安中(7-3~7-7)
寡兵で挑む相手ではない。
そのことはわかっていたが、今回に関して安中の進言は通らなかった。
夜半、千曲川を渡る五百の兵を見送って、込み上げてくる嫌な予感に顔をしかめた。
さほど時を置かず、ドーンドーンと陣太鼓の音が聞こえてくる。やはり夜襲は予期されていたようだ。
対岸からでも、敵が陣太鼓に合わせて動いているのはわかるのだが、こちらの兵らはそれに対処できていない。
今川軍がどういう相手かという事は、昼間接敵した時にはわかっていた。
熟練した操兵をしてくる軍団だ。細かな動きで陣形を変え、こちらの猛攻をかわしつつ、しかもその動きに迷いがない。
ぶつかった直後に警戒心が沸き起こり、様子を見るよう慎重にと進言したが、それは相手も同じことだった。
削れない。
勝ち負けという決定打にまで持って行けない。
佐久衆が日和見をして……というよりも、今川の味方をしているのはわかっていた。
背後を突くようにと要請したのに、一定の間隔をあけて用心深く進み、距離を詰めようとしないからだ。
そもそも、書面で指示したように動かず、じりじりと別方向に進んでいるのは、村上軍を横から突こうという腹だろう。
そんな危惧が、いつものような特攻を控えさせた。
村上軍にとっては、過去経験した事のない類の戦いだった。
ここだと攻めてもひらりとかわされ、突出したところには例外なく伏兵がいる。
どういうことだとうちの将兵が混乱してしまうのはやむを得ず、時が進むにつれどんどんと指示が通りにくくなる。
相手が本気で掛かってこないというのも、大いに問題だった。
決着がつかないのだ。
それは、戦いの場を夜にしたところで変わらなかった。
奇襲は待ち構えられていれば奇襲にならない。
戦いは再び昼間と似たような展開に……いや、それよりもなお悪い。
無防備に見える本陣に槍先が触れることはなく、奇襲部隊の五百がぐるっと一周囲まれそうになっていた。
これはまずい。
あの部隊の将は殿の義兄でもある山内殿だ。
急いで撤退を進言しようとした。
おそらく、その時までなら動きが取れた。
陣太鼓の乱れ打ちが、今川軍の渡河の合図だというのはすぐに分かった。
さらに悪い事に、おかしな動きをしていた佐久衆が、いまだ村上に抵抗の姿勢を見せていた根津城に入ったという知らせが届いた。
それらの報告を受けた時の殿の憤怒の面相は、見慣れている周囲の者たちですら震え上がるほどのものだった。
安中は、対岸を見据えて低く唸っている殿の顔をちらりと見上げた。
きっとひどい血の雨が降る。
敵対した今川軍と海野らに同情すらしていた。……その時は。
和睦の話し合いは形だけで、山内殿を取り戻したらすぐにも再戦になるはずだった。
だが、いったんの交渉に出向いた安中は、今川本陣の全容を視界に入れた瞬間に、顔が引きつりそうになった。
ちょっとこれは……大丈夫か?
ぱちくりと目を見開いている「ちんまいの」から目を逸らせない。
今川の新当主が来ていると聞いた時には、話半分にしか思わなかった。
御大層な噂が先行しているが、所詮はまだ数え十二の子供だ。きっと優秀な側近が作り上げた神輿だろうと信じて疑わなかったが……これは別の意味でマズい。
武骨な武士たちを従え、何事か側近に耳打ちしているのは、小具足姿の幼げな少年。
安中に稚児趣味の気はないし、殿などむしろそういうのを嫌悪しているので、村上軍では子供が行軍に同行することはない。
だが、今川本陣の中央にいるのは、こんなところにいるべきではない幼い子供だった。
これはどうするべきだ?
むくつけき荒武者ぞろいの村上兵たちは、小さくて可愛らしいものにてんで弱いのだ。
特に我が殿は小動物に目がない。毎年のようにぶ厚い手のひらで小鳥の雛を巣に戻しているし、城に迷い込んだ子犬に米のとぎ汁を飲ませる姿を何度も目にしている。
いったん敵とみなせば容赦のない鬼武者となる男たちだが、力のない、小さい、特に幼い子供に対しては、むしろ勝てないまである。
今川の若い当主は、既に元服も済ませ、周辺諸国に名もとどろかせた御方だ。
十二という年齢は聞いていたが、こんなにも……ええい、まずいぞ。
小具足姿があまり似合っておらず、腰に差している小刀ですら大きすぎる。
誰だこんな子供を戦場に出したのは。もっと後方に置くべきだろう!
あまりにも衝撃的な邂逅だった。
安中はもはや己が何を喋っているのかもわからない体たらくだったが、方々から向けられた厳しい視線に、ようやく冷静になりつつあった。
こちらを見ている幼い少年の、致命的に小具足が似合わない小さな姿かたち。真正面から見てはまともに交渉ができる気がしない。
十二歳? これで?
村上一族の子供たちなら倍……とまでは行かなくとも、少なくともあの子の隣で偉そうにしている鎧を着た子ぐらいはあるぞ。
にこやかというには引きつった笑みを顔に張り付け、こんな有様を敵方に知られるわけにはいかないと、気を引き締めて丁寧な態度を保つ。
冷静さを幾らか取り戻した目で見ると、周囲の大人たちは見慣れた空気を漂わせた武士たちで、むしろそのことに安堵した。
その時安中は悟った。
我が村上軍は、向かうところ敵なしの勇猛果敢さを誇ると思っていたが、違う。
全軍を幼い子供で構成された軍勢がもしあるとすれば、きっと誰も戦えなくて負けるのだろう。
やけに苛立たし気な口調で話している「ちんまいの」に臆しながら、このたじろぎに気づかれませんようにと切に願った。
如才ない、大人な対応をしてくる安中殿……w




