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第6話 「六十万円と、さよならの理由。」

 下北沢駅の高架下にある自動販売機の前で、直子は百円玉を三枚、掌に並べていた。


「どれだい」


 雨宮ひばりは、端から端まで眺めた。


「直子がいちばん好きなやつ」


「あたしは水でいい」


「それ、無料の水が好きなだけでしょ」


「好きなうえに無料なんだ。欠点がない」


 直子は渋い顔で百円玉を入れた。


「早くしな。気が変わるよ」


 ひばりは葡萄の絵が描かれた缶を押した。大きな音を立てて落ちてきた缶を、直子が拾う。


「ほら」


「ありがとう」


 ひばりは両手で受け取った。


「初めて奢ってもらった」


「大げさだね。百二十円だよ」


「値段じゃないの。直子が自分のお金で、わたしのために選んで、買ってくれたのが大事なの」


「選んだのはあんただろ」


「お金を入れたのは直子よ」


「押したのはあんた」


「拾ったのは直子」


「もう半分よこしな」


 ひばりは缶を胸に抱えて、一歩下がった。


「これは全部わたしの思い出」


「面倒くさい女だね」


「直子に言われたくないわ」


 二人はいつものように、手も振らずに別れた。


 ひばりは歩きながら缶のプルタブへ指をかけた。少しぬるくなっている。けれど、それも直子からもらった温度のような気がした。


 缶を開ける。


 口をつける直前、中に黒いものが浮いているのが見えた。


 ひばりは足を止め、缶を傾けた。


 触角が二本、液面から出ていた。


「直子」


 振り返ったが、直子の姿はもう人混みの向こうへ消えている。


 ひばりは缶の中をもう一度覗いた。


「思い出が増えたわ」


     *


 喫茶ロンドのいつもの席に缶が置かれると、五人は一斉に身を引いた。


「近づけないで」と美咲。


「蓋、閉められないの?」と蒼真。


「一度開けた缶は、もう心を閉ざせないの」


「いいことみたいに言うな」と大和。


 玲央だけが、少し離れたところから缶の中を覗こうとしていた。


「本当にゴキブリ?」


「確認する?」


 ひばりが缶を持ち上げると、玲央はすぐ椅子へ戻った。


「信じる」


 玲奈は口元を押さえながら、伝票の裏へ飲料会社の電話番号を書いた。


「すぐにご連絡したほうがよろしいです。缶も、そのまま保管してください」


「直子にも見せたほうがいい?」


「なぜですか」


「初めて奢ってくれたものだから」


「直子さんの責任じゃないよ」と蒼真。


 美咲は缶を睨んだ。


「絶対に捨てちゃダメ。現物を送って、製造番号も控えて、いつどこで買ったか全部伝えるの」


「食べた時間も?」


「食べてないでしょ」


「向こうは食べてたかもしれない」


「虫の食事記録はいらない」


 大和が背もたれに深く沈んだ。


「どうせ菓子折りを持ってきて終わりだ」


「菓子折りに入ってない?」と玲央。


「何が」


「次のゴキブリ」


 全員が玲央を見た。


「お前、しばらく何も食うな」と大和。


     *


 それから話は、ひばりが考えていたより大きくなった。


 飲料会社へ電話をすると、缶を回収したいと言われた。翌日には担当者が二人で喫茶ロンドへ来て、ひばりに何度も頭を下げた。


 ひばりが「ゴキブリにも事情を聞いてください」と頼むと、二人とも真剣な顔で頷いた。


 缶は工場へ送られた。


 調査の途中で製造ラインの確認が入り、同じ日に作られた商品の一部が回収された。ひばりの部屋には毎日のように電話がかかってきた。


 そして三週間後、飲料会社の応接室で、担当者が封筒をテーブルへ置いた。


「このたびは、多大なご心痛とご不快な思いをおかけし、誠に申し訳ございませんでした」


 隣の弁護士が、示談書をひばりの前へ滑らせる。


「解決金として、六十万円をお支払いしたいと考えております」


「六十万円」


 ひばりは封筒を見た。


「ゴキブリは?」


「はい?」


「いくらもらうんですか」


 担当者と弁護士が顔を見合わせた。


「雨宮様に、六十万円です」


「あの子は何も?」


「あの子、と申しますと」


「缶に入ってた子」


 担当者が慎重に答えた。


「すでに死んでいたものと確認されております」


 ひばりは少し考え、示談書へ署名した。


「じゃあ、わたしが預かります」


     *


 その夜、美咲と玲奈の部屋では、大和がテレビに向かって怒っていた。


「そこで泣く意味が分からない」


「娘が結婚するからじゃない?」と蒼真。


「先週まで反対してた男と結婚するんだぞ。泣く前に止めろ」


「ドラマですから」と玲奈。


「ドラマだからって、人間が急に馬鹿になっていいのか」


 大和は腕を組み、今度は窓を見た。


「それに今日の雲は気に入らない」


「雲にまで当たるなよ」と蒼真。


「あんな中途半端に白いなら出てくるな」


 蒼真は時計を見て、テーブルの引き出しから丸いパッドを取り出した。


「そろそろ誰かのニコチンパッドの時間だ」


「俺は犬か」


「犬のほうが機嫌いいよ」


 玲奈が新しいパッドを受け取り、大和へ差し出す。


「前のものは、もう効果が切れているのではないでしょうか」


「俺の人格がこれなんだ」


「では、煙草は関係なかったのですね」


 大和は黙ってパッドを奪った。


 ソファの反対側では、ひばりが靴裏についたガムを割り箸で剥がしていた。


「六十万円もらった日に、ガムを踏むなんて」


 蒼真が振り返る。


「六十万円?」


「ゴキブリのお金」


「言い方」と大和。


 玲奈が目を丸くした。


「本当に、そのような金額になったのですか?」


「うん。でも、帰りにガム踏んだ」


「六十万円あれば靴ごと買い替えられるよ」と蒼真。


「この靴は気に入ってるの」


「じゃあ、六十万円で誰かに剥がしてもらえ」と大和。


「大和、やる?」


「六十万円ならやる」


 玄関の鍵が回った。


 美咲が入ってきた。四人を見回し、靴も脱がないまま言う。


「玲央はどこ?」


「最後のガムを食べたから殺した」


「玲央さんなら、お部屋にいらっしゃいます」と玲奈。


 美咲は鞄を床へ置いた。


「呼んでくる。全員に話があるの」


 その声で、蒼真はテレビの音量を下げた。


     *


 美咲は廊下を渡り、大和と玲央の部屋のドアを叩いた。


 返事を待たずに開ける。


「玲央、ちょっと来て」


 浴室の扉が開き、玲央がバスタオルを腰へ巻いた姿で出てきた。髪から水が滴っている。


「今、風呂出たばっかり」


「見れば分かる。全員に話があるの」


「服を着てから行く」


「すぐ終わるから」


「そう言って終わった話、今まで一個もないだろ」


 美咲は玲央の腕をつかみ、そのまま廊下へ引っ張った。


 五人が待つ部屋へ入ると、ひばりが玲央を見た。


「玲央の“俺”が見えてるわ」


 玲央は何も言わず、膝を揃えて座った。


     *


 美咲はテレビを消した。


「あっ」と大和。


「今、犯人を言うところだったのに」と蒼真。


「犯人は父親だ」と大和。


「言わないでよ」


「全員、黙って」


 美咲の顔を見て、四人は口を閉じた。玲央はバスタオルの合わせ目を押さえた。


 美咲は一度、息を吸った。


「私、タカシと別れようと思う」


 誰も動かなかった。


 最初に声を出したのは大和だった。


「何をした」


「何もしてない」


「じゃあ、何をしなかった」


「そういう問題じゃないの」


 玲央が身を乗り出しかけ、慌てて座り直した。


「タカシのどこが嫌なんだよ」


「嫌いじゃない」


「なら、別れなくていいじゃない」とひばり。


 玲奈は、美咲の表情を見つめていた。


「タカシさんには、もうお伝えになったのですか?」


「まだ。明日、会って話す」


 蒼真がゆっくり尋ねた。


「理由を聞いてもいい?」


「いい人だから付き合い続けるって、違うでしょ」


「でも、いい人だよ」と玲央。


「知ってる」


「俺たちも好きだ」と大和。


「それも知ってる」


「なら、六人で付き合えばいい」とひばり。


「誰と誰が?」


「タカシと、わたしたち」


「私が抜けてるじゃない」


 ひばりは指を折って数えた。


「本当だ。七人だった」


 美咲は額を押さえた。


「これが嫌だったの。私が別れたいって話なのに、なんであんたたちが捨てられた顔してるのよ」


 大和が吐き捨てるように言った。


「タカシに選ぶ権利はないのか」


「私にはあるわよ」


 短い沈黙が落ちた。


 玲奈が静かに頷いた。


「美咲さんが、タカシさんを嫌いになる前にお別れしたいのでしたら、そのほうがよいのかもしれません」


 美咲の肩から、少しだけ力が抜けた。


 蒼真も頷く。


「僕たちが好きなのは、理由にならないね」


「なるだろ」と大和。


「ならないよ」


 大和は新しいニコチンパッドの上から腕を掻いた。


「禁煙したばかりの人間に、二つも失わせるな」


     *


 翌日の夕方、美咲とタカシは駅から少し離れた食堂で向かい合っていた。


 混んでいる時間を避けたせいで、店内には二人のほかに老夫婦が一組いるだけだった。


 注文したコーヒーには、どちらもまだ口をつけていない。


「別れたい」


 美咲は、用意していた前置きを全部飛ばして言った。


 タカシはすぐには答えなかった。


「理由を聞いてもいい?」


「タカシが悪いんじゃない」


「その言い方だと、かなり悪いことをした気分になるな」


「ごめん」


「謝らないで」


 タカシはカップの取っ手へ指をかけ、また離した。


「俺は、続けたいと思ってた」


 美咲は唇を結んだ。


「うん」


「美咲といるのは楽しかった」


「私も」


「それでも?」


「それでも」


 タカシはしばらく俯いていた。やがて小さく息を吐く。


「分かった」


 怒られる覚悟をしていた美咲は、その一言のほうに傷ついた。


 タカシはようやくコーヒーを一口飲んだ。


「でも、少しだけよかった」


 美咲が顔を上げる。


「何が?」


「もう、あの友達に会わなくて済む」


 美咲は瞬きをした。


「え?」


「玲央君は俺の唐揚げを勝手に食べる。ひばりさんは夜中に電話してきて、ワニになった美咲を愛せるかもう一度聞く。蒼真さんの離婚話は、同じ場面が毎回少しずつ違う」


 美咲は何も言えなかった。


「玲奈さんは礼儀正しいけど、会うたびに俺の人差し指を見る。大和君は禁煙した報告を、一日に三回電話してくる」


「そんなに?」


「昨日は四回」


 タカシは疲れたように笑った。


「美咲との交際は本当に楽しかった。でも、あの五人には我慢ならなかった」


 美咲は、自分の前で一度も崩れなかった男の顔を見た。


「言ってくれればよかったのに」


「美咲が大切にしてる人たちだから、好きになろうとした」


「無理だった?」


「かなり」


 美咲は目を伏せた。


 少しして、二人は同時に笑った。


 別れることを決めたあとで、初めて同じ理由で笑った。


     *


 美咲の部屋では、五人が帰りを待っていた。


 テレビはついていたが、誰も見ていない。


 玲央は服を着ていた。


「今ごろ、別れ話してるのかな」と蒼真。


「タカシが引き止めてる」と玲央。


「美咲は引き止められるほど意地になる」と大和。


 ひばりが窓の外を見た。


「連れて帰ってきたら、みんなで謝ろう」


「何を?」と蒼真。


「美咲が別れようとしたこと」


 玄関の鍵が回った。


 美咲が入ってくる。


 五人は立ち上がりかけたが、美咲が手で制した。


「別れた」


 玲央がソファへ沈んだ。


 蒼真が静かに尋ねる。


「タカシは、なんて?」


 美咲は五人の顔を見た。


 玲央は本気で落ち込んでいる。ひばりは膝の上で両手を握り、玲奈は心配そうに待っていた。大和は不機嫌な顔のまま、返事だけを聞こうとしている。


 美咲は鞄を置いた。


「みんなに会えなくなるのは寂しいって」


 玲央が目を閉じた。


「タカシ……」


「最後までいい人でした」と玲奈。


 大和は鼻から長く息を吐いた。


「惜しい男を失ったな」


「私が振られたみたいに言わないで」


「俺たちは振られた」


 美咲は返さなかった。


 五人が傷つかないようについた嘘なのに、そのせいで五人は余計に傷ついていた。


 しばらくして、大和が立ち上がった。


「どこ行くの?」と蒼真。


「煙草を吸ってくる」


 玲奈が驚いた。


「禁煙なさったのではないのですか?」


「タカシに言われたから禁煙したんだ」


 美咲が大和を見る。


「だから?」


「もう会わないなら、守る必要もないだろ」


 大和はポケットから煙草の箱を出し、玄関へ向かった。


 ひばりが、その背中へ声をかけた。


「わたしが六十万円あげるって言ったら?」


 大和の足が止まった。


 五秒ほど考え、無言で引き返してくる。


「まだ、あげるとは言ってないけど」


「話だけは聞こう」


 大和は元の席へ座り、煙草をポケットへ戻した。


 美咲が呟いた。


「タカシより六十万円なんだ」


 大和は当然のように答えた。


「タカシは六十万円くれないだろ」

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