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春暁記  作者: 槐
断章

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土井(6-11)

「今川の若殿さまはどうも弱腰だよなぁ」

 白湯を盆にのせて歩いていると、そんな会話が耳に飛び込んできた。

 土井は、同行していた同じ側付きの為井が激怒してその場に踏み込もうとするのを素早く制した。

 「そうだ」「そうだよな」と口々に同意する男たちの数が、思いのほか多い。

 よりにもよって御屋形様にもっとも近いところで、そんな話が出るのか。

 あれは福島家の者たちだ。二木が連れていた者たちではなく、幸松様配下の。

 何故止めると言いたげに振り返った為井に、身振りで首を振る。

 為井は福島家系列の者ではなく、今川家直臣なので、こんなところで平気で軽口を叩いている連中よりは身分が高い。

 叱責する道理はあるし、そもそも幸松様がそれを止めるとは思わない。

 だが、遺恨が残る。

「それに比べて聞いたか、我らが若君の御下知!」

「やはり殿の御子だけあるな」

「実際よく似ておられるし」

「福島家の嫡男が若君でよかった」

 隣で、為井の喉から「ぐぐぐ」とくぐもった怒りの唸り声がこぼれる。

 土井はさらに強く為井を止めた。

 怒りたい気持ちはよくわかる。土井とて同じだ。だがよく見ろ、あれを言っているのは限られた者たちだけだ。

 不快そうな表情の奴らのほうが多いだろう?

 だがこれでよくわかった。福島家の中での、御屋形様をけなし幸松様を持ち上げる風潮は、特定の何者かが作為的に行っている事だ。

 許される事ではない。これが公になってしまえば、幸松様の進退にも障るだろう。

 幸松様ご自身が御屋形様に心酔しており、兄弟仲が良好だということが傍目にもわかるから、これまでこの問題が表沙汰になってこなかった。

 だが、御屋形様はこの状況をよくご存じだ。

 放置して見守っておられるのは、期す所があるからに違いない。

 おそらくは自浄作用を信じておられるのだと思う。

 実際、不敬だと窘めている者もいるし、土井らが足を止めた集まりの会話はすぐに別のことにかわった。


 土井は為井を促して、再び歩き始めた。

 伝わってくる不服と、ピリピリとした怒りに、「同じ気持ちだ」と口に出して返したいところを堪えた。

 為井が側付きになって二年だ。

 最初の頃は、この男も御屋形様に対して隔意が見てとれた。

 だがお側近くに侍るようになり、すぐに察しただろう? 幼い見た目を侮ってはならない。あの御方は、すべてをわかっておられる。

 我らが不用意に起こす騒ぎが、お考えの邪魔になってはならない。

 居室の近くまで来たところで、忍びの気配を感じた。

 わざとこちらにわかるようにしてくれているのだ。

 土井はそちらに目だけを向けて、警備に異常がない事を確認しあった。

 護衛班の市村が、廊下で控えている事に気づく。そろそろ夜番との交代の刻限か。

 普段は気のいい笑顔を返してくる市村が、思いのほか真顔で室内を見ている事に気づいた。


 市村の隣をすり抜け、入り口すぐのところで控える三浦殿の隣に腰を下ろした。

 盆を脇に置き、その場の空気を読んで、無言で皆が見ている方向に目を向ける。

 生暖かい風が吹く夜だった。

 その後ろ姿は、夜の暗さに溶け込んでしまいそうに頼りなく、同時に闇からくっきりと浮き上がっているようにも見えた。

 月の光が差し込む。強い光ではない。

 虚空に差し伸べた白い手の動きが、まるでその月を手招いているようだった。

「……月に届きそうですか」

 ここで声を掛けた三浦の胆力に感心する。

 誰もが息を飲んで見守る中、月をつかみ取るかのような仕草をした御屋形様が、こちらに背中を向けたまま小さく息を吐いた。

「そうよな」

 ざわり、と荒い風が吹き込んできた。

「どうすればよいかはわかっているが……簡単ではない」

 じわりと汗がにじむほどの温かさなのに、背筋が震えた。

 この御方の慎重さの意味を、弱腰とうそぶいた連中には理解できまい。

 正直な所、もっと大軍を率いて来ていれば、信濃の国衆など物の数ではなかった。

 だが、その目が見据えておられるのは、もっと遠くの大きなものだ。

 近場をうろつく有象無象など、刀の錆にもならぬとお思いだろう。

 乱世で「月」を掴むために必要なのは、局地の戦いに勝利することではない。

 月明かりを浴びるその背中が、やけにくっきりと頼もしく見えた。

 楽ではない「月」への道を、ともに歩めることが誇らしかった。

「はい」

 土井が声を上げるより先に、三浦殿がはっきりとした口調で応えを返した。

 先を越されたと感じたのは、土井だけではないだろう。

「何なりとお命じ下さい」

 振り返った小さな御顔が、淡い苦笑を刻んだ。

 苦難の道をともに歩く。そう決意するのは難しい事ではなかった。

 この御方のことは、もっとずっと幼いころから見守ってきた。

 その覇道をつぶさに目にすることができるのなら、それが土井がこの世に生まれてきた意味そのものなのだろう。


 さして広くもない部屋の半分に、ぼんやりとした月の光が差し込んでいる。

 縁側寄りに座っておられる御屋形様のお姿だけが、薄暗い夜の闇から浮き上がって見える。

 一斉に頭を下げた同輩たちは、きっと土井と同じ思いでいるだろう。

 この場の記憶は終生忘れることはあるまい。

 「月」を掴もうとしておられた。

 そのための道があると、初めて我らに示されたのだ。

そもそも、「今川の若殿様」と呼ぶのは間違いです

孫九郎君は「若殿」ではないので

ですが下々は、そんな細かなことはわかりません

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― 新着の感想 ―
で、いつもの様に甘くして放置したツケで弟が死ぬんだろうなぁ。 無自覚に残忍な主人公。
[一言] ……なんというか、こう、本人の内面とのギャップがw 今回だけじゃないんだけど、ずっとまわりとあるのがよすぎるw
[一言] 幸松の配下の言動は、孫九郎に不満のある家臣や長綱(幻庵)等他国の流言や離間の策を疑うレベルですね。 前世のモンペの対応等の経験か、そういったことを余り気にしない泰然とした姿が、有象無象を歯牙…
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