岬の境界線(後編)
自室で書類を整理していたサリエルは、特徴的なノックの音を聞いて顔を上げた。
「ドアなんてありませんから、遠慮なくお入りください」
サリエルの部屋のドアは、一部を除いて取り外されている。仕事柄、訪問者の多い彼女にとって、それはさほど必要なものではなかった。
ドアがあったはずの出入口から、遠慮がちにラグエルが顔を覗かせる。
何度言っても律儀にノックをする彼に、サリエルは密かに口角を上げた。
「あら、ラグエル様。わたくしに何のご用でしょう?」
「キミの部下であるノエルについて、聞きたいことがあってな」
その言葉に、サリエルは露骨に顔を顰めた。
「……どうぞ、お聞かせください」
「天国での仕事は、ノエルこそが適任だったはずだ。……どうして、理由も説明せずに異動させた?」
「……」
椅子に腰掛け、部下からの報告書に目を通しながら、サリエルは静かに口を開いた。
「我々には、それぞれ主から与えられた特別な能力がありますよね。ノエルの能力は、触れた者の心を癒すものです。その力は、本人の意思が強ければ強いほど大きくなりますが……困ったことに、強まれば強まるほど、対象に深刻な影響を及ぼしてしまうのです。ノエルに撫でられた動物たちは、その能力の影響で、次第に彼へ依存するようになっていきました」
サリエルは慣れた手つきで書類をまとめると、ラグエルへと視線を向けた。
「ラグエル様、あなたならお分かりでしょう? ノエルと、彼の愛する動物たちのことを考えれば……こうするしかなかったのです」
「……そうか。能力が原因なら、仕方ないな」
ラグエルは、きまりが悪そうに自身のストラを弄った。心なしか、声がわずかに上擦っている。
「その言い方……わたくしを説得して、彼を復職させるおつもりでしたね?」
サリエルは席を立つと、ラグエルの足元まで歩み寄る。その鋭い眼差しから逃れるように、ラグエルは間近に迫る天井へと顔を向けた。
「……別に。ただ、気になったから聞いただけだ」
「それを聞くために、わざわざいらしたのですか……。では、他人の部下を気遣う余裕のあるラグエル様に、一つお願いがあります」
「お願い?」
「近頃、『境界の岬』で不審な行動をしている天使がいるとの報告がありまして。わたくしの代わりに、様子を見に行っていただけませんか?」
大きなバルコニーの引き戸を、強風がひっきりなしに叩いている。その音を背に、サリエルは微笑んで言い添える。
「今日は風も強いですし、誤って下界に落ちてしまっては危険ですから」
本来、空を飛べる天使が誤って落ちることはない。だが、あの岬では、これまでにも似たような事故が何度か起きていた。
サリエルは、机の上の書類を引き出しにしまう。周囲を確認してバルコニーの引き戸を開けると、強い風が部屋を吹き抜けた。
「すごい風ですね」
「ああ、飛ばされないよう気をつけなくては。……悪いが、これを少し預かっていてくれ」
ラグエルは翼を器用に使い、首に掛けていたストラを外してサリエルに差し出した。
受け取ったそれを丁寧に畳みながら、サリエルは小さな声で話す。
「ラジエル様のこと、よろしくお願いします」
「……なんだ。不審な天使というのは、ラジエルのことか」
ラグエルは納得したように頷くと、広々としたバルコニーへ出た。年季の入った手摺に、慣れた動作で飛び乗る。
彼を支えた木製の手摺が、ぎしり、と不穏な音を立てて軋んだ。
「あっ」
その音に、ラグエルは、ばつが悪そうな顔でサリエルの方を振り返る。
彼の様子に、サリエルは肩をすくめた。
「……お気になさらず。いってらっしゃい」
「すまない……では、行ってくる」
銀白色の大きな翼を広げ、ラグエルは強風をものともせずに飛び立った。
サリエルは、東の方角へ滑空していくラグエルを見送ると、彼が乗っていた木製の手摺を確認する。
「まだ、直さなくても大丈夫かしら……?」
支柱に入ったヒビや、手摺の表面に刻まれた無数の爪痕を指先でなぞりながら、不安げに声を漏らした。
一方、その頃――暇を持て余したラジエルは、再び『境界の岬』にやって来ていた。
(……暇だなあ。ラミちゃんも、他の子たちも、みんな仕事かー)
散歩の途中で、ラミエルや他の天使たちのもとを訪ねたが、誰もが仕事に追われている様子だった。
もう一度ノエルと話そうと広場に戻ってみたものの、その頃にはすでに彼の姿はなかった。
忙しそうな仲間たちの姿を思い出し、ピンと立っていた猫耳を力なく伏せる。
ふらふらとした足取りで、ラジエルは岬の先端へと向かった。崖の下を覗き込んでも、目に映るのは見慣れた群青色の海だけだ。
(……どうして私は、地上に降りちゃダメなんだろう?)
強く吹く風が背中を押してくる。雲の隙間から見える下界の景色が、いつもより近くに感じられた。
(ここで、わざと足を踏み外して下へ落ちたら、どうなるのかな……)
きっと、サリエルにこっぴどく叱られるだろう。
ラジエルは肩を落とした。
けれど――もし、地上で困っている人間と出会い、助けてあげることができたなら。
そして、その人と仲良くなって、さらに周りの人たちの助けにもなれたなら。
サリエルも、自分のことを認めて、地上に降りることを許してくれるかもしれない。
地上でも、みんなと楽しく過ごせる日が来るかもしれない。
ほんの一歩踏み出すだけで、それが現実になるかもしれない。
逸る気持ちを抑え、崖の縁に足をかける。ラジエルは、追い風が背中を押してくれるのを待った。
そんな彼女の期待とは裏腹に、背後から低い声がかかる。
「ラジエル」
驚いたラジエルは、尻尾を逆立てて振り返った。そこには、風で乱れた羽毛を整えるラグエルがいた。
「うわっ! ラグちゃん!?」
「こんなところで、どうしたんだ? 何か悩み事でも?」
ラジエルは、ラグエルのもとに駆け寄ると、いつもの明るい調子で答えた。
「ううん、何もないよ! 暇すぎてボーッとしてただけ」
「暇すぎる、か。……だったら、書類の整理を手伝ってくれないか?」
「いいよ! 猫の手でもよければ貸してあげる!」
珍しく頼み事をしてくるラグエルに、ラジエルは声を弾ませた。
勢いよく手を挙げて、普段は長い袖で隠れている肉球を見せつける。
言葉通りの猫の手を、ラグエルは柔らかな眼差しで見つめた。
「それは助かるな。ありがとう。……ワタシの書斎まで少し距離があるが、風も強いので歩いて行こう」
「だねー」
ラジエルは、ラグエルの後を追って歩き出そうとしたが、背後に響く風の音に、ふと足を止めた。
誰かに呼び止められた気がして、無言で岬の方を振り返る。
「……」
「ラジエル?」
「……悩みってほどじゃないけど、たまに思うんだ。もし別の選択をしていたら、その選択をした私は、今頃どうなっているんだろうって。今の私より、ずっと楽しく過ごしているんじゃないかなって思って……ちょっと後悔したりするんだよね」
岬を眺めながら、ラジエルは『別の自分』を思い描く。
(さっきだって、ラグちゃんに呼び止められずにいたら……その私は、もう地上に降りていて、見知らぬ世界を楽しんでいたのかも……)
「……どんな道を選んだとしても、自分という本質は変わらない。道を変えた所で、また別の悩みや後悔に苛まれるだけだろう」
「そうかなー? 例えばの話だけどさ……いつか、私が勝手に地上に降りたとして……」
「勝手に降りた時点で、すぐにワタシが天界に連れ戻す」
「いーや、そうはならないよ」
「……なぜだ?」
ふふん、とラジエルは得意げに答えた。
「なぜなら、ラグちゃんは仕事が忙しくて、そんなことしてる場合じゃないから! あ、他の天使たちもね。だから私は誰にも邪魔されずに、ゆっくり地上の観光を楽しむの!」
無邪気に笑う彼女に、ラグエルは目を細めた。
「……ふむ。確かに、ありえない話ではないな」
どうやら一筋縄ではいかないようだ。空想の中の彼女に、悩みや後悔の文字はないらしい。
さて、どうやって『地上に降りたほうのラジエル』を連れ戻そうか――ラグエルは考えを巡らせた。
このまま、彼女の理想の話を聞くのも悪くない。むしろ、少し楽しみですらあった。
そのとき、岬にひときわ強い風が吹いた。ラグエルはびくともしなかったが、小柄なラジエルは突風に煽られ、よろめいた。
転びそうになった彼女を、ラグエルは片翼で支えた。
「……それで、地上に降りたキミは、最初にどこへ行くんだ?」
「ええっとね……! まずは遊園地に行って――」
ラジエルは、上機嫌で歩き出し、『地上に降りた自分』の空想を語り続ける。
向かい風が、まるで引き留めるかのように吹きつけた。
――それでも。
話に夢中の彼女は、もう岬を振り返らなかった。




