岬の境界線(前編)
天界の外れには、『境界の岬』と呼ばれる場所がある。そこからは、人間たちの暮らす地上の景色を望むことができる。
殺風景な岬の先端で、ラジエルは崖ぎりぎりにうつぶせになり、下を覗き込んでいた。
「今日も海しか見えないなー」
長い尻尾を気ままに揺らしながら、じっと目を凝らす。岬に吹く風の音を遮るように、大きな猫耳を伏せた。
どのくらい時間が経っただろう。一向に変わらない景色に痺れを切らし、ゆっくりと身体を起こす。
ショート丈の白いワンピースが風になびいた。ラジエルは服についた砂を軽く払い、誰もいない岬を後にした。
――広場の片隅で、ノエルは目的もなく、ぼんやりと景色を眺めていた。暖かな野原には、ところどころで可愛らしい花が咲いている。
広場に座り込んでいるのは、ノエルだけだった。まだ午前中だからか、他の天使たちは仕事で忙しそうだ。
「この際、動物じゃなくてもいいから……どこかに、もふもふした何かがいないかなあ……」
そう呟いて、小さな水色の花にそっと触れた。
すると、近くで軽快な足音が聞こえた。誰だろうと疑問に思い、ノエルは顔を上げる。
「あっ、ラジエル様!」
「ノエルだー! 今日はお仕事お休みの日?」
こちらに気付いたラジエルは、周りに咲く花を器用に避けて、ノエルの隣に腰を下ろした。
「はい。今日は特にする事もないので、ここでのんびりしていたところです」
「そうなんだね。私も暇でさー、いろんな場所を散歩してたとこ!」
「散歩ですか、いいですね」
「えへへ。でもまだ動き足りないよー」
ラジエルはぐっと背伸びをする。一定のリズムで揺れる尻尾を見て、ノエルはモフりたい衝動を必死で抑えた。
「ところでさ、この前の……もふもふの願望はどうなったの?」
ラジエルは、どこか後ろめたい気持ちで尋ねた。この前のこと――ノエルが動物に飢え、ラジエルとラミエルに撫でさせてほしいと頼んできた時のことだ。
ノエルをラグエルのもとへ向かわせた後の詳しい事情は、ラジエルも知らない。
分かっているのは、彼が原因でサリエルとラグエルの間に何らかのトラブルがあった、ということだけだった。
「……その件ですが、僕の軽率な行動のせいで、サリエル様に勘違いをさせてしまって。……今後は、過激なモフり行為は禁止になりました」
「勘違いって?」
「ごめんなさい。このことは誰にも言うなとサリエル様が……でも、結果的に疑いは晴れたので大丈夫です」
(やっぱり、私たちが提案したせいでもあるよね……できれば元気づけてあげたいけど……そうだ!)
ラジエルは勢いよく立ち上がると、その場で両手を上げて唱えた。
「複製! いでよ! 『シティ情報OTO 三月号』!」
途端――ポンッという音とともに、ラジエルの頭上に一冊の本が現れた。
それを目にしたノエルは、これが彼女の能力によるものだと瞬時に理解する。天使には、それぞれの役割に応じた特別な能力がある。
ラジエルは、『読んだ本をコピーし、自由自在に取り出せる』能力の持ち主だ。
取り出した本を華麗にキャッチして、ラジエルは再びノエルの隣に座り込む。
「この本、ラミちゃんからもらったんだー。地上にいる人間が読んでる、街の情報誌っていうものらしいよ!」
「ラミエル様ですか?」
「うん。私は地上には降りられないから、お土産に買ってくれたの」
言いながら、ラジエルはパラパラとページをめくる。やがてあるページに辿り着くと、満面の笑みを浮かべ、ノエルに開いたページを見せた。
「見て見て! 人間が飼ってる動物の特集ページ。もふもふで可愛いよ!」
まず目に入ったのは、中央に大きく書かれた『我が家のペット紹介』という文字。それを囲む形で、たくさんの動物の写真が並んでいた。犬や猫、うさぎなどの小動物から、蛇やワニといった爬虫類まで目白押しだ。
よく見ると、写真の横にはその動物の名前らしきものが書かれている。初めて目にするはずなのに、どこか懐かしい気持ちになった。
「ラジエル様、ありがとうございます。……なんだか、天国にいた頃に戻った気分です」
「そっか……! この本、よかったらノエルにあげる!」
「……お気持ちは嬉しいのですが。ラジエル様へのプレゼントを、僕がいただくわけにはいきません」
「複製したやつだから気にしないで! これをくれたラミちゃんだって、ノエルのこと心配してたんだから」
それを聞いたノエルは、もう一度ページに目を向ける。写真を見ているだけで、自然と笑顔になった。穏やかな目をした動物たちを、優しく指先でなぞる。
静かに本を閉じると、ノエルは笑顔のままラジエルに言った。
「では、ありがたく頂戴いたします。ラミエル様にもお礼を言わないといけませんね」
「うん。今度また三人で話そうね! あとね。ノエルにおすすめの場所を教えてあげる!」
「おすすめの場所?」
周囲を見渡し、ラジエルは颯爽と駆け出した。彼女の後を、ノエルはおとなしくついて行く。
とある場所で立ち止まると、こちらを振り返り、大きく手招きをした。「ここ!」とラジエルはしゃがんで、地面を指さした。
ノエルは促されるまま、その場所へ視線を落とす。
なんの変哲もない芝生だが、さっきまでいた場所と比べると、そこだけ色が薄く見えた。
ここが彼女の言う『おすすめの場所』なのだろうか、とノエルは首をかしげる。
「ここだけ、他の葉っぱより柔らかいんだよ。触ってみて! まるで動物を撫でてるみたいじゃない?」
ラジエルは、ぽんぽんと地面を叩いてみせた。
「た、確かに。見た感じ、他の草よりふわふわしていそうですね。……では、撫でてみます!」
ノエルは期待を込めて、その部分に手を伸ばした。
手のひらに、はっきりと伝わってくる感触に、彼は目を見開く。
……草だ。
野原に無数に生えている、青々とした緑の、草。
さりげなく位置や角度を変えて撫でてみたものの、その感触が変わることはなかった。
天国で撫でてきた動物とは、似ても似つかない手触りにノエルは困惑した。
ちらりとラジエルの顔をうかがう。自信と期待に満ちた表情の彼女と目が合い、咄嗟に声を上げた。
「わ……わあ〜〜! すごく、もふもふですね……!」
「でしょー! 動物を撫でたくなった時は、さっきの本を見ながら、この草をもふもふしたらいいんじゃないかな?」
「そ、そうですね……! これからは、そうしよう……かなあ〜」
ラジエルの純粋な提案に、否定の言葉も出せず、ノエルはぎこちない笑みで相槌を打った。
ひたすら芝生を撫で続ける彼を見て、ラジエルは満足げに頷く。
「それじゃあ、私はまた散歩に行ってくるね! バイバイ、ノエル」
「……あっ、ハイ! ラジエル様、色々とありがとうございました!」
芝生を撫でたまま、ノエルは走り去るラジエルに手を振った。彼女が広場からいなくなったのを見届けると、ようやく芝生から手を離した。
少し変わってはいるけれど、彼女なりの気遣いに、ノエルは胸が温かくなるのを感じた。
ラジエルからもらった本を両手に抱える。風に揺れる芝生に、ノエルは小さく笑って呟いた。
「撫でさせてくれて、ありがとうございました」




