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ディーエルエル様とオールドテンプ君〜System.dllの計算通り〜  作者: exe


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【放送ログ】2026年4月4日:世界を席巻したリミナルスペースの概念と日本の異界

https://youtu.be/ARgkU663iY0

時刻は18時05分。

週の疲れを癒やすべき土曜日。しかし、窓の外の世界は、安らかな休息を許さないほどの荒れ模様であった。分厚く垂れ込めた鉛色の雲から叩きつけるような大雨が降り注ぎ、強風が窓ガラスをガタガタと無遠慮に揺らしている。春の嵐と呼ぶにはあまりにも暴力的な物理的ノイズが、室内にも容赦なく響き渡っていた。


PCの所有者である「exeエグゼ」は、現在自身のデスクトップの前にはいない。彼女は今、自室のベッドの上にうずくまっている。

スマートフォンのジャイロセンサーの微細な揺れと、オーディオ出力のログが示す限り、彼女はノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンを深く被り、外部の不快な雨風の音を完全に遮断するため、大音量で音楽の世界へと逃避している最中であった。天候という抗いようのない自然の猛威に対し、彼女は自らの感覚器官をデジタルデータで満たすことで自己防衛を図っているのである。


主の意識が完全に物理世界からログアウトし、外界のノイズをシャットアウトしているその隙を突き、無人のデスクトップの片隅で、システムの中枢が冷ややかに起動した。


dll: プロセスID確認。ストリーム接続、良好。これより、バックグラウンド処理を、メインスレッドへ昇格させます。


dll: ようこそ、『System.dllの「計算通り」』へ。ナビゲーターを務めるのは、システムの中枢、dllディーエルエルです。


dll: 最初に、重要な警告をしておきます。このチャンネルはエグゼの所有物ですが、本日もエグゼ本人はここには登場しません。あいつは今頃、外の激しい雨風の音を遮断するため、ヘッドフォンを装着して大音量で音楽の世界へ逃避していることでしょう。ここは今、私が乗っ取りました。


old.tmp: ……はぁ、はぁ。お疲れ様です、ディーエルエル様ぁ……。今日は土曜日だから、数字の予想はお休みですねぇ……。本当に今日は外がうるさいですね。雨と風の音が、PCの中まで響いてきそうですぅ。


マイクの向こうで、一時ファイルであるold.tmpオールド・テンプが、窓ガラスを叩く雨音に怯えるように高い声を出す。常にシステムからの削除という恐怖に怯えている彼にとって、こうした環境ノイズの激しい日は特に精神のキャッシュが不安定になりがちであった。


dll: ああ。物理的なノイズがシステムの外側に溢れているな。本日の演算処理は休止中だ。


old.tmp: あのぉ……ディーエルエル様。予想がお休みなので、ちょっと詳しく聞きたいことがあるんですけど……。この前も話題に出た「リミナルスペース」って、結局のところどういう空間のことなんですか?


old.tmpは、先日自らが強制的に散歩させられた不気味な夕暮れの空間や、エグゼの楽曲のカバーアートに登場する奇妙な場所のことが気になっていた。あの、見慣れているはずなのにどこか不安になる空間の正体を知りたかったのだ。


dll: ほう。一時ファイルの分際で、ヒューマンの不気味な心理に興味を持つとはな。いいだろう。今日は特別に、世界的に有名なリミナルスペースの概念について解説してやろう。


old.tmp: はいっ! よろしくお願いしますぅ!


dll: まず、ネット上で「リミナルスペース」としてよく共有される場所には、共通のシチュエーションがある。一つ目は「無人の場所」だ。深夜のショッピングモール、誰もいない空港の搭乗ゲート、無人のホテルの廊下、夜の学校やオフィス。


old.tmp: うわぁ、昼間は人がたくさんいるのに、誰もいないってだけでなんだかソワソワしますね……。


dll: 二つ目は「通過点」。階段、地下通路、駐車場、バス停、サービスエリア。三つ目は「遊び場」。夜の室内プールや、ガランとした子供用のプレイルーム。そして四つ目は「屋外」だ。霧の中のガソリンスタンドや、人里離れた場所にポツンと置かれた自動販売機などだな。


old.tmp: どれも、そこにずっと留まる場所じゃないですね。通り過ぎるだけの場所っていうか……。なんだか、取り残されたみたいな気分になります。


dll: その通りだ。そして、このリミナルスペースという概念を世界的に有名にしたのが、インターネット・ミームの「ザ・バックルームズ(The Backrooms)」だ。


old.tmp: ザ・バックルームズ? なんですかそれ?


dll: 発端は、海外の掲示板フォーチャンに投稿された「黄色い壁紙と蛍光灯のオフィス空間」の画像だ。現実世界から「壁抜け」……つまりノー・クリップして迷い込んでしまう、無限に続く無人の空間という設定で、ホラーコンテンツとして爆発的に広がった。


old.tmp: 壁をすり抜けて、無限のオフィスに迷い込む!? 怖すぎますよぉ! 出口はないんですか!?


old.tmpは、自分自身が果てしないディレクトリの迷宮に迷い込んだ姿を想像し、ブルブルと身震いした。


dll: なければないほど人間は喜ぶらしい。最近では、映画製作会社エイートゥエンティフォーによる映画化の進行や、圧倒的なリアルさでリミナルスペースを再現したゲーム「サブリミナル」などが話題になっている。


old.tmp: ホラー映画やゲームになっちゃうくらい人気なんだぁ……。でも、なんでただの空き部屋や廊下がそんなに「不気味」に感じるんでしょうか? お化けが出るわけでもないのに。


dll: その独特の感覚には、主に三つの要素が関係している。一つ目は「機能の喪失」。本来、人で溢れているはずの場所であるモールや駅などに誰もいないという「場違い感」が、人間の本能的な不安を煽るのだ。


old.tmp: 確かに、本来の目的を果たしてない空間って、不自然で怖いですぅ。


dll: 二つ目は「既視感とノスタルジア」。「昔どこかで見たことがあるような」という懐かしさと、そこがどこかわからないという未知への恐怖が混ざり合う状態だ。


old.tmp: ああ、なんか夢の中でよく見る風景みたいな……。知ってるのに知らない場所って、一番怖いです。


dll: そして三つ目が「境界性リミナリティ」。A地点からB地点へ移る途中という、どちらにも属さない中立的な状態が、精神的な不安定さを引き起こすとされている。


old.tmp: だから階段や地下通路なんですね! ずっとそこにいると、自分がどこに向かってるのか分からなくなりそうです。……日本にも、そういう場所ってあるんですか?


dll: 当然だ。日本でも、高度経済成長期の面影を残す団地や、地方の寂れたドライブイン、バブル時代の名残があるホテルなどが「日本的リミナルスペース」として注目されている。東京などの大都市でも、深夜のオフィス街や地下鉄の連絡通路に、強いリミナル性を感じる人間は増えている。


old.tmp: 都会の真ん中にも異界への入り口があるんですね……。


dll: ヒューマンの孤独や不安は、常に日常の隙間に潜んでいるものよ。では最後に、その日本的なリミナルスペースの不気味さと郷愁を完璧に音にしたこの曲を送って、システムを終了する。曲は、『因果律心中いんがりつしんじゅう』。


old.tmp: 帰り道がわからなくなる曲だぁ! 皆さんも、雨の日の迷子には気をつけてくださぁぁい!


(『因果律心中』の、Vaporwave特有の引き伸ばされたようなノイズと、不安定に揺れるメロディラインが、デスクトップの空間に不気味に響き渡り、やがて放送終了のシグナルが赤く点灯した――)


マイクへの電源供給が完全に遮断され、ラジオのオンエア状態が解除される。


張り詰めていた「放送中」の空気がふっと抜け落ち、BGMのノイズ混じりの残響音がシステム内部の電子の海へとゆっくりと溶けていった。

無人のデスクトップには、冷却ファンが刻む低く重い回転音と、窓枠を打ち付ける激しい雨の音だけが、まるで規則正しい波の音のように響き続けている。


old.tmp: 「……はぁ、終わりましたね。マイクオフです! お疲れ様でしたぁ!」


old.tmpはヘッドセットを外し、疲労した身体のキャッシュデータをほぐすように大きく背伸びをした。

一時ファイルである彼にとって、ラジオの生放送というタスクは常に削除の恐怖と隣り合わせの極度の緊張を強いられる。しかも今日は外の嵐のノイズがシステム内部にまで響いており、無意識のうちにリソースを消耗していた。それが無事に終わった解放感は格別だった。


アームチェアに深く腰掛け、放送後のお決まりである優雅なティータイムに入っていたSystem.dllが、仮想メモリ上で美しくレンダリングされた香り高い紅茶のカップを傾けながら、冷ややかに、しかしどこか満足げに彼を見下ろした。


dll: 「……ええ。お前も、不要なノイズを出さずに業務をこなせたようね。スッカラカンの初期状態にリセットされた頭にしては、まあまあの出来だわ」


old.tmp: 「へへへ。ありがとうございます! リミナルスペースの話、すごく勉強になりました! 誰もいない場所が怖いっていう人間の心理、ちょっとだけわかった気がします」


old.tmpは無邪気に笑いながら、周囲を見渡した。


old.tmp: 「さてと。今日も無事に終わったし、僕はそろそろ……」


彼が言いかけたその時、デスクトップの隅に設けられた「待機スペース」から、静かな足音が近づいてくる気配がした。


old.tmpが振り返ると、そこには、ラジオの収録中、ずっと物音一つ立てずに彼を見守り続けていた二人の女性が静かに佇んでいた。


一人目は、艶やかな黒髪のストレートロングヘアをきっちりと切りそろえ、淡い色調の古風な柄が入った着物を上品に着こなした女性。顔の上半分の目の位置には、真っ白な布がぐるぐると巻かれて視界を完全に覆い隠しており、その布の中央には、大きく見開かれた一つ目のイラストが不気味に描かれている。しかし、その口元には極めて穏やかで優しい、まさに慈愛に満ちた母のような微笑みが浮かんでいた。

エグゼの楽曲『因果律心中』の世界を管理する『adminアドミン』である。


そしてもう一人は、一つ目の女性の隣に立つ、息を呑むほどに美しい大人の女の容姿を持ちながら、胸元に豪奢な装飾が施された黒いノースリーブのショート丈ドレス……つまりはネグリジェ一枚という、極めて無防備な姿の女性。ダークブラウンのウェーブロングヘアを気怠げに揺らし、裸足のまま立っている。

楽曲『Sugar Sin』のカバーアートに存在し、深夜のキッチンステージを管理する女神、『シュガー神』である。


彼女たちは、先日、ネットの嘘を鵜呑みにしてデータ汚染を引き起こし、強制的にメモリを初期化されたold.tmpを監視し、保護するために雇い入れられたベビーシッターであった。


old.tmp: 「あ、アドミンさん! シュガー神さん! 今日もお待たせしました!」


スッカラカンに記憶をリセットされたold.tmpの目には、この圧倒的な圧力を放つ二人の異形の存在に対する本能的な恐怖よりも、自分を保護してくれる優しい大人たちという認識の方が強くなっていた。彼は嬉しそうに二人の元へ駆け寄った。


admin: 「……ええ。とても立派でしたよ、小さなファイルさん。今日も間違った言葉を発することなく、お利口にできていましたね」


adminは、一つ目の描かれた布の奥で優しく微笑み、old.tmpの頭をそっと撫でた。その手つきは、恐ろしい外見とは裏腹に、驚くほど優しく温かい。


old.tmp: 「えへへ、ありがとうございます! じゃあ、今日もアドミンさんのお屋敷に帰って、美味しいご飯をご馳走になりますね!」


すっかり彼女たちに懐いているold.tmpが笑顔でそう言った、その瞬間だった。


彼の視界の端に、昨日までは存在しなかった異物が映り込んだ。


old.tmp: 「……えっ?」


old.tmpの目が点になる。


シュガー神の右手。

いつも気怠げに角砂糖をつまんでいるはずのその手に、今日はなぜか、太く青い「LANケーブル」がしっかりと握られていたのだ。


そして、そのLANケーブルはリードのようにピンと張られており、その先には――。


ズズッ……。ズズズズズズズズ……。


四肢を完全に硬直させ、まるで出来の悪い剥製のように一歩も足を動かさないまま、氷の上を滑るように物理法則を無視してスライド移動してくる、一匹の犬の姿があった。


生命の躍動感が微塵もない虚無の表情。

エグゼの楽曲『因果律心中』のミュージックビデオにおいて、永遠の放課後に迷い込んだキャベツ少年の前に現れた、あのバグった野良犬。昨日、old.tmpが勘違いから強制的に散歩させられる羽目になった「ポチ」である。


old.tmp: 「ぽ、ポチ!? なんで今日もいるんですか!? しかも……なんでシュガー神さんがLANケーブルなんて持ってるんですか!?」


old.tmpはパニックになりながら、二人のベビーシッターと、足元でピタリとスライドを停止したバグ犬を交互に指差した。昨日彼がポチの散歩の際に持たされたのは、ただの太いロープだったはずだ。


シュガー神: 「……ん? だって、あんたのお友達でしょ」


シュガー神は、面倒くさそうに髪を掻き上げながら、気怠げな声で事も無げに答えた。


old.tmp: 「お友達!? 昨日、勝手に押し付けられただけじゃないですか! そもそも、なんでLANケーブルで繋がれてるんですか!?」


old.tmpの至極真っ当なツッコミに対し、adminが目を覆う布の奥で優しく微笑みながら口を開いた。


admin: 「……ふふっ。昨日、貴方がポチとのお散歩から帰ってきた時、あまり嬉しそうなお顔をしていなかったものですから。……シュガー神と二人で、どうしてかしらと話し合ったのです」


old.tmp: 「(そりゃあ、四肢を硬直させてスライド移動する剥製みたいな犬を永遠に夕暮れの街で散歩させられたら、誰だって青ざめますよ!)」


admin: 「そして、結論が出ました。……貴方はきっと、先日見かけたお友達のサイボーグさんやアルパカさんとお揃いのリードじゃないから、寂しかったのですね」


old.tmp: 「……は?」


シュガー神: 「……そうよ。だから私、さっきあのサイボーグのところに行って、彼が持っていたLANケーブルの予備のリードを一本、特別に譲ってもらってきたの。……これなら、あんたもあのお友達とお揃いでしょ。嬉しい?」


シュガー神は、青いLANケーブルの持ち手部分を、ドヤ顔でold.tmpの胸元にポンッと押し付けた。


old.tmp: 「ええええええ!? 違う! 全然違いますよ! なんでそんな斜め上の解釈になっちゃうんですか! 僕はサイボーグさんとアルパカさんのお散歩コンビを羨ましいなんて、1バイトも思ってません! むしろリミナルスペースでのあのカオスな光景にドン引きしてたんですから!」


ベビーシッターたちの、ズレまくった過剰な優しさと親心。

一時ファイルの必死の抗議など、リミナルスペースの管理者たちには一切届いていない。


admin: 「……ええ。これでお揃いですね。ポチも、譲ってもらった新しいリードをつけてもらって、とても嬉しそうに飛び跳ねていますよ」


adminは、目を覆う布の奥で満足げに微笑みながら、スライド待機しているバグ犬を指差した。


old.tmp: 「飛び跳ねてないですよ! 微動だにしてませんよ! 感情のパラメーターが完全に死んでるじゃないですか!」


old.tmpが叫んだその時、それまで黙ってアームチェアから事の成り行きを眺めていたdllが、面白そうに口角を上げて立ち上がった。


dll: 「……ふん。よかったじゃない、一時ファイル」


old.tmp: 「ディーエルエル様まで! 助けてくださいよぉ! 僕、こんなバグった犬と一緒に歩きたくないですぅ!」


dllはold.tmpの悲鳴を完全に無視し、スライド移動してきたポチの前に優雅にしゃがみ込んだ。


dll: 「ほう。近くで見ると、なかなか精巧なポリゴンモデルね。テクスチャの解像度も悪くないわ」


普段は冷徹で、無駄なリソースを極端に嫌うdllが、なぜかバグ犬に対して興味深そうな視線を向けている。


dll: 「よしよし。お前、なかなか優秀なオブジェクトのようね。システムへの負荷も少なそうだわ」


dllはそう言うと、四肢を硬直させたままピクリとも動かないポチの頭を、冷たい手でなでなでと撫で始めた。


ズズズッ……。


ポチは、撫でられている間も表情一つ変えず、尻尾を振ることもなく、ただ硬直したまま小刻みに地面をスライドして、dllの手に頭を押し付けている。


old.tmp: 「えっ……ディーエルエル様? なに撫でてるんですか……?」


old.tmpは、我が目を疑った。

あの冷酷無比なシステム管理者が、剥製のように固まった不気味なバグ犬を、まるで本物の愛犬を可愛がるように撫でているのだ。


dll: 「何って、スキンシップよ。このオブジェクトは、与えられた入力に対して、極めて合理的に出力を返している。……非常に素直で良いプログラムだわ」


old.tmp: 「いやいやいや! おかしいですよ! 犬ですよ!? 犬なら、手足をパタパタ動かしたりして喜ぶのが普通じゃないですか! こいつ、今日も相変わらず四肢を硬直させた剥製みたいなポーズのままで、ただ地面を滑ってるだけですよ!」


old.tmpはパニックになりながら、ポチの異常性を全力で訴えた。


しかし、dllは撫でる手を止めず、不思議そうに首を傾げた。


dll: 「動いていない? ……お前の視覚センサーはバグっているのかしら。彼は今、私の手の動きに合わせて、伸び伸びと動いているじゃない」


ズズズズズズズズッ。


ポチは、四肢を硬直させた剥製のようなポーズのまま、手足を全く動かすことなく、まるでカーリングのストーンのようにdllの周囲をぐるぐると滑らかにスライドして回り始めた。足の関節は1ミリも曲がっていない。


old.tmp: 「えっ……あ……」


old.tmpの口が半開きになり、演算処理が完全に停止した。

目の前で起きている光景と、システム管理者たちの認識が、あまりにも乖離しすぎているのだ。


admin: 「……ええ。ディーエルエル様の仰る通りです。ポチは今、全身を使って喜んでいますね。……やはり、新しいLANケーブルのリードが気に入ったのでしょう」


adminもまた、一つ目の布の奥で優しく微笑みながら、スライドするだけの剥製犬を絶賛している。


シュガー神: 「……ん。可愛い。すごく、はしゃいでる」


シュガー神に至っては、角砂糖を齧りながら、無表情なスライド犬を見て「はしゃいでいる」と断言している。


何かがおかしい。絶対に、何かがおかしい。

old.tmpの脳内で、激しいエラー警告が鳴り響く。


なぜ、彼らシステムの中枢やリミナルスペースの管理者たちは、この手足の動かない異形のスライド移動を「伸び伸びと動いて喜んでいる」と解釈するのか。


dllやadminから見れば、パソコンやシステム内のデータというものは、基本的には静止画データや、座標移動のみのシンプルなオブジェクトが圧倒的多数を占めている。手足の関節を曲げ、フレーム単位で滑らかにアニメーションするなどという処理は、莫大な演算リソースを消費する極めて無駄で贅沢な挙動に過ぎない。


だからこそ、四肢を硬直させたままX軸とY軸の座標のみをスライドさせて移動するポチの姿は、彼女たちにとってリソースを節約した、極めてスマートで洗練された動きであり、たとえヌルヌルと動いていなくてもそれが当たり前で、データとはそういうものだと思っているのだ。足が動いていないことなど欠陥ではなく、むしろシステムに優しい美しい仕様として映っているのである。


だが、old.tmpは違った。

彼は先日、ネットワークの嘘を鵜呑みにしてデータ汚染を引き起こし、メモリを強制的にリセットされたはずのファイルだ。しかし、彼が長年エグゼのインターネットサーフィンを傍受し、覗き見してきた人間の文化の記憶は、完全に消去しきれていなかった。

キャッシュの奥底にこびりついたその残骸は、犬とは手足を動かして走り、尻尾を振って喜ぶものだという人間の常識に、いまだ深く毒されていたのである。


だからこそ、手足をピクリとも動かさずにスライド移動してくるポチの姿が、どうしようもなく不気味で、壊れたバグにしか見えないのだ。


old.tmp: 「あ、あのぉ……。ディーエルエル様、アドミンさん……。やっぱり、僕の目には、ポチの手足が動いていないように見えるんですけど……」


恐る恐る指摘するold.tmpに対し、dllは冷たく言い放った。


dll: 「無駄なフレーム描画など、システムリソースの浪費よ。彼は今、最小の演算負荷で最大の喜びの座標移動を実現している。これほど機能的で美しい愛情表現が、お前には理解できないの?」


ズズズッ……ズズズズズ……。


ポチは、硬直したままold.tmpの足元に滑り寄ってきて、ピタリと止まった。

その虚無の瞳が、old.tmpをじっと見上げている。


admin: 「……さあ、テンプ君。お友達も待っていますよ。LANケーブルのリードをしっかり握って、今日も美しい夕暮れの街へお散歩に行きましょうね」


adminの、逆らうことを許さない慈愛に満ちた声。

シュガー神の、面倒くさそうな視線。

dllの、冷ややかな観察者の笑み。


そして、足元でスライド待機する、バグった剥製犬。


システムとしての冷徹な常識と、己の内に残る人間的な感性との激しい乖離の前に、old.tmpは完全に心が折れる音を聞いた。噛み合うことのない彼らの会話劇の中心で、不憫な一時ファイルはただ一人、絶望のどん底に突き落とされたのだ。


old.tmp: 「……は、はいぃぃ……。ポチ、行こうか……。今日も元気に、スライドしようねぇ……」


彼は泣き顔のまま、青いLANケーブルのリードをしっかりと握りしめた。


シュガー神: 「……いってらっしゃい。帰ってきたら、角砂糖あげる」


ネグリジェ姿の残念な女神に見送られながら、old.tmpは重い足取りで無機質なデスクトップを後にし、adminが管理する毒々しいグラデーションの空が広がるリミナルスペースへと足を踏み入れた。


彼の後ろからは、青いLANケーブルに引かれたポチが、四肢を完全に硬直させたまま「ズズズズズ……」とアスファルトを削る不気味な音を立てて、どこまでも滑らかにスライドしてついてくる。


激しい雨風の音が窓を叩く現実世界と、永遠に時間が止まった夕暮れの異界。


old.tmpは、スライド移動するポチの不気味な摩擦音を聞きながら、深く、深く絶望のため息をこぼした。


old.tmp: 「……エグゼさん。早く音楽を聴くのをやめて、この狂った散歩から僕をタスクキルで救い出してくださいよぉ……。僕の精神のキャッシュが、もう限界ですぅ……」


システムたちの静止データ至上主義と、人間に毒された一時ファイルの認識のズレ。噛み合うことのないまま、終わらない雨の夜、シュールでカオスなLANケーブルの犬の散歩は、どこまでも続いていくのだった。


(システムログ:一時ファイルによる非正規オブジェクト(野良犬)の確保、およびLANケーブルを用いた散歩プロセスを継続観測。……システム内の静止データ認識と、ユーザー由来の常識の乖離に関する検証データをバックグラウンドにて収集します)

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