飯富(6-9)
不覚。
飯富は焼けつくような痛みに歯を食いしばり、何とか意識を保とうとした。
動きの邪魔になるからと矢を抜いたのは失敗だった。
血が止まらない。
御屋形様を逃がすために、殿をかって出た。御無事であればそれでよい。ただ、自身がこのような所で進むも退くもできぬ有様になり果てるとは、想像もしていなかった。
強さだけを信じて生きてきた飯富にとって、敗北は死を意味する。
つまりはここで死ぬのか?
出血と同時に、吹き付けてくる雨が体力を奪っていく。
次第に視界が狭まり、上手く息も吸えなくなってくる。
……いや、そんなはずはない。
迫りくる敵の気配に本能で抗い、握りしめた槍を振る。
柄が血と脂でぬるりと滑り、深手を負わせるまでも行かなかったのが分かった。
両足を踏ん張ることも、腕に力を込める事も出来ない。
身体が傾いてくるのを感じてはいたが、木の幹で支えるにも限界があって、次第に自身が立っているのか斜めになっているのかもわからなくなってきた。
いつの間にか、手から槍が滑り落ちていた。
武士として、主君を守る事ができたのなら本望だ。
死ぬのもやむ無しと、薄れゆく意識で最期の時を迎えようとしていたその時。
「……おまえさま」
どこかから柔らかな妻の声が聞こえた。
あたりまえだが、こんなところで聞こえるはずはない。空耳だとわかっていても、諦めに支配されかけていた意識が、一瞬にして現に引き戻された。
まだ死ぬわけにはいかない。
強い信念で閉じかけていた瞼を持ち上げたその時、闇の中の豪雨に紛れて、ゴゴゴと地鳴りが聞こえた。
生き延びるのだという強い信念よりも、たった一瞬、身体を起こしたことによる体幹のブレが命運を分けた。
山の斜面から無数の木が滑り落ちてくる。地崩れか? ……いや違う。
豪雨の真夜中、それをよけきることは難しく、飯富の意識はそこで刈り取られた。
それほど長く意識を失っていたわけではない。
まだ顔に豪雨が打ち付け、戦場の生臭い臭いが周囲を取り巻いている。
強い土と草の臭いを察知して、飛び起きようとして、矢傷と身体のあちこちを打ち付けた激痛とで、捕縛されたのだと察した。
なんとか逃れようと周囲を見回す。
目に飛び込んできたのは、大量の丸太と、それに押しつぶされた武田兵の惨状だ。
ぐいと顔を起こされて、両手は縄で動かせなくてもせめて噛みついてやろうとして、湿った布が咥内一杯に詰められている事に気づいた。
「……か?」
豪雨の音に紛れて、今川兵が何かを言っているが聞き取れない。
いや、ゴウゴウと激しい騒音に、時折キーンという耳鳴りも交じるから、耳がおかしくなっているのかもしれない。
身体を無理やり起こされて、酷い眩暈で視界がぐらんぐらんと回った。
こんな風に、なすすべもなく乱暴に扱われたことなどこれまでなかった。
擦り切れそうな意識を保てたのは、強い屈辱感と怒りがあったからだ。
まっすぐに体を保てない。耳もろくに聞こえない。視界もひどく狭く、その上暗い。
どこかを致命的に悪くしたに違いない。
飯富は、必死にあがきもがいた。
激しい痛みが全身に及び、意識が朦朧とする。
止血をしなければ命にかかわるとわかっていても、抵抗をやめることはなかった。
このままの状態で生き延びてしまうのではないか。
敵の手でむざむざと生き永らえさせられるのではないか。
それは飯富にとって、死ぬこと以上の恐怖であり、武士としての誇りにかかわる問題だった。
絶対に屈しない。
そんな思いを保つことができたのは、一夜明けた頃までだ。
矢傷を焼かれて、その痛みで意識を失っていた間に、何かが変わったのを感じた。
目をあける。うつぶせにされた身体は動かない。
飯富は自身の視界が、やけに明瞭だということに初めて気づいた。
必死に状況を理解しようと努めるが、まだ痛みの方が優位だった。
矢傷を焼かれたときにはまだ周囲は暗かったが、既に日は昇ったようだ。どれぐらい時間が経ったのだろう。
声が聞こえた。
それが場違いに甲高い子供のものだと察した瞬間、ゾッとする恐怖で全身が震えた。
うつぶせの状態から見えるのは、限られた範囲のみだ。視線を巡らせることは難しく、近づいてくるその姿から距離を取れないのが恐ろしい。
「噛みつく相手を見極める目を持たねば、食われて仕舞いだぞ」
歌うような軽やかな口調だった。
年少の子供の声だ。無邪気にもとれる、優し気な口調。
「聞かれたことに答えれば、機会をやろう」
それなのに、全身の震えが止まらない。
じっと見つめられ、何を思ったかこちらに手を伸ばしてきた。
やめろ。何をする気だ。
ほっそりとした小さな手が、飯富の無精ひげで覆われた顔に触れた。
ひんやりとした、氷のような手だった。
本能的に逃げようとしたが、ガン! と強めに背中を踏みなおされた。
あばらと背骨が嫌な音を立てて軋む。
火傷になった矢傷も激しく痛むはずなのに、身体への苦痛よりも目前の存在から少しでも離れたい気持ちの方が勝った。
―――いっそもう殺してくれ!
はっきりそう思った瞬間、冷や水を浴びせかけられたような気がした。
こんなに非力そうな子供に対して、「殺してくれ」などと思ってしまった自身が許せなかった。
「其の方を殺しても、逆に救うても、我らにはまったく利がない。いやいずれ武田に戻って今川に敵対されるのは困るな。足でも落としておけばよいだろうか」
飯富にとって、武士としての誇りは何よりも大切だ。
強さが正義であり、戦って五体満足で生き延びる事こそが至上だった。
ようやく理性が本能に追いついてきて、思考が正常に動き始める。
まずは、目の前のこの子どもが、飯富の命を握っている事実を飲み込まなければならなかった。
どうしてこんなことになったのだと、込み上げてくる屈辱感に震える。
「手足をもいでから籠にでもいれて、武田が乱取りをした村を回らせてもよいな」
じいっと見据えてくる目は、先程触れた指先同様、氷のように冷たかった。
非力そうな子供ではなく、実際に非力に違いないのに、この威圧感は何だ。
「我らに逆らうたびに指を一本づつ潰すよう命じておくから、おとなしくすることだ」
凝視した唇がゆっくりと弧を描き、「ふふふ」と軽やかな含み笑いを漏らす。
「指は手足全部で二十本ある。何本欠けたら刀が握れぬようになるだろうな」
目の前で広げられた五本の指が、挑発するように振られた。
まるで、子供が遊びを提案しているかのようだった。
二本の指が近づいてくる。
ああ、目を抉る気か。
心に過ったのは恐怖と……諦観。
目の前の子供は、ただの子供などではない。
飯富の命など、片手間に握りつぶすことができる存在だ。
今更そんな事に気づき、最期に見るのがこの顔だという事に絶望した。
この後、何故か目をえぐられもせず生き延びて、丁寧に手当てをされ、着替えや食事ももらい、扇子も餞別にもらい受けて、野に放たれるわけです
きっと飯富の頭の中は、大量の「???」でいっぱいだったでしょう




