↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/12

第12話 ほどいた糸は戻らない。

 喫茶ロンドの三人掛けソファには、座る場所によって服を傷める危険がある。


 右端は革のひびが深く、中央は沈みすぎる。そして左端には、その朝まで誰も気づかなかった小さな釘が出ていた。


 岸本志津江が立ち上がったとき、焦げ茶色のコートの裾で、布が裂ける短い音がした。


「今、何か言った?」


 七十代半ばの岸本は振り返ったが、ソファは何も答えない。代わりに、トレイを持って近くを通った芦屋玲奈が足を止めた。


「そのまま動かないでください」


「そんなに大変?」


「確認するまで、まだ決められません」


 玲奈はコートの裾を釘から外した。表地は三センチほど裂け、裏地の縫い目も引かれている。岸本は「帰って縫うから平気」と笑ったものの、裂け目を指でつまむ玲奈の顔は、注文を間違えたときより険しかった。


「針と糸をお借りできますか」


 カウンターの中から老田が裁縫箱を出した。蓋には、何年前のものか分からない菓子会社の絵が残っている。


「ボタンなら付けられる。服は知らん」


「十分です。岸本さん、十五分ほどお時間をいただけますか」


「コーヒー一杯ぶんで直るなら」


 玲奈は窓際の空いた卓へコートを広げた。裂け目だけを閉じるつもりだったが、裏返すと、以前に直された縫い目が目に入った。太さの違う糸が途中で継がれ、縫い代が片側へ引かれている。このまま表だけを縫えば、次に力がかかった場所から裂ける。


 玲奈は裁縫箱から糸切りばさみを取り、古い縫い目を一つほどいた。


 もう一つ。


 十五分後、裂け目は三センチから二十センチになっていた。


「広がってない?」


 岸本がコーヒー越しに聞いた。


「正確には、以前の補修をほどいています」


「私が頼んだの、今日破れたところよ」


 玲奈の手が止まった。


     *


 午前十一時、ロンドの窓際には、裏地を開かれたコートが横たわっていた。


 岸本は午後五時に出かける予定があり、それまでに直るなら預けると言った。直らないなら別のコートを着る。怒ってはいなかったが、「頼んだところより大きくしないでね」と二度念を押して帰った。


「もう大きくしてるよ」


 小森美咲は出勤前のコーヒーを飲みながら、開いた裏地を見た。


「この縫い方では、表地に負担が残ります」


「だからって、許可なくほどく?」


「直すために必要でした」


「それは玲奈さんの正解。岸本さんは、夕方着られるコートが欲しいの」


 玲奈は反論せず、ほどいた糸を紙の上へ並べた。細かな糸くずまで捨てないのは、元の針目と長さを確認するためだった。


 桐生蒼真がソファの釘へ布を当て、金槌の代わりに厚い本の背で叩いている。玲奈が見て、「その本は」と声を上げた。


「研究書ではなく、古本屋で百円だった辞書だから」


「本の価格で扱いを変えるのですか」


「今はソファを直す話だよね」


「本も直す必要が生じています」


 美咲が時計を見て立ち上がった。「増やさないで。一つずつ終わらせる」と言い残し、店を出ていく。


 玲奈はコートへ向き直った。実家なら、職人へ渡せば済む仕事だった。どの糸を使い、どこまでほどき、仕上がりをどう検めるかは知っている。しかし、自分の手だけで最後まで直した経験は、思っていたより少ない。知識と作業のあいだには、針一本ほどの細さで、思いのほか深い溝があった。


     *


 正午前、神崎大和が紙袋を持って入ってきた。


「玲奈さん、ボタンって付けられる?」


「はい」


「袖も?」


「袖にボタンがあるのでしたら」


 紙袋から出てきたのは、淡い青色のシャツだった。左のカフスが半分ほどほどけ、ボタンが糸一本でぶら下がっている。


「今日の夜までに」


「会社で必要なのですか」


「仕事のあとに必要」


 ソファにいた立花玲央が顔を上げた。膝には劇団ミナモの台本があり、赤い付箋だけが目立っている。


「デート?」


「仕事のあとに人と会うだけ」


「女?」


「人」


「人なら、だいたい男女どっちかだろ」


「お前は稽古で性別を二つやったんだから、黙って台本読んでろ」


 玲央は紙袋を覗き込み、襟元のタグを確かめた。「普段よりいいシャツだ」と言うと、大和は紙袋ごと取り戻した。


 玲奈は袖口を見た。ボタン付けだけなら十分もかからない。ただし、コートの裏地は開いたままで、必要な色の糸も裁縫箱にはなかった。


「午後四時まででよろしいですか」


「六時でいい」


「では、お預かりします」


「料金は?」


 玲奈は答えられなかった。ロンドの仕事では、値段は最初から決まっている。コーヒーを淹れる時間が長くなっても、客の話を聞いても、一杯の価格は変わらない。しかし補修は、ほどく場所も、糸の種類も、相手が求める仕上がりも違う。


「友達価格で」


 玲央が言った。


「お前は一円も払う側じゃない」


「じゃあ、友達無料」


「もっと悪くなった」


 玲奈は紙へ『シャツ・袖口・午後六時』と書いた。「料金は、作業後に決めます」と告げると、大和は一瞬だけ意外そうな顔をし、それから「分かった」と答えた。


     *


 必要な糸を買うため、玲奈は昼休みに店を出た。


 一番街商店街から茶沢通りへ抜ける道は、午後の人波で歩く速度が変わる。玲奈はコートの裏地から抜いた糸と、シャツの袖から切った一本を白い紙へ挟み、陽の当たる場所で色を見比べながら、住宅街にある架空の手芸店「糸口」まで歩いた。


 焦げ茶だけで九色あった。棚の前で迷う玲奈に、店主は「古い布は光で色が変わるから、元と同じ色を買っても同じには見えない」と教えた。


「では、どれが正解でしょうか」


「正解を決めるのは、着る人だね。目立たせたくないのか、直した跡を残してもいいのか」


 玲奈は岸本へ電話した。


「裏側の糸が完全には同じ色になりません。近い色で目立たなくするか、少し明るい色で次にほどけた場所が分かるようにするか、選んでいただけますか」


『裏でしょ? 見えないなら、分かりやすいほう』


「承知しました。それから、以前の補修をほどいたため、予定より時間がかかります」


『五時に間に合う?』


 玲奈は、できると言いかけた。実家で聞いてきた職人なら間に合わせるだろう。けれど今、針を持つのは自分だった。


「四時半までに途中で一度ご連絡します。間に合わなければ、別のコートをお願いします」


『最初からそう言ってくれたらいいのよ』


 電話が切れたあと、玲奈は焦げ茶の糸と、裏地用の少し明るい糸を買った。領収書も受け取った。


 会計を終えたあとも、玲奈は針の棚の前から動かなかった。実家で使っていたものと同じ長さの針、革を傷つけにくい指ぬき、糸を寝かせて切れる小さなはさみ。道具の名前も用途も知っているが、自分で値札を見て選んだことはない。家では必要なものが作業台に揃い、減れば誰かが補充していた。


「仕事にするなら、最初にすべて揃えたほうがよいでしょうか」


 店主は玲奈の籠を見て、「最初から道具を仕事にしないほうがいい」と言った。「使うものだけ買う。続いたら増やす。道具を揃えて満足する人、多いからね」


 玲奈は指ぬきと針を一組ずつ加え、はさみは棚へ戻した。領収書には、コートに使う材料と自分の道具を分けて書いてもらった。店を出て一番街方面へ戻る途中、紙袋の軽さに比べ、財布から減った金額が大きく感じられた。


 下北沢駅へ向かう人の流れを避けて細い道へ入ると、両側の建物から室外機の風が吹き、紙に挟んだ糸が飛びそうになった。玲奈は胸元で紙を押さえる。家で教えられた技術を使えば、家へ戻ったことになるのか。それとも、使う場所と相手を自分で決めれば、自分のものになるのか。答えを決める前にロンドの時計は進んでいる。玲奈は紙袋を持ち直し、人の流れへ戻った。


     *


 ロンドへ戻ると、修理する服が増えていた。


 玲央の黒い稽古着は、平台を運んだときに肩が裂けている。ひばりの花柄の袖には、ギターケースの金具が引っかかった穴があった。蒼真は本の背を見せ、「これは服ではないけど」と辞書を置いた。


「受け付けていません」


「本は別枠?」


「修復方法が違います」


「方法を知ってるんだ」


「知識と作業の間には溝があります」


「急に今日の結論みたいなこと言うね」


「まだ結論ではありません」


 玲奈は三人の品を紙袋へ戻した。「岸本さんのコートと、神崎さんのシャツが先です」と言うと、玲央が不満そうに肩を触った。


「俺、明日も稽古」


「別の服で行って」


 玲奈は言ってから、敬語を足さなかった。


「今、完全に二種だった」


「分類は廃止しました」


「でも、扱いが一番下」


「順位ではなく期限です」


 ひばりは自分の袖を光へ透かし、「穴から店が見える」と楽しそうに言った。


「ひばりさんも、今日はそのままでいてください」


「私は敬語」


「穴を気にしていないためです」


 玲奈はコートへ針を入れた。


 すると玲央が、稽古着のほかにもう一着、黒いジャケットを鞄から出した。第九話のフリーマーケットで売ろうとし、袖口を玲奈が直したものだった。


「これは壊れてないけど、もっと高そうにできる?」


「補修は、価格を高く見せるために行うものではありません」


「舞台で着たら、本当に舞台衣装になるだろ。先に整えておこうと思って」


「まだ舞台で着ると決まっていません」


「決まってからじゃ遅い」


 大和が使った広告の論理を、今度は衣服へ持ち込んでいる。玲奈はジャケットを裏返し、以前直した袖口だけを確認した。


「補修箇所に異常はありません。何も壊れていない服には、何もしません」


「予防は?」


「洗って、正しく保管してください」


「一番苦手なやつだ」


 玲央はジャケットを畳まず鞄へ戻した。玲奈は依頼票を三枚作り、品物、破損箇所、希望期限、見積もり前にほどいてよい範囲を書いた。玲央は期限欄へ『できるだけ早く』と記入し、美咲に「それは期限じゃない」と消される。ひばりは希望料金へ『石一個』と書き、玲奈に「通貨でお願いします」と返された。


 蒼真は一連のやり取りを見ながら、辞書を静かに鞄へ戻した。


「桐生さんは、よろしいのですか」


「ここへ置くと依頼票を書かされそうだから」


「本には、本の受付方法を考えます」


「事業が広がってるね」


「まだ一件も終わっていません」


 言葉にすると、窓際のコートが急に重く見えた。


     *


 午後三時を過ぎると、ロンドは客が増えた。玲奈は注文を取り、コーヒーを運び、戻るたびに二針か三針だけ進めた。まとまった時間が取れないため、糸を長くしすぎず、作業を止める位置を毎回決める。家で見ていた職人は、誰にも話しかけられない作業台で仕事をしていたが、ここでは徳田が「今日は四種類目のいつもの」と言い、玲央がプリンの残数を聞き、ひばりが糸くずを髪飾りにしようとする。


「触らないで」


「捨てる糸でしょ」


「長さを確認しています」


「終わったらもらえる?」


「終わったら捨てます」


「同じ行き先なのに」


 午後四時、コートの表地は閉じた。裏地は半分残っている。大和のシャツにはまだ手をつけていない。


 玲奈は一度立ち上がり、コートを遠くから見た。近くで針目だけを追っていると、縫い縮みや裾の傾きに気づけない。実家で検品を任されていた女性は、必ず三歩離れ、正面、横、裏の順に見ていた。玲奈も同じように確認しようとしたが、狭いロンドでは三歩下がるとカウンターへぶつかった。


「何してるの?」と徳田が聞く。


「全体を確認しています」


「店が狭いから、俺が持つか」


「お客様へ作業をお願いすることは」


「その喋り方、また融資の人になってるぞ」


 徳田はコートの肩を持ち、入口近くに立った。玲奈が窓際から裾を見ると、わずかに左が引かれている。二針だけ戻して縫い直すと、裾はまっすぐ落ちた。


「助手代は、次のコーヒーを薄めにしてくれればいい」


「本日の“いつもの”は、薄めですね」


「いや、普通にする」


 玲奈は注文を記録せず、頭の中だけで変更した。


 そこへ美咲が、休憩時間を使ってロンドへ戻ってきた。テーブルの上を一目見て、未完成の二着と注文伝票を数える。


「間に合う?」


「岸本さんには四時半に連絡します」


「大和は?」


「六時です」


「それ、絶対六時より前に取りに来るよ」


「なぜですか」


「仕事のシャツなら会社で着替える。ここへ預けたってことは、帰りに寄る。待ち合わせ前の男は約束した時間を信用しない」


「詳しいですね」


「料理人は時間を守らない客を見てるの」


 美咲はシャツの袋を裏返し、ボタンだけを取り出した。「これは私が付ける」と言ったが、玲奈は首を振った。


「神崎さんから、私が預かりました」


「じゃあ、コート手伝う」


「それも私がほどきました」


「全部、自分でやるつもり?」


「はい」


「間に合わないって分かってても?」


 玲奈は針を止めた。自分で選んだ結果を引き受けたいと思って家を出た。だが、何でも一人で終えることと、引き受けることは同じではない。


「では、接客をお願いします。補修は私がします」


「店員じゃないんだけど」


「今、決めました」


「それ、前にも聞いた」


 美咲はエプロンを借り、客席へ出た。


     *


 四時二十五分、玲奈は最後の玉留めを裏地の内側へ隠した。表から裂け目はほとんど見えない。裏返せば、少し明るい糸が以前の補修跡を囲み、次に力がかかった場所が分かる。


 岸本へ連絡すると、五時前に取りに来た。


「着てみてください」


 袖を通し、裾を確かめた岸本は、鏡の前で一度しゃがみ、立ち上がった。


「前より動きやすい」


「以前の縫い目が裏地を引いていました。ただ、最初に許可なくほどいたことは、申し訳ありません」


「次は、切る前に聞いて」


「はい」


「いくら?」


 玲奈は、材料費の領収書と作業を始めた時刻を書いた紙を出した。考えていた金額を口にする前に、実家で同じ仕事を頼めばいくらになるかが頭をよぎる。職人の技術、店の信用、仕上げの検品。その価格を、自分の一日目の仕事へそのまま付けることはできない。


「材料費を含めて、千二百円です」


「安すぎない?」


「今回は、私の判断で作業を増やしました。次回から、作業前に見積もります」


 岸本は千円札二枚を出した。玲奈が八百円を返すと、コートの内側をもう一度見て、「次は、このポケットをお願い」と言った。


 右のポケットは底が薄くなっていた。


「次回は、先にほどく範囲を確認します」


「そうして」


 岸本はコートを着て店を出た。


 玲奈は受け取った千二百円を、ロンドの給料とは別の封筒へ入れた。表には『補修 一件目』と書いた。


「その千二百円、全部が収入ではないよ」


 蒼真が、糸口の領収書と封筒を見比べて言った。材料費だけでなく、続けるなら場所や道具についても考える必要がある。老田はカップを拭きながら、「コーヒーを飲む客の服だけなら、場所代はいらん」と言った。


「では、飲まない方から依頼があった場合は?」


「そのとき考える」


「先に決めなくてもよいのですか」


「客が来る前に規則を百個作ると、また一種と二種ができるぞ」


 玲奈は新しいノートの最初のページに、材料費、作業時間、受取額を書いた。千二百円から糸代を引き、さらに自分の指ぬき代まで引こうとして、蒼真に止められる。


「指ぬきは次の仕事でも使うから、一件目だけの経費にしなくていい」


「では、何件に分けますか」


「それは使用期間を想定して――」


 説明を始めた蒼真の前へ、老田がコーヒーを置いた。


「冷める前に十二文字で」


「今は、糸代だけ引こう」


「承知しました」


 計算後に残った額は、封筒の見た目ほど多くなかった。それでも、ロンドの時給とは違い、玲奈が作業の範囲を決め、相手へ金額を告げて受け取った金だった。


 玲奈はノートの下へ、次回の確認事項を三つだけ書いた。『切る前に聞く』『期限を決める』『先に料金を伝える』。四つ目を書きかけ、老田の言葉を思い出してペンを置いた。


     *


 午後五時十分、大和が来た。


「早いですね」


「道が混むかもしれないから」


「待ち合わせ前の方は、時間を信用しないそうです」


「誰が言った?」


 カウンターでコーヒーを飲んでいた美咲が、聞こえないふりをした。


「シャツは、これからです」


「あと五十分ある」


「お待ちください」


 玲奈はカフスをほどき、弱くなった糸をすべて外した。今度は切る前に大和へ範囲を見せ、ボタンの位置を確認する。大和は珍しく口を挟まず、ソファで時計を見ていた。


 玲央が隣へ座る。


「どこで会うの?」


「人と会うだけ」


「名前は?」


「人に名前はある」


「泊まる?」


「質問が三段飛んだ」


 ひばりが大和の首元を見た。


「いい匂いする」


「会社の化粧室にあった消臭剤」


「首にかけたの?」


「もう黙ってくれない?」


 午後五時四十二分、玲奈はシャツを返した。袖口は元の針穴へ合わせ、反対側と同じ間隔で縫ってある。


「おいくらですか」


 大和が、今度は先に聞いた。


「三百円です」


「友達価格?」


「作業時間と材料費です。次回は通常料金にします」


「次回がある前提なんだ」


「神崎さんは、同じ袖を二度壊しそうです」


 大和は三百円を払い、ロンドの狭い化粧室でシャツを着替えた。出てきたところを五人が揃って見たため、入口で足を止める。


「行ってきますは?」


 玲央が聞いた。


「会社へ戻るだけ」


「鞄、会社と逆向きに持ってるよ」


 ひばりが言う。


 大和は鞄を持ち替えた。


「行ってきます」


 美咲だけが、コーヒーカップを見たまま「いってらっしゃい」と答えた。


     *


 翌朝九時、大和は同じ青いシャツでロンドへ入ってきた。


 袖口は無事だったが、ボタンを一つ掛け違えている。


 すでにソファへいた玲央が、新聞を下ろした。


「会社、長かった?」


「長かった」


「何時まで?」


「今まで」


 ひばりがシャツの襟を見た。


「裏返しじゃないね」


「そこまで失敗してない」


 美咲は厨房へ続くカウンターの端で、パンを切っていた。大和を一度見ただけで、何も聞かない。


 玲奈が水を置き、掛け違えたボタンを指した。


「直しますか」


「これは自分で直せる」


「無料です」


「余計に嫌だ」


 大和は一番下からボタンを掛け直した。全員が黙って見ている。


 途中で一つ飛ばしかけると玲央が指を上げ、ひばりが数を声に出し、美咲はパンを切る手を止めないまま「そこ違う」と言った。昨夜どこにいたかは誰も聞き出せなかったが、シャツ一枚を正しく着るまでの工程だけは、五人全員に監督された。


「見るなよ」


「補修後の確認です」


 玲奈は袖口を確かめ、接遇改善記録とは別の新しいノートを開いた。


『補修 二件目。袖口。三百円。翌朝も異常なし』


「最後の情報、必要?」


「耐久確認です」


「どこで耐久を確認したかは書くなよ」


 玲奈はペンを止めた。


「聞いていません」


「それが一番助かる」


(第13話につづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。