第5話 「美咲の彼氏を、全員が好き。」
ランチ営業を終えた厨房で、小森美咲は玉ねぎを刻んでいた。
包丁の音が、さっきから速い。
「紹介したくないなら、しなきゃいいじゃない」
隣でパセリをちぎっていた同僚の恵が言った。
「そうすると、紹介しろってうるさいのよ」
「紹介すれば?」
「絶対に何か言うから嫌」
「何も言われなかったら?」
包丁の音が止まった。
「それはそれで気持ち悪い」
恵は手を止め、美咲を見た。
「あんた、彼氏を嫌われるのが怖いんじゃなくて、気に入られるのが怖いんじゃない?」
「なんでよ」
「取られそうだから」
「誰に」
「友達に」
美咲は鼻で笑い、また玉ねぎを刻み始めた。
「ない。玲奈はそういうことしないし、ひばりは男より鳩と話してるし、蒼真は離婚してから他人の恋愛に怯えてる。玲央は自分がいちばん好き。大和は人間が嫌い」
「じゃあ、安心じゃない」
「五人まとめると不安なのよ」
美咲は刻み終えた玉ねぎをボウルへ移した。まな板の上には、欠片一つ残っていない。
「タカシは、いい人なの。あいつらに会わせて、変なところを見つけられたくない」
「見つからなかったら?」
美咲は答えなかった。
恵が小さく笑った。
「ほら。そっちのほうが困るんじゃない」
*
一番街から少し外れた高架下で、雨宮ひばりは段ボールの家の前にしゃがみ込んだ。
「やあ、直子」
毛布にくるまっていた老女が、片目だけを開ける。
「やあ、変な女」
ひばりは紙袋から、おにぎりと卵焼きの入った容器を取り出した。
「鮭と昆布。どっちがいい?」
「両方」
「欲張りね」
「二つ持ってきた人に言われたくないよ」
直子は鮭のおにぎりを取り、包みを開いた。ひばりは隣に腰を下ろした。
「あんた、まだ駅前で歌ってるのかい」
「駅前だけじゃないよ。追い出されたら移動するから」
「立派な全国ツアーだ」
直子はおにぎりを頬張り、段ボールの奥を探った。出てきたのは、傷だらけの古いギターだった。
「これ、持ってきな」
ひばりは差し出されたギターを見た。
「直子、弾けるの?」
「昔はね。今は指が言うことを聞かない」
「わたしの指も、たまに聞かないよ」
「あんたの場合は頭もだろ」
直子はギターをひばりの膝へ押しつけた。
「売れば、少しは金になる」
ひばりは弦に触れず、そのまま返した。
「いらない」
「遠慮する顔じゃないね」
「遠慮じゃないよ。これをもらったら、直子がわたしにお礼をしたことになるから」
「したいんだよ」
「じゃあ、ジュース奢って」
直子は露骨に顔をしかめた。
「金がかかるじゃないか」
「ギターをくれようとした人の台詞じゃないわ」
「ギターはもう持ってる。ジュースはこれから買うんだ」
「じゃあ、今度ね」
ひばりは立ち上がり、残った昆布のおにぎりを直子の膝へ置いた。
「忘れないよ」
「忘れな」
「わたし、奢ってもらったものは忘れないの」
「まだ奢ってないよ」
ひばりは手を振り、人通りのあるほうへ歩き出した。
背後で直子が、二つ目のおにぎりの包みを開く音がした。
*
土曜日の夜、美咲と玲奈の部屋には、招かれていない者まで全員そろっていた。
蒼真はソファの端で膝を揃え、テーブルの上のケーキを見つめている。
玲央は、すでにそのケーキを食べていた。
「それ、タカシに出すやつなんだけど」
美咲が言うと、玲央は口を動かしたまま箱を確認した。
「まだある」
「六個入りを六人で食べて、タカシの分があると思う?」
「俺、人数に入ってたの?」
「今から外すわよ」
玲奈はダイニングテーブルで本を読んでいた。ページをめくっているが、同じ箇所を三度読んでいる。
「玲奈、緊張してる?」と蒼真。
「いいえ。交際相手のご友人として、失礼のないご挨拶を考えているだけです」
「それを緊張って言うんだよ」
ベランダでは、大和が煙草を吸っていた。
美咲は窓を少し開ける。
「大和。タカシの前では吸わないでよ」
大和が何か答えたが、外を走る電車の音にかき消された。
「何?」
大和は煙草を持った手で丸を作った。
「分かったのね?」
今度は親指を立てる。
美咲が窓を閉めると、大和は反対の手で鼻をつまみ、部屋の空気を指さした。
「大和、何て?」と蒼真。
「私の料理は最高だって」
窓の向こうで、大和が首を横に振った。
美咲はカーテンを閉めた。
「いい? 絶対に優しく接してね」
「普通でいいんじゃない?」と蒼真。
「あなたたちの普通が信用できないの」
「俺は初対面に強いよ」と玲央。
「食べ物がある家ではね」
美咲は一人ずつ指をさした。
「蒼真は離婚の話をしない。玲央は仕事を聞かれても最近観た映画の話へ逃げない。玲奈は家柄の話をしない。大和は――」
閉じたカーテンの向こうを見た。
「部屋に入れるまで保留」
玄関のドアが開いた。
「あの人、やっぱり会う気あると思う」
ひばりが前回の続きから入ってきた。
「誰の話?」と玲央。
「“また会おう”の人。今日、駅前で同じ色の傘を見たの」
「本人じゃなくて傘じゃない」
「傘が来たなら、本人も近いかもしれない」
美咲がひばりの肩をつかんだ。
「今から私の彼氏が来るの。お願いだから、傘の恋愛はあとにして」
インターホンが鳴った。
五人の顔が、一斉に玄関へ向いた。
*
美咲が扉を開けた。
立っていたのは、五人が想像していたより背が高く、想像していたより落ち着いた男だった。紺色のジャケットに、白いシャツ。四十歳には少し届かないくらいで、笑う前から目元がやわらかい。
「こんばんは。タカシです」
紙袋を差し出す。
「皆さんでどうぞ」
玲央が美咲の肩越しに中を覗いた。
「ケーキ?」
「焼き菓子です」
「いい人だ」
美咲が玲央の顔を押し戻した。
「まだ何も分かってないでしょ」
タカシは部屋へ入り、五人へ順番に挨拶した。
蒼真が非常勤講師だと聞くと、大学名ではなく何を教えているのかを尋ねた。
「近代文学です。主に私小説を」
「自分のことを書いているのに、小説になる。あれはどこからが作り話なんですか?」
蒼真の背筋が少し伸びた。
「その境界が、いちばん面白いところなんです」
「今度、初心者向けの一冊を教えてください」
蒼真は、美咲に質問を禁じられていたことを忘れ、うれしそうに頷いた。
玲央が俳優だと名乗ると、タカシは「何に出ているんですか」とは聞かなかった。
「舞台が中心ですか?」
「そう。まだ小さいところだけど」
「小さい劇場のほうが、客席の反応が直接来るんでしょうね」
玲央は手にしていたフォークを置いた。
「そうなんだよ。息遣いまで分かるんだ」
玲奈には、喫茶ロンドの仕事について尋ねた。
「まだ失敗ばかりで」
「美咲から、毎日頑張っていると聞いています」
玲奈は美咲を見た。
「そんなふうに話してくださっていたんですか?」
「一回よ。一回だけ」
タカシはひばりの髪に編み込まれた花を見ても、どうして花がついているのかとは聞かなかった。
「駅前で歌っている方ですよね」
「聴いたことあるの?」
「あります。“冷蔵庫は夜に嘘をつく”という歌」
ひばりの目が輝いた。
「二番まで?」
「二番で卵が裏切りますよね」
「最後まで聴いてる」
ひばりは美咲に小声で言った。
「この人、信用できる」
「卵で決めないで」
大和は話の途中で立ち上がり、ベランダへ向かった。
タカシが煙草の箱を見た。
「禁煙されていたんですか?」
大和の足が止まる。
「してた。過去形で三年」
「それは、もったいないですね」
責める口調ではなかった。それだけ言って、タカシは焼き菓子の箱を開けた。
大和は窓を開けたまま、少し考えた。
「一本だけだ」
「さっきも一本って言ってた」と蒼真。
「今日の一本が長いんだ」
タカシが笑った。
大和も、煙草へ火をつけないまま笑った。
*
二時間後、タカシは玄関で靴を履いた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」と蒼真。
「次は俺の芝居を観に来てよ」と玲央。
「決まったら、美咲から聞きます」
ひばりが手を振った。
「卵の続きも聴いてね」
「ぜひ」
大和は煙草の箱を手にしたまま、珍しく何も皮肉を言わなかった。
扉が閉まる。
美咲は深く息を吸い、五人へ振り返った。
「さあ、どうぞ。タカシバッシングを」
誰も口を開かなかった。
「何よ」
蒼真が慎重に言った。
「とてもいい人だと思う。非の打ちどころがない」
「芝居の話、ちゃんと聞いてくれた」と玲央。
「わたしの歌を最後まで聴いてた」とひばり。
大和は煙草の箱をテーブルへ置いた。
「俺を禁煙させようとした以外は、欠点がない」
「それ、長所でしょ」
玲奈も真面目な顔で頷いた。
「人差し指も長かったです」
全員が玲奈を見た。
「先日、美咲さんが教えてくださったので」
美咲は五人の顔を順に見回した。
「あんたたち、全員タカシを好きになったの?」
「美咲より先に会ってたら危なかった」と玲央。
「何がよ」
「俺たちが」
*
それから四日後、美咲を除く五人とタカシは、下北沢駅近くの居酒屋にいた。
始まりは偶然だった。
仕事帰りの大和が駅前でタカシを見かけ、声をかけた。大和から連絡を受けた玲央が来て、玲央が蒼真を呼び、蒼真が玲奈に「一応知らせたほうがいい」と連絡し、玲奈と一緒にいたひばりまでついてきた。
美咲には、誰も知らせなかった。
「タカシ、次何飲む?」
玲央がメニューを差し出す。
「同じので」
「じゃあ、俺も同じ」
「お前は今まで同じじゃなかっただろ」と大和。
蒼真は、さっきからタカシに離婚の話をしていた。美咲から禁じられていた反動で、すでに結婚生活の終盤まで進んでいる。
「僕は、正しかったと思いますか」
タカシはすぐに答えなかった。
「奥さんにとって何が正しかったかは分かりません。でも、蒼真さんが今も考えていることは、間違いじゃないと思います」
蒼真はグラスを見つめた。
「その答え、美咲にはできないな」と大和。
「美咲なら“終わったことを採点するな”って言う」と玲央。
「あいつらしいですね」
タカシは笑った。
玲奈が梅酒のグラスを両手で持ちながら尋ねた。
「タカシさんは、美咲さんのどのようなところがお好きなのですか?」
「尋問が始まった」と大和。
「確認です」
タカシは考えた。
「誰かが困っていると、助ける前に怒るところです」
「褒めてる?」と玲央。
「困る前に言え、どうしてこうなるまで放っておいた、って怒りながら、最後まで面倒を見るでしょう」
五人の顔に、同じ記憶が浮かんだ。
「褒めてる」と蒼真。
「かなり正確です」と玲奈。
ひばりがタカシの顔を覗き込んだ。
「美咲がワニになっても好き?」
「大きさによりますね」
「質問を否定しなかった」とひばり。
「合格だな」と大和。
タカシは何の試験に合格したのか聞かなかった。
その夜、六人のうち美咲だけが、自分の彼氏と飲んでいなかった。
*
翌日の夕方。喫茶ロンドのいつもの席で、大和は食後の煙草を指に挟んでいた。
火はまだついていない。
「昨日、タカシにも言われただろ」と蒼真。「もう一度やめたら?」
「三年やめられたんだから、依存してない」と大和。
「依存してない人は、煙草を撫でないよ」
大和は煙草から指を離した。
「煙草を吸っている俺もかっこいい」
玲央が大和の横顔を見た。
「煙がなければ、もっと見える」
「健康なまま長生きして、何になる」
「不健康なまま早く死んで、何になるの」と蒼真。
「葬式で惜しまれる」
「禁煙すれば、生きてるうちに惜しんでもらえるよ」
大和がライターを取り出したとき、カウンターの電話が鳴った。
玲奈が受話器を取り、二言ほど話してから振り返る。
「大和さん。タカシさんからです」
大和はすぐに立った。
「俺に?」
その声が少しうれしそうで、蒼真と玲央が顔を見合わせた。
大和はカウンターへ行き、受話器を受け取った。
「もしもし。……ああ。昨日はどうも」
しばらく黙って聞いている。
「別に、怒ってない。……分かった。分かったよ」
大和は電話を切った。
席へ戻り、吸いかけでもない煙草を見つめる。
「何だって?」と玲央。
「また一緒に飲みに行きたいから、長生きしろって」
大和は煙草を灰皿へ置き、指で折った。
玲奈が目を丸くした。
「禁煙なさるんですか?」
「タカシに頼まれたからな」
蒼真が、折れた煙草を見て呟いた。
「タカシが女性だったらな」
玲央も頷いた。
「美咲がいなければな」
大和が二人を見た。
「お前ら、俺を何にしようとしてる?」
*
夜の厨房で、美咲は鶏肉の下処理をしていた。
恵が隣で洗い物をしながら言う。
「で、どうだったの。彼氏と友達」
「最悪」
「嫌われた?」
「全員に好かれた」
美咲は筋を一本抜き、ボウルへ捨てた。
「私抜きで飲みに行ったのよ。五人とタカシで」
「理想的じゃない。彼氏と友達が仲良くしてくれるなんて」
「私がいないところで仲良くなる必要ある?」
「あんたが紹介したんでしょ」
「だからって、私を外す?」
恵は蛇口を止めた。
「本当にそれが嫌なの?」
美咲の手が止まる。
「何が」
「友達に取られたことじゃなくて、別れる理由を取られたんじゃない?」
美咲は恵を見た。
厨房の換気扇だけが回り続けている。
「タカシはいい人よ。優しいし、話も合う。一緒にいて楽しい」
「うん」
「五人も好き。私のことも大事にしてくれる」
「うん」
美咲は視線を落とし、鶏肉の表面を指でなぞった。
「でも、身体の相性が、ビンビン来ないの」
恵は一度だけ瞬きをした。
「ずいぶん直接的ね」
「遠回しにして良くなるもの?」
「ならない」
美咲はまた手を動かし始めた。さっきより、包丁の音が遅い。
「いい人だから別れちゃいけないって、自分に言い聞かせてるだけかも」
「五人が褒めるほど、別れにくくなった?」
「私の彼氏なのに、もうみんなのタカシみたいになってる」
恵は水滴のついた手を布巾で拭いた。
「でも、付き合ってるのは、みんなじゃない」
美咲は返事をしなかった。
厨房の隅には、出番を待つ皿が六枚、きれいに重ねられていた。
美咲はそれを数え、いちばん上の一枚だけを別の棚へ移した。




