9-3 遠江 掛川城
厄介事が追いかけてくる。
掛川城に到着した孫九郎を出迎えたのは、伊豆からの急使だった。
北条が江戸城を奪還した。江戸城だけではなく、関東平野を北へ勢力を広げつつあるそうだ。
二年たっても伊豆を抑えきれない今川が、そこから東へ進んでくることはないと判断したのだろう。
「小田原ががら空きだから攻めたら駄目?(意訳)」と書かれた書簡を握りしめ、目頭をぐいぐいと揉む。
北条とはいつか戦わなければならないだろう。まだ勢力を伸ばしていないうちに叩くべきだという意見はわかる。
だが、伊豆ですら抑えきれずにいるのに、さらにその先に出兵するべきではない。
下手をすれば兵が分断され、大きな被害が出るだろう。
そんなことは承菊にもわかるはずだが、目の前にぶら下げられた餌(小田原)がよほど魅力的に見えるのか。
「絶対やめて(意訳)」と返書をしたため、伝令に渡す。
おそらくだが、駿河に戻るところがないと察した旧駿河衆が、また欲を出してより広い領土を望んでいるのだろう。
そろそろわかってくれても良さそうなのだが、現在の今川家においては、新たに領土を拡大した場合においてそこを誰に任せるかの権限は孫九郎にある。
たとえば駿東に朝比奈家を置いたり、吉田城に井伊家を置いたり。
旧自領を離れての移封を命じているのにも理由があって、たとえば伊豆にいる旧駿河衆が相模を切り取った所で、彼らにその土地を与えるわけではない。
そのあたりをまったく理解していない連中の好き勝手な言い分に、もういっそ暴れ馬を解き放ってみては? という承菊の提案なのだろうが、それはちょっとまだ早い。
せめて 足元(伊豆)を確固としたものにしてからだ。
そのほかにも諸々の指示待ちがあった。今川館を離れていたのはたったの半月ほどなのに、すでにもう仕事が掛川まで追いかけてきている。
その点幸松は幸運だ。父が不在なので、本来なら幸松が決裁することも多いはずなのだが、まだ元服前だという事と、ここには志郎衛門叔父という超有能なブレーンがいる。
大概のことは幸松のところまで行かずに片付くそうで、二、三の書類に代理の署名をしただけで仕事は片付いた。
なんてうらやましい。
「兄上様!」
パシン! と勢いよく障子が開け放たれた。
「幸も駿府へ行きたいです!」
「幸ッ」
確かに無作法な登場ではあったが、それに不快の表情を浮かべたのは幸松だけだ。
おおむね孫九郎の側付きたちは幸に対して好意的で、あの谷ですらまるで子猫を見るような目をしている。
「いつも兄上だけずるいですっ」
幸松の怒声にも怯まず、鮮やかな萌葱色の小袖を着た幸が大声で言い返した。
孫九郎は言い合いを始めた弟妹に苦笑した。
幸松の幸へのあたりは強いが、幸の方はまったく気にしていない。
一見ギスギスした仲のようにも見えるが、この二人がそれほど互いを嫌っているわけではないと知っている。
「兄上はお忙しいのだ!」
「そのようなことはわかっておりますっ」
「ならば邪魔をするでない!」
「邪魔などしておりませぬ!」
さすがに取っ組み合いをする事はないが、幸松も幸も引かない。
孫九郎はやれやれとため息をつき、大柄な二人の頭をそれぞれ撫でた。
「ひと仕事終わった所だ。散策にでも参るか」
「はい!」
先に返事をしたのは幸で、幸松が非常に悔しそうな顔をした。
今回の信濃行きで、随分頼もしくなったものだと思っていたが、こういうところはまだまだ幼い。
散策するといっても部屋の前の庭園だ。
とはいえ美しく整備された庭は見ごたえがあって、色づきはじめた紫陽花の青と深みを増した深緑とが鮮やかだ。
なおも言い合いを繰り広げる二人を従えて歩いていると、方々から視線を感じる。
中には若干気になるものも交じっているが、おおむね好意的なものだ。
この子たちを箱庭に閉じ込めようとは思わないが、できるなら悪意のない幸せな世界で生きてほしいと願っている。
そのために何をすればいいのだろう。
今川は強くなったが、盤石とはいえない。
国境はどこも落ち着いているとはいいがたく、油断ができる状況ではない。
「見てください! 赤い鯉がいるのです!」
幸のはしゃぐ声に微笑を返す。
今の今まで喧嘩をしていた二人が、並んで池を覗き込む様子が微笑ましい。
ふわりと薬草の匂いがして、視線を足元に向けると、片膝をついた弥太郎が控えていた。
わざわざこの場にいる事を主張してきたのは、何か用事があるからだろう。
急ぎの用だろうか。そうでないなら、せめて散策が終わるまで待ってくれたはずだ。
孫九郎は、ゆっくりさせてもらえない自身の立場を嘆きながらも、だからこそこの腕を広げて二人を、いや二人だけではなく皆を守れるのだと思いなおした。
弥太郎の報告に頷きを返し、二言三言指示を出して顔を上げると、弟妹が揃ってこちらを見ていた。
すまんな、仕事が追いかけてくるんだ。
気兼ねしている彼らに微笑を返すと、ふたりはそろってパッと破顔した。
「兄上様!」
駆け寄ってくる幸と、それに一瞬唇を尖らせる幸松。
「駿府の福島屋敷にいる鯉が、ずいぶん大きくなったと聞きます! 見に行きたいです!」
「図々しい真似をするな!」
「図々しいのは兄上ではありませんか!」
「なんだと」
「兄上だけ駿府に行くなどずるうございます」
今度はずるい、ずるくないと言い合いを始めた二人は、きっとこれで「仲が良い」のだろう。
孫九郎は目を細め、この平和な時間が永遠に続いてくれることを切に願った。
春暁記本編はここまでです
じわじわとよからぬ状況が迫ってくる風エンド
甲斐方面はまだやりあっています
続いて断章に入ります




