第11話 代役の代役が来ない。
立花玲央が劇団ミナモの初稽古へ持っていこうとしていたものは、台本、筆記用具、室内履き、それに二日分のおにぎりだった。稽古は一日しかないのだから、食料だけが予定より一日先へ進んでいる。
「足りないより、余るほうがいいだろ」
朝七時の205号室で、玲央は四個目のおにぎりを膨らんだ鞄へ押し込み、ファスナーを両手で引いた。昨夜まで床に散っていた台本や服は壁際へ寄せられ、玄関まで一本の細い通路ができている。初稽古へ向かう本人のためというより、忘れ物を取りに戻ったとき転ばないために大和が空けた道だった。
ソファでネクタイを結んでいた神崎大和は、「おにぎりは余ってもいい。自信が余ると迷惑なんだよ」と言い、玲央の鞄を指で押した。押し返すように海苔の角が布越しに浮き上がる。
「今日は見る側だから。代役候補は、誰かが休まないと出番ないし」
「安心した」
「でも、全員休んだら全部できる」
「安心を返せ」
鏡の前へ移った玲央は、寝癖の残る前髪を水で押さえながら、最初の挨拶を二案披露した。一つは「立花玲央です。何でもやります」。もう一つは「立花玲央です。どの役でも生きられます」。本人は後者を気に入っていたが、大和は迷わず前者を選んだ。
「前者のほうが荷物を運んでくれそう」
「俺、俳優として呼ばれてるんだけど」
「代役候補としてな。今日のお前に必要なのは、役を奪う顔じゃなくて、呼ばれたらすぐ立てる顔」
玲央は、その言葉の前半だけを都合よく受け取って鞄を肩へ掛けた。「帰ってきたら、“主要役の代役に決まった”って言うから」と宣言すると、大和は結び終えたネクタイをわずかに緩めた。
「初日から誰か倒すなよ」
「俺は待つだけ」
「待ってる顔が一番怖い」
*
劇団ミナモの稽古場は、東北沢駅から鎌倉通りを越えた先にある架空の多目的スタジオだった。玲央は早く着きすぎたため、一度建物の前を通り過ぎ、角の自動販売機まで歩いてから戻った。遅刻は論外だが、誰より早く来て入口で待つのも、必死さを見抜かれるようで恥ずかしい。そうして三分を潰して戻ると、劇団員たちはすでに平台を運び始めていた。
地上一階が倉庫で、稽古場は地下にある。建物脇の外階段は、人がすれ違えないほど狭く、踊り場で直角に折れていた。大道具を下ろすには、一人が下で重さを受け、もう一人が上から角度を変えなければ壁へぶつかる。俳優らしい挨拶をする余地より、手を差し入れる隙間のほうが少ない場所だった。
「おはようございます。代役候補の立花玲央です。どの役でも――」
「そこ持って」
制作の女性が平台の端を指した。
「はい」
挨拶は七文字で終わった。一時間後、玲央は平台四枚、折り畳み机二台、箱馬六個を地下へ運び終え、白い稽古着の背中には早くも汗が広がっていた。鏡の前で整えた髪も、二枚目の平台を下ろしたところで額へ貼りついている。
演出の国分寺宗一は、その間ずっと床へテープを貼り、実際には存在しない壁や扉を作っていた。玲央の目には、何もない床から舞台を立ち上げる作業に見えたが、呼ばれて期待するたび、渡されるのは役ではなく箱だった。
「立花」
「はい」
玲央は背筋を伸ばした。
「その箱、奥」
「はい」
午前九時、出演者が円になった。玲央は誰かの場所を奪わないよう一番外側へ座ったものの、そこが代役候補の定位置であるようにも思え、半歩だけ内側へにじり寄った。
国分寺が出席を確認する。
「西尾は?」
返事がない。
制作の女性が電話を見た。
「朝から熱が出たそうです。今日は休みます」
玲央は、反応が早すぎないよう一拍だけ待ってから顔を上げた。西尾は主要人物の一人である兄役で、台詞も出番も多い。募集時に渡された抜粋台本には兄の場面が含まれており、玲央は頼まれてもいないのに全行を覚えていた。
国分寺が稽古場を見回す。
「立花、兄役に入って」
「はい」
返事が大きすぎて、低い天井と剥き出しの壁へ跳ね返った。
「声は本番で使え」
「はい」
今度は小さすぎた。
「普通でいい」
玲央は台本を開いた。まだ一行も演じておらず、今日だけ空いた椅子へ座るよう命じられただけなのに、頭の中では大和へ送る報告が半分ほど完成していた。
*
同じ朝、喫茶ロンドでは、雨宮ひばりがテーブルを指で叩いていた。
一定の間隔で三回。少し空けて二回。
向かいに座った桐生蒼真が、本から顔を上げる。
「さっきから同じリズムだね」
「今日、夕方から歌う曲」
「五音しかないけど」
「今は机の担当だから」
ひばりはもう一度叩いた。
芦屋玲奈が水を運んできた。
「店内の備品を楽器として使用される場合は、傷がつかない程度にお願いいたします」
「昨日より敬語が戻ったね」
「勤務中ですので」
「昨日は勤務中に玲央を追い出してた」
「必要な対応でした」
「今日は追い出す人いる?」
「今のところ、いません」
ひばりはテーブルを二回叩いた。
「それ以上は、やめて」
玲奈は言ってから、トレイを持ち直した。
「……ください」
「今、短いほうが分かりやすかった」
「机にも分かりやすかったと思います」
玲奈は濡れ布巾を置いた。
「こちらを下に敷いてください」
「追い出されなかった」
「二度目はありません」
「どっちの喋り方?」
「今は決めません」
玲奈はカウンターへ戻った。
ひばりが布巾の上を叩く。音は小さくなった。
「曲も遠くなった」
「机は近くなったよ」
蒼真は本へ視線を戻した。
*
稽古場では、兄役を入れた読み合わせが始まっていた。兄が十年ぶりに実家へ戻り、食卓で妹と向き合う場面。台本には『兄、椅子へ座らず、背に手を置く』とある。玲央はその一文を何度も読んでいたせいで、椅子へ近づく足取りまで決めていた。座りたいが座れないのではなく、座ればここが自分の家だと認めることになるから立っている――そこまで考えて手を置いた。
「変わってないな、この家は」
声を普段より低くし、最後の音まで息を残した。国分寺が止めなかったので、それを肯定だと受け取り、玲央はわずかに顎を引いて次の台詞へ進んだ。
「お前も、変わってない」
「止めて」
国分寺が言った。
玲央は台本を下ろした。
「作りすぎ。昨日までこの家にいたみたいに喋って」
「十年ぶりに帰った役ですが」
「役は十年ぶり。俳優は昨日までいたつもりで」
「はい」
分かったような、分からないような指示だった。十年ぶりに帰った人間を、昨日までそこにいた俳優が演じる。玲央は頭の中で言葉を並べ替え、意味をつかむより先に、つかんだ顔をしてもう一度読んだ。
「変わってないな、この家は」
「今度は普通すぎる」
「昨日までいた感じで」
「昨日までいた人も、何か考えて喋るだろ」
「はい」
三度目は、正解を作ろうとするのを諦め、妹役の顔だけを見て読んだ。今度は止められない。ようやく役の中へ片足が入った気がしたまま場面の半分まで進んだところで、制作の女性が国分寺へ耳打ちした。
「午後から、弟役の森下が仕事で抜けます」
「何時に戻る」
「今日は戻れないそうです」
国分寺は配役表を見た。
「立花が兄へ入ってるから、弟を読む人がいないな」
玲央は手を挙げた。
「両方できます」
「兄と弟が会話する場面がある」
「位置を変えます」
「客席が首を振る芝居になる」
劇団員が笑った。玲央も口元だけを動かしたが、頭の中ではすでに、兄から弟へ移るとき右を向くか左を向くかを考えていた。
「午後だけなら、知り合いを呼べます」
言ったあとで、玲央は知り合いの顔を探した。俳優仲間はいる。しかし平日の昼に東北沢近くまで来られる者は少なく、経験があり、初見の台本を読めて、急な頼みを聞いてくれる者となると、思い浮かぶ顔は一人ずつ仕事や稽古の予定とともに消えていった。
国分寺が聞いた。
「経験は?」
「あります」
玲央は答えた。何の経験かは聞かれなかったため、自分から狭める必要はないと、その場では思った。
「二時までに来られるなら頼んで。来なければ立花が二役」
「はい」
休憩へ入るなり玲央は外階段を駆け上がった。地下では電波が弱く、地上へ出るまでにスマートフォンのアンテナが一本ずつ増えていくのを、配役が埋まる兆候のように見つめた。
*
最初の三人には断られた。一人は仕事中で、一人は別の稽古へ向かう途中。三人目は玲央の電話だと分かった瞬間、「金の話ならない」と言って切った。
「金じゃないのに」
玲央は通話の切れた画面へ言った。
四人目は電話に出ず、五人目は番号が変わっていた。午後一時まで、あと一時間半。画面を上から見直していくうち、俳優の名前が尽きたところで雨宮ひばりに行き着いた。
俳優ではないが、人前には出る。台詞は字で書かれている。何より、急な頼みを内容まで聞く前に引き受ける可能性が、玲央の知人の中では最も高かった。必要な条件を一つずつ削っていけば、最後には適任者に見えなくもない。
玲央は電話をかけた。
「ひばり、今日、何時から暇?」
「何時までが今日?」
「今から二時まで」
「それは今日だね」
「台本、読める?」
「字なら」
「演技経験、あるよな」
「あるよ」
短い返事を都合のよい意味に限定し、玲央は空いた手を握った。
「東北沢の近くまで来て。男の役だけど、読み合わせだから大丈夫」
「何を持っていく?」
「何もいらない。声だけ」
「じゃあ、軽いね」
電話が切れると、玲央は指が迷い始める前に国分寺へメッセージを送った。
『舞台経験のある者を確保しました。二時までに来ます』
嘘ではない。路上という舞台に立っている――ただし、そう説明すれば止められる程度には、意味の幅を使っていた。
*
「舞台経験がある、とおっしゃったのですか」
ロンドで事情を聞いた玲奈は、眉を寄せた。
ひばりはギターケースを閉じている。
「私はあるって答えたよ」
「路上のことですよね」
「路上も舞台になる」
蒼真が眼鏡を押し上げた。
「広義にはそうだけど、相手が想定した意味とは違うと思う」
「玲央はいつも、広いほうで聞くよ」
「狭く聞くと断られるからだよ」
大和が店へ入ってきた。昼休みらしく、ネクタイは締めたままだった。
「今、玲央から“代役の代役を見つけた”って来た。嫌な予感がして見に来たら、もういた」
「私」
ひばりが手を挙げる。
「嫌な予感に返事をするな」
大和は事情を聞き、スマートフォンを出した。
「玲央に電話する」
「稽古中は出ないよ」
「出るまでかける」
「それ、仕事ではやらないほうがいいですよ」
玲奈が言った。
「私生活だからやってる」
電話は留守番電話へつながった。
大和は切った。
「ひばり。読み合わせって、台本をそのまま読むんだ。歌わない。言葉を足さない。急に外へ出ない」
「最後だけ、私だから?」
「全部お前だから」
「分かった」
「何が分かったか言って」
「台本を読んで、歌わないで、中にいる」
「ぎりぎりだな」
玲奈は紙袋へ、おにぎりを二つ入れた。
「玲央さんは二日分お持ちですが、ひばりさんの分はないと思います」
「玲奈も来る?」
「私は勤務中です」
「じゃあ、大和」
「俺も勤務中」
「蒼真」
「午後に講義がある」
ひばりは三人を見た。
「みんな、昼なのに働いてる」
「平日だからね」
「玲央も働いてる?」
大和は少し考えた。
「今日のところは、平台を運んでる」
*
ひばりは午後一時四十分に着いた。鎌倉通りの方角から、花を編み込んだ髪を揺らし、舞台を見に来た客のような足取りで歩いてくる。玲央は外階段の上で何度も時刻を確認しており、その姿を見つけた瞬間だけは、彼女が俳優ではないという事実より、時間どおり来たことのほうが大きく見えた。
「よかった。ほんとに来た」
「来るって言ったよ」
「来るって言った人が来ない場所なんだよ、稽古場は」
「不思議だね」
「普通に読めばいいから。演技しなくていい」
「経験者なのに?」
「どの経験かは言わないで」
「去年、商店街の抽選会で迷子のお母さんを演じた話?」
「それは初耳だけど、もっと言わないで」
玲央は、これ以上新しい経験談が出てくる前にひばりを地下へ連れていき、国分寺の前へ立たせた。
「雨宮ひばりさんです。舞台に立って歌っています」
「歌手?」
「主に」
「演技は?」
「できます」
ひばりが答えた。
玲央は横で、国分寺から見えない角度を選んで小さく首を振った。
「たぶん」
ひばりが付け加えた。
国分寺は時計を見た。
「今日は読むだけだから。弟役、三場から」
台本を渡され、ひばりは床へ座った。
「椅子、あるよ」
玲央が言う。
「床のほうが声が近い」
「何に?」
「床に」
国分寺が手を叩いた。
「始めるよ」
*
最初の五分は、玲央が呼んだことを誇りたくなるほど問題がなかった。ひばりは台本を正確に読み、路上で通行人の足を止めてきただけあって声量も足りている。玲央が兄役として向き合うと、普段の会話より目線が定まり、こちらの言葉が終わるまで待って返してきた。
「兄さんは、帰ってきたんじゃない。逃げてきたんだ」
ひばりの弟役は、静かだった。
玲央は台詞を返した。
「どちらでも同じだ。ここにいる」
国分寺が言った。
「続けて」
玲央は、胸の奥にあった警戒を少し緩めた。自分の読みは止められず、連れてきた人間も使えている。初日に主要役へ入り、別の欠員まで埋めたとなれば、大和へ送る報告はもう完成したも同然だった。
問題は、その報告の文面を頭の中で推敲し始めた六分目に起きた。
台本には、『遠くで祭り囃子。弟、窓の外を見る』と書かれていた。
ひばりが口で祭り囃子を始めた。
「てん、てけ、てん、てん」
玲央が小声で止める。
「ひばり、それト書き」
「音がないから」
「今はいらない」
国分寺がすぐには止めなかったため、音響担当の肩が小さく揺れた。ひばりは窓の外を見る代わりに、窓のない稽古場の壁をまっすぐ見つめ、台詞の前へ鼻歌を一音だけ置いた。
「兄さん」
台詞の前に、鼻歌が一音入った。
「歌わないで」
玲央が囁く。
「台詞だよ」
「今の“ん”は台本にない」
「呼吸」
「音程があった」
「止めて」
国分寺が言った。
玲央は背筋を伸ばした。
「すみません」
「雨宮さん、面白いけど、音は足さないで。立花、相手を気にしすぎ。兄役から玲央に戻ってる」
「はい」
再開すると、次はひばりが台詞を一行飛ばした。玲央は流れを切るまいとして飛ばされた先へ合わせたが、ひばりは数秒後、自分が置き去りにした一行を見つけて律儀に戻った。玲央も反射的についていったため、二人の会話は前へ進んだあと、三十秒ぶんだけ過去へ逆流した。
「止めて」
国分寺が額を押さえた。
「立花、合わせなくていい。間違えたら止める」
「流れを切らないほうがいいかと」
「流れが逆流した」
劇団員がまた笑った。最初の笑いは自分たちの場面に起きたものだと思えたが、今度は明らかに稽古を止めた二人へ向けられており、玲央だけは口元を動かせなかった。
*
休憩中、玲央はひばりを外階段へ連れ出した。
「頼むから、台本どおり読んで」
「読んでるよ」
「音を足さない。戻らない。床と話さない」
「床とは話してない」
「最初に声を近づけてた」
「近づけただけ」
ひばりは紙袋からおにぎりを出した。
「玲奈から。半分食べる?」
「俺、四つある」
「二日分?」
「なんで知ってるの」
「玲奈が言ってた」
玲央は、朝から何度も大道具を通した階段へ腰を下ろした。コンクリートの冷たさが、汗をかいた稽古着越しに伝わる。
「もっと簡単だと思ったんだよ。読むだけだから」
「私は簡単だよ」
「俺が簡単じゃない」
「兄と玲央を両方やるから?」
「俺は玲央をやってない」
「さっき、やってたよ」
ひばりはおにぎりを一口食べた。
「私が間違えるたび、こっち見てた」
「連れてきたの、俺だから」
「じゃあ、玲央だった」
玲央は返事をしなかった。兄役を演じているつもりの最中に、ひばりの一言や動きを気にするたび、役より先に責任者の顔が出ていた。認めれば、国分寺に指摘されたことまで正しくなってしまう。
地下から平台を引きずる音が上がってきて、重い振動が階段へ伝わった。
制作の女性が階段の下から呼ぶ。
「立花さん、場面転換を確認するから、箱馬お願い」
「今、休憩じゃ」
「転換班は今しか確認できないの」
「はい」
玲央は立ち上がった。
ひばりも続こうとした。
「ひばりは食べてて」
「運べるよ」
「役の人は運ばなくていい」
「玲央も役の人でしょ」
玲央は答えず、地下へ戻った。
*
午後の通し稽古は、兄と弟が会話する場面までは何とか進んだ。次に二人が平台を動かす。ただし役としてではなく、暗転中の場面転換として、食卓に見立てた平台を舞台奥へ運ぶ作業である。玲央は午前中の搬入後に動線を確認していたが、ひばりへは台詞の注意ばかりして、転換表の存在さえ説明していなかった。
「暗転。転換」
国分寺の声で、玲央は平台の右側を持った。
左側にいるはずの森下はいない。代わりに入ったひばりは、台本の場面転換表を見ないまま、舞台中央の弟役の位置に立っていた。
「ひばり、こっち」
「台詞、ないよ」
「平台」
「私も運ぶの?」
「今だけ」
ひばりが左側を持った。
二人は平台を持ち上げた。
「奥」
「どっちから見て?」
「客席から」
「客席、どこ?」
「玲央、止めて」
国分寺が照明をつけた。
照明がつくと、平台は舞台中央で斜めになり、上に置かれていた椅子が脚から滑って床へ落ちた。乾いた大きな音が低い天井にぶつかり、地下の全員が動きを止めた。誰も怪我はしていない。それでも、朝から何人もの手でつないできた通し稽古は、玲央が連れてきた一人と、説明しなかった玲央自身によって完全に止まった。
玲央は平台を下ろした。
「すみません。俺が動線を説明してませんでした」
国分寺はひばりを見た。
「雨宮さん、舞台経験は?」
「路上で歌っています」
「芝居は」
「商店街で迷子のお母さんを」
「ひばり」
玲央が止めた。
国分寺は玲央へ視線を戻した。
「経験があるって言ったよね」
「俺が、舞台に立つ経験はあると言いました」
「どういう意味で?」
「広い意味で」
「今、狭い地下で稽古してるんだ」
玲央は何も返せなかった。朝なら笑って返せた皮肉も、今は業務上の確認にしか聞こえない。
国分寺は椅子を起こした。
「雨宮さん、今日はありがとう。ここまでで大丈夫です」
「はい」
ひばりは台本を返した。
「立花。弟も読んで」
「二役ですか」
「位置は変えなくていい。声も作らなくていい。台詞を落とさず、転換もやる」
主要役を演じて自分を見せる時間は、そこで終わった。残ったのは、欠けた台詞と欠けた手を埋め、これ以上稽古を止めない仕事だった。
「分かりました」
「普通に返事して」
「はい」
玲央は兄役の立ち位置へ戻った。午前中と同じテープの内側なのに、立っている場所の高さだけが変わったように感じられた。
*
残りの稽古で、玲央は兄と弟を一人で読んだ。声色を変えるなと言われたので、弟の台詞には鉛筆で丸をつけ、兄の台詞には線を引き、目印だけで役を渡り歩いた。自分で問いかけ、自分で答えるたび、誰かが笑いそうになったが、国分寺は拾わず先へ進めた。
場面転換に入ると、玲央は台本を床の決まった場所へ伏せ、平台を奥まで運び、暗転が明ける前に立ち位置へ戻った。息が整わないまま次の台詞を読むと、作っていた低い声は出せなくなり、結果として国分寺が求めた普通の兄に近づいた。本人が用意した見せ場は薄くなる一方で、稽古は不思議なほど止まらなくなった。
最後の場面まで終えると、国分寺は台本を閉じた。
「今日はここまで。西尾が戻れば、立花は元の位置へ戻って」
「はい」
「森下が次も抜けるなら、弟を頼む」
「はい」
主役の代役に決まったとは言えず、二役をやり切ったと言えば大げさになる。報告に使えそうな言葉が見つからないまま、玲央は床のテープを剥がし、箱馬を重ねた。劇団員が帰ったあとも制作の女性と一緒に平台を階段の上へ運び、最後の一枚が壁に当たりそうになると、自分の肩をクッション代わりに差し入れた。
「そこ、気をつけて」
上から国分寺が言った。
「はい」
今度の返事は、意識しなくても普通の大きさになった。
*
ひばりは先にロンドへ戻り、革のひび割れたソファでプリンを食べていた。稽古を途中で帰された人間には見えないくつろぎ方で、スプーンの先に残ったカラメルまで眺めている。
「お疲れさまでした」
玲奈が水を置いた。
「途中で帰された」
「玲央さんは?」
「兄と弟になった」
「増えたのですか」
「増えたけど、たぶん下がった」
蒼真が本から顔を上げた。
「役が増えて立場が下がるのは、矛盾しているようで、代役ならあり得るね」
「説明すると長くなる方ですか」
玲奈が聞いた。
「もう分類はやめたんじゃなかった?」
「確認しただけです」
美咲が仕事を終えて入ってきた。
「ひばり、芝居できた?」
「椅子を落とした」
「できてないね」
「歌は止められた」
「歌ったんだ」
入口の戸が開き、玲央が大きな空の鞄を肩へ掛けて立っていた。二日分のおにぎりは、休憩中に稽古場の全員へ配ってなくなり、代わりに剥がしたテープの切れ端が稽古着の膝へ何本も付いている。
「お疲れ」
大和がソファから言う。
「主要役の代役に決まった?」
朝の言葉を、そのまま返された。玲央は大和の顔を見ず、軽くなった鞄を床へ置いた。
「午前中は兄役。午後は兄と弟。最後は平台」
「人間から物になった」
「平台役じゃない。運んだんだよ」
「分かってる。悪い意味で順調だな」
玲央は、ひばりに詰めてもらってソファの端へ座った。立ち続けていた脚が、座った途端に重くなる。
「西尾さんが戻ったら、兄役は終わり。森下さんが来たら、弟役も終わり」
「全員来たら?」
美咲が聞く。
「転換と、台詞が飛んだときの読み」
「募集どおりだね」
「そうなんだよ」
玲央は低い天井を見上げた。稽古場の天井より少し高いだけなのに、ここでは誰の立ち位置を邪魔する心配もない。
「募集どおりなのに、こんなに下だと思わなかった」
「上だと思ってたの?」
ひばりが聞く。
「少なくとも、床よりは」
「床、声に近いよ」
「それ、今日ずっと分からなかった」
玲奈が厨房から、ナポリタンを運んできた。
「ご注文はまだですが、召し上がりますよね」
「俺の“いつもの”覚えた?」
「今日は、これです」
「決めてくれた」
「二日分のおにぎりを配った方へ、プリンは出しません」
「なんで配ったの知ってるの?」
「ひばりさんが戻る途中で、劇団の方から一ついただいたそうです」
ひばりが手を挙げた。
「鮭だった」
「俺の一番いいやつ」
「返す?」
「もう食べただろ」
「じゃあ、返せない」
玲奈は皿を置いた。
「次から、人を呼ぶ前に経験を確認してください」
「ひばりが“ある”って」
「あなたが聞き方を広くしたのでしょう」
玲奈の敬語が、最後の一音だけ消えた。玲央は疲れて下がっていた顔をすぐに上げた。
「今、“でしょう”じゃなくて“でしょ”って」
「言っていません」
「言ったよな?」
「言った」
大和とひばりが同時に答えた。
「聞こえませんでした」
「本人だけ聞こえてない」
「食べないなら、ナポリタンを下げます」
「食べる。すぐ食べる」
玲央はフォークを取った。
*
夜、205号室へ戻った玲央は、朝まで何もなかった台本へ付箋を貼っていた。兄役は青、弟役は黄色、場面転換は赤。ページの側面から三色が不揃いに飛び出し、どの役でも生きられる俳優の台本というより、誰が休んでも迷子にならないための作業表になっている。
風呂上がりの大和は、濡れた髪をタオルで拭きながらテーブルの前で止まった。
「信号機みたいだな」
「明日、誰が来なくても分かるようにする」
「全員来たら?」
「赤だけ」
「止まれって色だぞ」
「運べって意味」
玲央は、赤い付箋が最も多い台本を閉じた。
「あと、ひばりの代役も探しとく」
「ひばりは今日だけだろ」
「また誰か休んだら必要になる」
「誰を呼ぶんだよ」
玲央が連絡先を開くと、最近使った相手の一番上に大和の名前があった。
「お前、台本読める?」
「字ならな」
玲央は電話を伏せた。
「その答え、今日聞いた」
(第12話につづく)




