顔で袋を差し出す。
「オ待タセシマシタ。ご注文、三点デス」
美咲が伝票を見る。
「バターチキン、激辛マトン、海老とアボカドの王様カレー……違う。うち、こんなの頼んでない」
「わたしのがない」
ひばりが袋の中をのぞいた。
「ヘルシーカレーのチーズ増量、ハンバーグ乗せ」
配達員が聞き返す。
「ヘルシー?」
「そう」
「チーズ増量、ハンバーグ乗せ?」
「そう」
配達員の顔に一瞬だけ、文化の壁ではない種類の疑問が浮かんだ。
玲奈が伝票の宛先を指す。
「住所もお名前も違います。ここの居住者は小森です」
「エッ? シモキタさんデハナイデスカ?」
「シモキタ?」
「下北紫耀さんノオタク」
美咲の動きが止まった。
「……いま、誰って言った?」
「下北紫耀さん」
「前髪分けてて、金髪で、背は百七十くらい?」
「マア、ソウデシタネ」
配達員はもう一枚の伝票を確認し、見る見る青ざめた。
「ヤバイ。小森さんノ商品、先ニ下北紫耀さんノ家ニ届ケタ。コレ、下北紫耀さんノ注文。全部、逆デス」
「向かいに住んでるの?」
美咲は、玄関の外まで顔を出した。通りを挟んだ先に、ガラス張りの高級デザイナーズマンションがある。
「クマールさんニ殺サレルヨ。スグ、両方作リ直シマス!」
配達員が袋を引き戻そうとした。
美咲は両手でしっかりつかんだ。
「待って。これは、このままでいいわ」
「デモ、注文ト違イマス」
「違うからいいの。下北紫耀が選んだカレーなのよ。むしろ、こっちがいい」
「美咲さん?」
玲奈が不安そうに見る。
「だって考えてみて。彼が今日、何を食べたいと思ったか。その答えが、いま私の手の中にあるのよ」
「カレーだけどね」
ひばりが言った。
「しかも三人分あります」
「今夜の彼には、誰かがいるってことね」
美咲の笑顔がわずかに引きつったが、袋は離さなかった。
「とにかく、これは受け取る。作り直さなくていいわ」
「ワカリマシタ。アリガトウゴザイマス!」
救われた顔で頭を下げ、配達員が帰ろうとする。
「待って」
ひばりが呼び止めた。
「わたしのヘルシーカレーは、作り直して絶対持ってきてね」
「チーズ増量、ハンバーグ乗せ?」
「そう。ヘルシーのやつ」
「どこがヘルシーなのよ」
美咲が言うと、ひばりは真顔で答えた。
「名前」
*
配達員が去るやいなや、美咲はカレーをテーブルへ置いた。
「双眼鏡、双眼鏡……」
「食べないんですか?」
「いま食べたら、一番おいしいところを逃すでしょ」
棚の奥から双眼鏡を引っ張り出し、窓辺へ駆け寄る。カーテンの隙間から、向かいのマンションへレンズを向けた。
高層階の広いテラスに、室内の明かりが四角く伸びている。
「いた」
美咲の声が急に小さくなった。
金髪の若い男が、カレーの容器を三つ抱えてテラスへ出てきた。白いシャツの袖を肘までまくり、テーブルへ一つずつ並べていく。
蓋を開ける。
中身を見る。
もう一つを開ける。
少し首を傾げた。
「やばい。私たちのカレーを見て困ってる」
美咲は、誕生日プレゼントでも受け取ったように喜んだ。
「貸して」
ひばりが手を出す。
「まだ駄目。いま、“あれ?”って顔した。すごくいい“あれ?”だった」
「“あれ?”に良し悪しがあるんですか?」
「顔がいい男にはあるの」
そのとき、テラスに別の影が現れた。
美咲の口元から笑みが消える。
「……女らしき物体が見えるわね」
さらにもう一人、酒瓶とグラスを持った女性が室内から出てきた。
「二匹いるわね」
ひばりはテーブルのカレーを一つ開け、匂いを嗅いだ。
「てめーのじゃねーぞ、このメス豚」
美咲は双眼鏡を目に当てたまま、片手だけ伸ばしてひばりの肩を叩いた。外れた手が玲奈の頭に当たった。
「痛いです」
「ごめん。いま戦争中」
「一方的な偵察に見えます」
*
病院の待合室では、一時間が過ぎていた。
足首を気にしながら入ってきた男性が呼ばれ、咳を二度した女性も呼ばれ、付き添いにしか見えなかった老人まで呼ばれた。
蒼真の名前だけが呼ばれない。
大和と玲央は並んで受付を見ていた。
受付の女性も、二人を見ていた。
誰も口を開かない。
見えない火花だけが、待合室の中央でぶつかっていた。
「なあ」玲央が小声で言う。「あの人、俺たちの受付票、捨てたんじゃないか?」
「聞こえてるわよ」
受付から声が飛んだ。
「地獄耳だな」
「それも聞こえてる」
大和が立ち上がろうとする。蒼真がその袖をつかんだ。
「僕の鼻で争わないで……」
「お前は悔しくないのか」
「悔しいけど、鼻で息ができないから、怒る体力がないんだ」
玲央はポケットからファールボールを出し、蒼真の目の前へ差し出した。
「これ、やるよ」
「いらない」
「お前が顔で取った球だぞ」
「だったら最初から僕のだよ」
*
美咲の部屋では、カレーの容器が空になり、三人はベランダへ出ていた。
夜風が、酒で熱くなった頬を撫でる。
向かいのマンションは、つい先ほどまで明るかった。けれど今は、テラスも室内も真っ暗だった。
美咲は双眼鏡を構えたまま、動かない。
「寝たのかしら」
ひばりが缶を傾ける。もう一滴も出なかった。
「今頃、三Pでしょ」
美咲は何も言わず、双眼鏡をゆっくり下ろした。
「……もう一本、飲む?」
玲奈が気遣うように訊いた。
「二本」
美咲は部屋へ戻った。
*
日付が変わる少し前、診察を終えた男三人が帰ってきた。
玄関を開けた美咲は、蒼真の顔を見るなり壁へ手をついた。
「何、それ」
蒼真の鼻には、黒く大げさな固定具が装着されていた。目の周りまで覆う形が、安いヒーロー映画のマスクに見える。
「笑わないで。病院にこれしかなかったんだ」
「バットマン?」
「違う」
「鼻だけ守るバットマン?」
「どんな街を守るんだよ」
大和が靴を脱ぎながら言った。
しばらくして、六人はテレビの前に集まった。玲央が持ってきた対戦ゲームを始める。蒼真は固定具で左右の視界が狭く、画面の端から来る攻撃に反応できない。
「ちょっと待って。いま、見えてないところから攻撃しただろ」
「戦場に待ってはない」
玲央が得意げに言う。
「病人相手に戦場を語るな」
大和もそう言いながら、反対側から蒼真を攻撃した。
「大和まで!」
玲奈が笑った。
声を立てて笑ったあと、自分でも少し驚いたように口元へ手を当てる。その表情から、母親の影はようやく薄れていた。
テーブルの上で、玲奈のスマートフォンが震えた。
一度目は、ゲームの効果音に紛れた。
二度目で、美咲が画面を見る。
「玲奈。老田さんから」
玲奈の笑顔が、わずかに固くなった。
「こんな時間に、どうしたんでしょう」
コントローラーを置き、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『玲奈か』
老田の低い声が聞こえた。背後には、店の食器が触れ合う音がある。
『お前と話がしたいって人が来てる。代わるぞ』
「えっ、ちょっと待ってください。誰――」
返事はない。
受話器が誰かへ渡される、かすかな衣擦れの音。
部屋にいた五人は、いつの間にかゲームを止め、玲奈を見ていた。
玲奈はスマートフォンを耳に当てたまま、動かない。
『玲奈』
女の声だった。
たった二音で、玲奈の背筋が伸びる。
『いい加減、逃げるのはやめなさい』
テレビ画面では、操作を失った玲奈のキャラクターが、崖からゆっくり落ちていった。
玲奈の笑顔も、消えていた。




