第3話 古着屋、面接、たぶん不採用。
朝九時、美咲の部屋のテーブルに、四種類の服が並んでいた。
白と紺のブラウス、薄い灰色のカーディガン。それから、美咲が通勤に使うはずだった黒いパンツ。
「面接へ行くだけで、どうして私の服が全部落選しかけてるの」
美咲は立ったままコーヒーを飲んでいた。出勤まで、あと十五分しかない。
「白は誠実すぎて、何でも引き受ける人に見えます。紺は少し距離があり、灰色は柔らかいのですが、毛玉が三つあります」
「面接官は毛玉を数えない」
「数えない方なのですか」
「知らない。でも、数える人の店なら落ちていい」
面接先は一番街の古着店「ループノート」。未経験可、週三日から、服装自由だった。
「服装自由という言葉が、いちばん難しいです。自由には見本がありません」
「好きなものを着ればいいってこと」
「好きなものを着て、お店の方が嫌いだった場合は?」
「朝から契約書みたいに会話するのやめて。これ着て、髪を結んで、聞かれたことだけ答える。勝手に洗わない、縫わない、恩を返さない」
「最後の三つは、面接に関係ありますか」
「あなたにはある」
美咲は黒いパンツを回収し、通勤鞄へ押し込んだ。
「それ、履かないのですか」
「履こうと思ってた。でも、いま玲奈が面接用に床へ並べたから、料理人として気持ちが負けた」
*
喫茶ロンドへ着くと、玲央がソファ席でスマートフォンを掲げた。
「玲奈さん、古着屋なら絶対いけるよ。服に詳しそうだし、昨日は包丁まで洗った」
「後半は服と関係ないよね?」
言ってから、玲奈は口を押さえた。
玲央がうれしそうに大和を見る。
「聞いた? 今日の一回目」
「数えるな。野鳥観察じゃないんだから」
カウンターでグラスを拭いていた老田が、玲奈のカーディガンを見た。
「毛玉」
「三つあります。やはり目立ちますか」
「四つ」
玲奈は袖を裏返して探し始めた。
「面接に遅れるよ。老田さんも増やすな」
蒼真が腕時計を見た。玲奈のために、面接先までの道順を三色で書いている。
「一番街を北へ進み、二つ目の路地を右です。半地下の赤い手すりのほうへ。隣の黒い犬の置物は目印であって、面接先に犬がいるわけでは――」
「蒼真さん、紙をいただければ大丈夫です」
「まだ説明の途中ですが」
「途中で十分です」
大和が感心したようにうなずいた。
「玲奈さん、もうこの街で働けるよ。人の話を途中で切れるようになった」
「この街に必要な技能なのですか」
「主に、この六人の中で」
玲奈が店を出てからも、店内の混雑は収まらなかった。
接客中のアルバイトの女性が、隣の卓で注文を取っている。大和はその背中へ声をかけた。
「悪いんだけど、頼んだコーヒーとトースト、まだなんだよね。急かしたいわけじゃないけど、注文したときには朝食だったものが、このままだと昼食になる」
「すみません、すぐお持ちします」
それからしばらくして、女性がコーヒーを二つ運んできた。
大和と蒼真が同時にカップへ口をつける。
二人は、ゆっくり顔を見合わせた。
冷めている。
どちらも口には出さなかったが、表情だけで同じ結論に達していた。
「お待たせしました。トーストです」
続いて置かれた皿を見て、大和は黙った。トーストは片面が黒く、念のため持ち上げてみると、反対側も同じ色をしていた。
蒼真が眼鏡の位置を直す。
「焼き加減の指定はしていません」
「してても、ここまでは頼まないよ」
そのとき、窓際の客が水を求め、入口近くの客が会計票を振り、奥の卓から注文がまだかと声が飛んだ。アルバイトの女性は返事をしながら、どの卓から先に行くべきか迷っている。
大和は冷めたコーヒーと、両面の焦げたトーストと、店内を見渡した。
「どうやらここも、人手が大いに不足してるようだ」
*
ループノートは、店先からすでに混み合っていた。
色も年代も違う服が隙間なく吊られ、足元の籠にはスカーフが積まれている。反物を広げる順番まで決まっていた実家の呉服店とは違い、店全体が片づけの途中に見えた。
「本日十時より面接のお約束を頂戴しております、芦屋玲奈と申します」
レジの女性が一歩下がった。
「あ、はい。店長の牧野です。そんなに深く下げなくて大丈夫ですよ」
「失礼いたしました」
玲奈は少し浅く頭を下げ直した。
「謝らなくても大丈夫です」
「失礼いたしました」
「うん。それも、もう大丈夫」
牧野は三十代半ばほどで、短い髪の片側だけを耳へかけていた。店の奥にある丸椅子を示す。
面接は十分で終わった。
働ける曜日。通勤時間。古着の知識。接客経験。
「ご実家が呉服屋さんなら、服を見る目はありそうですね」
「着物と洋服では仕立ても流通も異なりますので、同じとは申し上げられません。ただ、お客様が口にされないご希望を察し、失礼のない範囲で先回りすることは教わりました」
「いいですね。じゃあ、一時間だけ店に立ってみますか」
「採用ということでしょうか」
「まだ体験です」
「採用ではない状態で、労働を一時間行うという理解で――」
「時給は出します」
「お願いいたします」
「そこは早いんだ」
最初の客は、大きめの革のジャケットを羽織った若い男性だった。
「これ、どう思います?」
玲奈は生地、肩、袖丈を順に見た。
「革の艶はきれいです。ただ、右肩が一・五センチほど下がって見えます。中へ薄い肩当てを入れれば整いますが、左袖は手の甲へかかりすぎますので、袖口を――」
「玲奈さん」
牧野が横から割って入った。
「まずは、似合うかどうかで大丈夫です」
玲奈は男性を見直した。
「お似合いです」
「いま、後ろにいろいろ飲み込みました?」
「はい」
「やっぱり右肩、変ですか」
「一・五センチほど」
「飲み込めてないね」
牧野が小声で言った。
男性は迷った末、ジャケットを戻した。牧野は玲奈へ小声で告げる。
「欠点は、聞かれてから少しずつで大丈夫です。正確でも、全部言うと売れません」
「先回りをしすぎました」
「うちは鑑定所じゃなくて、古着屋だからね」
次の客が、花柄のブラウスをレジへ持ってきた。値札には二千九百八十円とある。
牧野が別の客に呼ばれたため、玲奈が教わったばかりのレジへ立った。ブラウスを広げ、指先で生地を確かめる。薄い化学繊維で、縫製も粗い。実家なら端切れとしても扱わない質だった。
「百五十円でございます」
客が財布を開いたまま止まった。
「えっ? 安くない?!」
「はい。こちらは生地が薄く、縫い目の間隔にもばらつきがあります。ボタンも量産品ですので、百五十円ほどが妥当かと存じます」
「妥当って……値札、二千九百八十円だけど」
玲奈は値札を見た。
「ですが、生地の価値は――」
「二千九百八十円です!」
牧野が飛んできて、レジの表示を打ち直した。
「申し訳ありません。当店では生地の原価ではなく、値札の金額で販売しております」
「古着屋って、そうですよね?」
「そうです。普通はそうです」
客がまだ半信半疑のまま会計を終える横で、牧野は玲奈へ囁いた。
「玲奈さん。値段は、目で決めない」
「でも、あの品質で二千九百八十円は――」
「感想も、いまは胸にしまって」
*
同じ頃、ロンドでは大和が紙ナプキンへ求人広告を書いていた。
『路地裏の名店で、あなたの一日を一杯から変えませんか』
老田が注文票を持ったまま一瞥する。
「変えられたら困る」
「応募者の一日だよ。店の一日は変わったほうがいい。いま、三卓が老田さんを探してる」
「見えてる」
「見えてるのに行けてない状態を、人手不足って言うんだよ」
蒼真が別の紙を引き寄せた。
「抽象的な表現は認識の齟齬につながります。注文、配膳、食器洗浄、会計補助、清掃、常連客との適切な距離を保つ会話――」
「長い」
「まだ勤務条件へ入っていません」
「読み終わる前に募集終了だ」
そこへ玲央が、コンビニのおにぎりを食べながら入ってきた。
「写真をつけようよ。俺、店員役できる」
「本物を募集する広告に、偽物の店員を載せるな」
「本物っぽく演じるよ。店長と意見が合わなくて辞めるところまで」
「最後はいらない」
玲央は老田のエプロンを勝手につけ、トレーを持って入口に立った。
「いらっしゃいませ。あなたのための一杯を、心を込めて――」
「言わない」
老田がエプロンの紐を引いた。
玲央が回ると、トレーの水が大和の求人案へこぼれた。
入口のベルが鳴った。
ギターを背負ったひばりが、濡れた紙を覗き込む。
「求人? 私も書く」
「ひばり、短くして」
「分かった」
ひばりは太いペンで書いた。
『一人、必要。老田まで』
「短すぎる」蒼真が言った。「店名、業務、勤務時間、賃金、経験の有無が何もない」
「ここに貼れば店名は分かるし、老田さんを見れば大変なのも分かるよ」
その瞬間、アルバイトの女性が水とコーヒーを取り違えた。四人が見るなか、老田だけが見なかったことにした。
「分かりやすいでしょ」
*
ループノートで三人目の客が入ってきた。
五十代ほどの女性が紺色のコートを試着し、鏡の前で腕を曲げる。脇の縫い目が、わずかに開いた。
本人は気づいていない。
玲奈は牧野を見た。牧野は別の客の会計中だった。
呉服店なら、客が恥をかく前に店側が処理する。傷を大声で指摘せず、別室へ案内し、直せるものはその場で直す。それが、客の面目を守ることだと教わってきた。
「少々、お預かりしてもよろしいでしょうか」
「ええ。やっぱり少し大きい?」
「すぐに戻ります」
玲奈は答えず、コートを受け取った。
カウンター脇に裁縫箱がある。色の近い糸を選び、開いた縫い目へ針を通した。表へ糸を出さず、元の針穴をなぞる。数分で、裂け目は見えなくなった。
「お待たせいたしました」
女性はコートを受け取り、脇を確認した。
「あら。直してくれたの?」
「糸が弱っておりましたので、補強いたしました」
「親切ね。これ、いただくわ」
玲奈は初めて、接客というものが少し分かった気がした。
「玲奈さん。ちょっと、奥へ来てもらえますか」
牧野の声は笑っていた。
目は、まったく笑っていなかった。
店の奥へ入る直前、別の男性客が玲奈を呼び止めた。
「すみません。このシャツも、ボタン取れかけてるんですけど」
さらに別の客が、パンツの裾を持ち上げる。
「これも短くできます?」
最初の女性が玲奈を指した。
「この方、すぐ直してくださるわよ」
玲奈の前に、服が三着並んだ。
牧野は天井を見た。
「一時間で、うちをお直し専門店にした人は初めてです」
*
「直したこと自体を怒っているわけではないんです」
店の奥で、牧野は裁縫箱の蓋を閉めた。
「でも、商品へ手を入れるなら、先に店長へ確認してください。直した結果、形が変わったり、生地を傷めたりしたら、店の責任になります」
「申し訳ありません」
「それから、お客様が気づいていない傷をどう扱うかも、店が決めます。値引きするか、直すか、仕入れ先へ戻すか。玲奈さんは正しいことをしたつもりでも、順番を全部飛ばしてる」
玲奈は膝の上で手を重ねた。
「実家では、先に動かないことのほうが、気が利かないと叱られました」
「ここでは、先に相談してくれたほうが助かります。ただ――」
牧野は売り場を見た。先ほどの女性は紺のコートを着たまま、別のスカーフも選んでいる。
「あのお客様は喜んでました。縫い方もきれいだった。百五十円の会計は困るけど、服を見る目まで否定するつもりはありません」
「では、先回りは間違いではなかったのでしょうか」
「成功した失敗が、いちばん教えにくいな」
牧野は苦笑した。
「今日はここまでにしましょう。結果は三日以内に連絡します」
「それは、不採用という意味でしょうか」
「まだ決めてません」
「三日間、結果を待てばよいのですね」
「はい」
「三日目の閉店時刻まででしょうか」
「玲奈さん。接客業って、曖昧なことだらけですよ」
「いま、それが最も不安です」
「私も、いま少し不安です」
*
玲奈がロンドへ戻ると、入口の扉に求人広告が三枚貼られていた。
一枚目は文字が多すぎて灰色に見え、二枚目はトレーを持つ玲央の宣材写真。そして三枚目には、『一人、必要。老田まで』。
「これは、何があったのですか」
「人が一人必要だということがあった」
ひばりはソファでギターの弦を張り替えている。
「説明まで求人と同じ長さだね」大和が言った。
老田は三枚とも剥がそうとした。その手から、大和が紙を守る。
「今日だけで冷めたコーヒーを出して、トーストを両面焦がして、水を三回同じ客へ運んで、一人の会計を忘れた。認めろ。人はいるのに、店全体の手が足りてない」
「知らない人間を入れるほうが面倒だ」
「求人って、だいたい知らない人が来るんだよ」
玲奈はカウンターの前に立った。
「昨日、私がお皿を拭いたことは、ご迷惑でしたか」
老田の手が止まる。
「向きを全部そろえた」
「それは迷惑だったという意味でしょうか」
「向き以外は、別に」
「では、私ではいけませんか」
店内が静かになった。
大和は求人紙を持ったまま振り返った。蒼真が何か言いかけ、美咲に肘で止められる。仕事帰りの美咲は、朝とは違うパンツを履いていた。
老田が玲奈を見る。
「古着屋は」
「三日以内にご連絡をいただくことになりました。たぶん、不採用です」
「たぶん、って言えるようになったんだ」
美咲が小さく笑った。
「曖昧な状態にも、少し慣れました」
「うちも三日」
「三日?」
「試用。向いてなければ終わり。古着屋に受かったら、自分で選べ」
玲奈はすぐに答えかけ、やめた。
古いカップ、狭いカウンター、行き交う注文票。昨日そろえた皿は、もう半分ほど向きがばらばらだった。
「お給料は、いくらでしょう」
「そこは聞けるんだ」玲央が言った。
「契約ですので」
老田が金額を答えると、玲奈は少し考えてうなずいた。
「三日間、お願いいたします」
「明日の朝七時」
「承知しました」
「皿の向きは適当」
「努力します」
「努力が必要なんだな」
大和が笑った。
「服は直さなくていいからね」美咲が念を押した。
「許可なく直しません」
玲央が自分のシャツの裾を見せた。
「じゃあ、これは? 朝からほつれてるんだけど」
「玲央、それ昨日、クローゼットから引っ張り出したときに破いたやつでしょ」
「知ってたの?」
「見てた」
「直してくれないの?」
玲奈はほつれを見て、それから玲央を見た。
「先に、持ち主へ確認します。直してもよろしいですか」
「お願いします」
「では、三日以内に」
「そこは曖昧にしなくていいよ!」




