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第2話 美咲の部屋、めんどくさいルール。

 翌朝六時十二分、芦屋玲奈は、包丁の音で目を覚ました。


 一定の速さで十回。短い間を置いて、また十回。料理というより、誰かが締め切りを細かく刻んでいるような音だった。


 見知らぬ天井を見上げたまま、玲奈は昨夜の契約を思い出す。


 一つ、勝手に台所を触らない。


 二つ、使ったタオルは洗面所の籠へ入れる。


 三つ、美咲が朝起きる前に消えない。


 三つ目は守った。残り二つも、まだ違反していない。


玲奈が布団との三度目の折衝に入ったところで、台所から美咲が顔を出した。


「布団と和解できそう?」


「まだ双方の主張に隔たりがあります」


「畳まなくていいよ。あとで干すから」


「それは宿泊条件をご提示いただいたときに、教えていただきたかったです」


「一晩泊めただけで利用規約を作った覚えはないんだけど。布団はそのまま。顔を洗ったら朝ごはん」


 美咲はそう言い残して台所へ戻った。


 洗面所の籠にはシャツや靴下も入っていた。玲奈は昨夜の指示どおり、使ったタオルを一番上へ置いた。


     *


 朝食は、焼いたパンと目玉焼きとサラダだった。


皿の上ではトマトの向きまで決まっている。美咲は台所の引き出しを順番に開け始めた。


「何かお探しですか。でしたら、私も――」


「玲奈さんは食べてて。仕事で使う包丁が一本ないだけだから」


「包丁がなくなることを『だけ』で処理してよいのでしょうか」


「向かいの部屋にあると思う。昨日、玲央がケーキを切るって持っていったから」


「玲央さんの部屋にも包丁はあるのでは?」


「よく切れる包丁なら、同じケーキでも断面がおいしくなると思ってるの」


「違うのですか」


「玲奈さんまで増えないで」


 そのとき、廊下の向こうで何かが倒れた。続いて空き缶の転がる音がし、男の声で「今のは床が悪い」と聞こえた。


 美咲は目玉焼きへナイフを入れながら、壁の時計を見た。


「向かい、何をしているのでしょう」


「九時に鍵交換の人が来るから、部屋を片づけてる。あの二人の片づけは、物を減らす作業じゃなくて、見える範囲から消す作業だから、たぶん今ごろ家具のどれかが犠牲になってる」


 昨夜、美咲からこの建物の説明を聞いた。二階の203号室が美咲、向かいの205号室が大和と玲央、その隣の204号室が蒼真。ひばりだけは別で、一番街の路地裏にある古い長屋の二階だという。


「小森さん。朝食のお礼に、何かお手伝いを」


「食器は置いておく。それだけ。一晩泊めたくらいで借金みたいな顔をしないで。火事か怪我か、知らない人が入ってきたら連絡して。布団の畳み方では電話しない」


 美咲は慌ただしく玄関を出た。


 三十秒後、戻ってきた。


「包丁、向かいだった」


「先ほど、そうおっしゃっていました」


「言っただけで取りに行ってなかった」


 美咲は取り戻した布ケースを洗濯機の上へ置き、片方の靴を履いたまま財布を探した。財布は冷蔵庫の上にあった。


「朝から正しいことを言わないで。正しいことは、時間がある人が言うものだから」


 美咲は財布を鞄へ放り込み、三度目こそ仕事へ向かった。洗濯機の上には、包丁の入った布ケースだけが残った。


     *


 205号室では、神崎大和が大きなゴミ袋を持ち、立花玲央が床を見つめていた。


「どこから始める?」


「お前の物を捨てる。俺の物ではない物を全部入れれば、半分は片づく」


「待って。俺の物って、どれ?」


「今着ている物以外」


床には服、台本、雑誌、空のペットボトルが重なっていた。玲央は、愛の綴りが間違った黒いシャツを拾い、その場で着た。


「これで、床の物が一個減った」


「お前の片づけは、部屋から人体へ移動させる方式なのか?」


二人は床の物を左右へ寄せ、作業員が横向きで通れる幅三十センチの道を作った。残りはすべてクローゼットへ入れる。中がどうなっているか、どちらも知らない。その点だけが希望だった。


     *


 美咲が仕事へ出たあと、203号室には玲奈と、返し方の分からない親切だけが残った。


 宿泊代を置くのも違う気がした。ならば、借りたものを元よりきれいにして返せばいい。


 台所は触らない。布団もそのまま。残っているのは洗面所だった。


 玲奈は、先ほどの籠を見た。


洗濯機の操作は説明を受けたことがある。実際に使うのは初めてだったが、迷った末に「標準」を選んだ。


 洗濯機の上には、細長く巻かれた布があった。美咲が使った台所布巾をわざわざ畳んで置いたのだと思い、玲奈は中を確かめないまま、最後にそれも洗濯槽へ加えた。


洗濯機が回り始め、玲奈は自分で何かを正しく始められた気がした。


 三分後、洗面所から、ガン、と重い音がした。


 玲奈は顔を上げた。


 ガン。ゴン。洗濯機が、内側から出してくれと訴えるように揺れている。


 停止ボタンを押し、回転が完全に止まるのを待ってから蓋を開けた。濡れた衣類の間に、ほどけかけた細長い布ケースが見えた。その隙間から、銀色の刃先がほんの少しだけ覗いている。


「ギャーーーーッ!」


 向かいの205号室でも、同じ悲鳴が二つ上がった。


「ギャーーーーッ!」


 何が起きたか知らない大和と玲央が、玲奈の悲鳴だけを根拠に廊下へ飛び出した。大和は203号室の扉へ肩からぶつかり、鍵が開いていることを確認するより先に、勢いよく押し開けた。


 バンッ!


 背後で扉が壁へ当たった音に、洗濯機の前で固まっていた玲奈の肩が跳ねた。


「ギャーーーーッ!」


 大和と玲央も、玲奈がもう一度叫んだことに驚いた。


「ギャーーーーッ!」


「ギャーーーーッ!」


 三人は洗面所の入口で向かい合い、互いの悲鳴を燃料に叫び続けた。


 先に息が切れたのは大和だった。


「待て、待て、いったん全員やめよう。俺たちはいま、何を見て叫んでる?」


「俺は玲奈ちゃんを見て。大和は?」


「お前と玲奈さんだよ。つまり、現時点で事件を見た人間が一人しかいない」


 二人の視線を受け、玲奈は震える指で洗濯機を示した。


「な、な、中に、包丁が……」


 玲央が洗濯機を覗き込み、息をのんだ。


「美咲のだ。よかった、見つかって」


「見つかり方が最悪だろ。触るな。まずコンセントを抜く。玲央、お前は何もしなくていい。何か役割が欲しければ、廊下で静かにしてろ」


「一番難しい役割を振られた」


大和がコンセントを抜き、ゴム手袋で布ケースを持ち上げた。布地は切れ、刃先が覗いていた。


「小森さん、お仕事で使うと……私が、お電話を……」


「落ち着いてからにしよう。今かけると、第一声が悲鳴になる」


包丁を洗面台の奥へ避難させ、大和は洗濯機の中を確かめた。


「刃物はもうない。洗濯は続けていい。玲央が何か入れようとしたら、叫ぶ前に止めて」


「俺、包丁より危険なの?」


二人が戻ったあと、玲奈は終了音まで洗濯機から目をそらさなかった。だが、中からシャツ、タオル、靴下、それに男性用トランクスが出てきた。玲奈はトランクスを両手で持った。美咲の物ではない。おそらく向かいの二人の物だ。黒く硬そうな服は大和。明るい服は玲央。白く形の整った服は美咲。玲奈は迷いなく三つに分けた。他人の服も洗濯機も、部屋をまたぐことを彼女はまだ知らなかった。


     *


 午前八時半、205号室の床が現れた。


 床の物はすべてクローゼットへ移った。扉は膨らんでいたが、大和は見なかったことにした。


「完璧だな。問題を解決した人間の部屋に見える」


「美咲に見せたいな。褒めてもらえるかもしれない」


「褒められたいなら、知らない人を呼べ」


 インターホンが鳴った。


「来た」


「早くない?」


「知らない人だ。褒めてもらえ」


 玲央が扉を開けると、洗濯物を積んだ籠の向こうから玲奈が顔を出した。


「お届け物です。お二人の衣類が、小森さんの洗濯物へ混ざっていましたので」


 玲奈は部屋を覗き、素直に目を見開いた。


「とてもきれいですね」


 玲央が大和の肩をつかんだ。


「聞いた? 俺たち、初めてこの部屋で肯定された」


「見える範囲だけな」


 玲奈はテーブルへ衣類を並べた。


「外見から、大和さん、玲央さん、小森さんに分けました。ご確認ください」


 大和は自分の山から、あの黒いシャツを持ち上げた。


「これは玲央。黒いだけで俺に入れた?」


「黒く、少し意地の悪そうでしたので」


「服に性格が出てるなら玲央の物で合ってる。本人だけが明るいふりをしている」


分類はすぐに崩れた。大和の靴下は玲央の山、玲央の部屋着は美咲の山。持ち主不明のトランクスには二人が同時に首を振った。


「俺じゃない」


「俺でもない」


「大和、それ蒼真のじゃない? 前に風呂借りに来たとき――」


「玲央さん、本人のいないところで決めるのは、さすがに雑すぎる」


 玲奈の口から、考えるより先に言葉が出た。


「……申し訳ありません。『雑すぎます』です」


「戻さなくていいよ」玲央は笑った。「今のほうが、ちゃんと叱られた感じがした」


「喜ぶところではありません」


「そこは戻るんだ」


籠の底では、大和のネクタイが小さな布になっていた。


「俺が九割悪い。残り一割は、美咲の籠の立地」


「籠に責任を分けないでください」


 廊下で鍵が鳴った。


 玲央が顔を上げる。


「美咲だ。包丁、持たずにまた出たんじゃない?」


 玲奈は青ざめた。


「勝手に洗濯したことを、まだお伝えしていません」


「まず証拠を隠そう。美咲は証拠から正解へ着く」


「隠すんですか?」


「一時的に視界から移すだけだ」


「大和、それ昨日、鍵をなくしたときも言ってた」


 三人は、ゆっくりクローゼットを見た。


     *


 美咲が203号室へ戻ると、洗濯機の蓋が開いていた。


 籠は空。ベランダにも何もない。玲奈の姿もない。


 向かいの205号室から、何かを押し込む音がした。


 美咲は廊下を渡り、扉を二度ノックした。一秒で大和が出てくる。


「おはよう。早かったな。忘れ物なら、俺が預かって――」


「どいて」


「いま最終準備中で、作業導線に人が増えると安全管理上――」


「長く喋るときの大和は、だいたい私に見られたくないものがある。どいて」


大和の肩越しに床が見え、美咲は怒ることを忘れた。


「……何したの?」


奥で玲央が笑顔を作り、玲奈は面接のように背筋を伸ばしていた。


「小森さん。勝手に洗濯しました。皆さんの衣類を分類して間違え、大和さんのネクタイは、現在、布です」


「大和のネクタイは大和が悪い。玲央、あんたは?」


「洗濯機、借りた。うちの、また途中で止まるから。美咲は寝てたし、起こしたら悪いと思って、静かに借りて、ちゃんとメモも書いた」


「どこに?」


 玲央はポケットを探り、折れた紙を出した。


『洗濯機かります。あとケーキおいしかった』


「書いたあと、自分で持って帰ってるじゃない。入ったことを伝えるためのメモでしょ!」


「だから、そんなに大きな声を出さなくても分かるって」


「分かってないから言ってるの!」


 玲奈の二度目のタメ口は、最初より自然だった。


玲央はなぜか誇らしそうに大和を見た。


「俺、今日二回も敬語を外させた」


「人との距離を縮めたみたいに言うな。お前の理解力が、礼儀より先に限界へ達しただけだ」


「勝手に洗濯したのは困る。でも、どうしてほしいか話さなかった私も悪かった」


「では、私は何をすればよかったのでしょう」


「聞く。急ぎじゃなければ待つ。親切は、その日のうちに同じ重さで返さなくていいの」


「何も返さない人には、なりたくありません」


「じゃあ、一個ずつ返して。今日の夕方、ロンドで一時間だけ手伝う。老田さんには私から聞く。それで一個」


「それも、ルールですか」


「今作った」


「分かりました。守ります」


 大和が横から口を挟んだ。


「美咲、その言い方だと、玲奈さんは皿を何枚拭けば一泊分か計算し始めるぞ」


「大和は黙って、クローゼットを開けて」


「なぜ」


「洗濯物、そこへ隠したでしょ」


「根拠は?」


「大和だから」


 美咲が扉を開けた。


詰め込まれた服や雑誌が、数秒だけ形を保った。


 最初に落ちてきたのは、男性用トランクスだった。


 美咲の肩に載った。


「俺じゃない」


 大和と玲央が同時に言った。


その直後、残りが雪崩になった。美咲は洗面所から包丁を回収し、「帰るまでに床を返して」と言い残して、職場へ戻った。*正午を過ぎても、205号室の床は戻ってこなかった。インターホンが鳴り、三人は一斉にクローゼットを押さえた。


「私。開けないと廊下で歌うよ」


扉の向こうにいたのは、ギターを背負ったひばりだった。


「美咲から、玲奈が包丁を洗ったから様子を見てきてって。意味が分からなくて、急いで来た」


「意味が分からないまま来られるの、ひばりくらいだよ」玲央が言った。


ひばりは服の山をまたぎ、洗面所に避難させた包丁ケースを見た。


「なるほど。部屋は服に襲われて、包丁は洗われたんだ。留守番というより、事件の飼育だね」


美咲からは電話で「今日は絶対に台所を使わないで」と念を押されている。料理どころか、四人が座る場所もない。大和は近所の「カレー屋マガリカド」へ電話した。注文は、大和のチキンカレー辛口、玲央のチーズハンバーグカレー、玲奈の野菜カレー甘口、ひばりのほうれん草カレー激辛。ラッシーも四本付けた。


「注文者のお名前は、神崎様でよろしいですか」


「小森で」


通話を終えた大和へ、玲奈が尋ねた。


「どうして美咲さんのお名前を使ったのですか」


「神崎でカレー四つだと、俺が一人で食べるみたいだろ。小森はいま職場だから傷つかない」


「不在なら何をしてもいい、は悪い人の理屈だよ。私は好きだけど」ひばりが言った。


「最後の一言で注意を台無しにするな」


二十分後、203号室のインターホンが二度鳴った。向かいの205号室から四人が順番に顔を出す。全員の肩や頭に衣類が載っていた。配達員は四人と203号室の表札を見比べた。


「小森様は……」


「職場です」と玲奈が正直に答えた。


配達員が紙袋を胸へ引き寄せる。


「注文したのは俺です。名前は小森、食べるのはこの四人」


「小森は遠くから見守ってる感じ」ひばりが補足した。


「職場にいるだけだろ」


配達員は一歩下がった。


「注文した神崎様が、不在の小森様のお名前を使った、と?」


「まとめると怪しいな」


「分けても怪しいよ」


そのとき、玲奈の抱えていた洗濯籠から、布製の包丁ケースが滑り落ちた。配達員が、さらに一歩下がる。


「待ってください。これは洗濯しただけです」


「包丁を?」


「私が」


「玲奈ちゃん、事実を短くすると自白になるよ」ひばりが忠告した。


配達員は紙袋を大和へ差し出した。


「カレー四点とラッシー四本です。ご確認ください」


「ずいぶん急に渡したな」


「配達を完了したいので」


配達員は受領を確認すると、振り返らずに階段を下りていった。ひばりが、その背中へ手を振った。


「感じのいい人だったね。最後だけ、命が助かった顔をしてた」


「それを感じがいいとは言わない」


四人は服の山へ戻った。玲央が紙袋から、ラベルのない容器を四つ取り出した。


「食べれば分かる」ひばりが言った。


「激辛を頼んだ人が言うな」鍵交換の担当者が幅三十センチの道を横向きで進む間、大和は玲央をカレーの番にした。


     *


 夕方、玲奈が喫茶ロンドへ行くと、蒼真はカウンターで本を読み、ひばりはソファに寝転がって、ギターの弦を一本ずつ鳴らしていた。


「今日から働くんだって?」ひばりが言った。「昨日はお姫様で、今日は皿の人。下北沢は身分が変わるの早いね」


「一時間だけ、お手伝いをします」


 蒼真が本から顔を上げた。


「一時間でも、雇用なのか好意への返礼なのかは確認すべきです。労働で宿泊費を返す形にすると、玲奈さんが今後も休めなくなる可能性が――」


「蒼真さん。そのご説明は、どのくらい続きますか」


「要点だけなら、あと三分ほどです」


「では、先に一枚拭きます」


老田は洗い終えた皿と布巾を玲奈の前へ置いた。


「拭いて、棚へ戻す」


「向きや間隔に決まりはありますか」


「ない」


「では、『適当』でよいということでしょうか」


 老田は少し考え、美咲を見た。


「面倒なの連れてきたな」


「昨日より育ってます。今日、玲央に二回タメ口を使いました」


「玲央が育てたの? 危ない植物になりそう」ひばりが言った。


一時間後、玲奈が拭いた店のカップはすべて右を向いていた。老田が一つを反対へ向け、玲奈が戻す。同じ攻防がもう一度続いた。


 三度目、老田が手を伸ばしたところで、玲奈はカップを押さえた。


「それ、わざとですよね?」


 店内が静かになった。


 玲奈は自分の言葉を聞き直した。老田にまで敬語が外れている。


 老田はカップから手を離し、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「三回目」


 美咲が壁の時計を見た。


「玲奈さん。一時間終わり。今日返す親切は、ここまで」


 玲奈は布巾を畳んだ。まだ借りたもののほうが多い気はした。それでも、今度はすぐに別の仕事を探さなかった。


「小森さん。今夜のことですが」


「美咲でいいよ」


 玲奈は一度だけ息を整えた。


「……美咲さん。もう一晩、泊めていただけますか」


「条件が一個増えるけど、それでもいい?」


「伺います」


「勝手に洗濯しない」


 玲奈はうなずいた。


 入口のベルが鳴り、遅れてきた玲央が大きな紙袋を掲げた。


「洗濯機、直った! 修理の人が、コンセント抜けてるだけだって!」


「それを直ったって言うな!」


 玲奈のタメ口は、もう誰も数えなかった。

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