9-2 遠江 国境砦
あと少しで、遠江国境が見えてくる。
ようやくここまで戻ってくることができたと、思いのほか長くなってしまった旅路を思い返しながら安堵の息を吐いた。
帰路では特筆する問題は起こらず、今川軍は順調に行軍を進めていた。
ゆっくりと馬に揺られながら、叔父と並んで街道を進む。
「……本当によいのでしょうか」
源九郎叔父の戸惑った表情に笑顔を向け、「もちろん」と返す。
源九郎叔父には福島姓に戻ってもらい、高天神城を任せることにした。
当初は渋沢に任せようとしたのだが、丁重にお断りされて、城主の席が二年間宙に浮いていたのだ。
ちなみに渋沢は前線希望だそうだ。槍働きをしたいからといって、主城を前線にする必要は全くないのに、意志は固かった。
人の考えは色々だから無理強いは出来ない。そのうち嫁でも貰えば落ち着くだろう。
……そう思ったのは二年前だが、いまだに独身で、家臣を引き連れ戦場を渡り歩いている。おかげで渋沢家の妻帯者率がひどいことになっているそうだ。
ポストはあるのに座りたがらない理由って、まさか「女に追いかけまわされたくないから」じゃないよな?
「砦が見えてきました」
もやの掛かった山間。川岸に連なるようにして遠江国境の砦が並んでいる。
こうやって見ると、けっこう威圧感のある建築物だ。
木造だが、まるで要塞のような物々しい外郭から、今川家の旗が幾筋もたなびいていた。
「……お出迎えのようですよ」
そう言ったのは、すぐ後方で馬に揺られていた藤次郎だ。
孫九郎は深くため息をついて、「そのようだ」と肩を落とした。
わらわらと砦から兵たちが飛び出してくる。もちろん敵対行動なわけではなく、熱烈な出迎えだった。
「御屋形様っ!」
悲鳴のような声。いや号泣だ。
砦から飛び出し、先頭切って走ってきたのは、この二年でめっきり苦労性のしわが顔に張り付いてしまった奥平だ。
何でここにいるんだ。今川館で文官を率いて仕事をしているんじゃなかったのか?
え? まって。この男がここにいるという事は、事務仕事をすべて放り投げてきたってことじゃないのか? もしかしなくとも、今川館に戻ったら仕事が山積み⁈
「よくぞご無事でええぇぇっ」
せっかくのナイスミドルが見る影もない。ボロボロと涙をこぼしながら駆け寄ってきて、孫九郎の足に縋りつこうとした。
一斉に、戦場でも落ち着き払っていた軍馬たちが足取りを乱した。
驚いたとか興奮したとかではなく、単純に嫌だったんだろう。……わかるぞ。
顔を拭けよ。鼻水出てるって。
奥平はもう離さないとばかりに孫九郎の脛にしがみつき、更に号泣した。
だから鼻水!
全軍が国境を越え、砦に入ったのは日暮れ過ぎだった。
迎え入れてくれた天野殿の嫡男の、生暖かい微笑がつらい。
「ご無事でようございました。ご活躍については伺っております」
何をどんなふうに聞いたのだろう。
もう武田の敗走や海野平の戦いについて噂が出回っているのだろうか。
いや違うな、噂が回るのは早いとはいえ、こんな山奥の砦にまで届く訳がない。先行していた兵が話したのだろう。
「変わりなかったか」
天野殿の問いかけに、見た目まったく似ていない嫡男は「はい」と頷いた。
「父上がうらやましい。某もお供しとうございました」
「砦を守るのは重要な勤めだぞ」
父親らしくそう言う天野殿だが、どことなしか楽しそうに見える。
そんな親子のやり取りを見ていると、甲斐戦線にいる父に無性に会いたくなってきた。
だが……行かせてはくれないんだろうな。
ちらりと見た奥平は、もう二度と目を離さないとばかりに孫九郎に注視している。
それは、濯ぎ用の盥に足を突っ込んでいる間もそうで、むしろ小姓に交じって足を拭こうとしてきたので、それは丁寧にお断りしておいた。
「それで。其の方が砦にまで来たのには理由があるのだろう」
無事を確認してすぐ口にしなかったのは、人目があるからか。あるいは急ぎではないからか。
その日は砦に一泊することになり、落ち着いたところでそう尋ねると、奥平は瞬き数回分の間、言われた意味が分からないという顔をして、それから「ああ!」と思い出したように懐に手を突っ込んだ。
「松平の内紛です」
取り出されたのは若干しわのついた書簡で、文字に見覚えがあった。松平の翁からだ。それに、ところどころに見えるシミは……
「……血か」
「援軍要請です」
どうやら京で出会ったあの少年が病で寝込んでいるうちに、翁にとっての息子、少年にとっての叔父にあたる人物が織田と結んだらしい。
織田・松平と聞くと、嫌な予感しかしない。そこが結ぶと厄介の種になるのではないか。
ともあれ現状、翁が負傷、あの少年が病を押して兵を指揮しているそうだ。
え? そこに口を挟めと?
松平が今川に臣従するというのならそれもいいが、絶対違うだろうし。
「井伊殿と勘助は何と言っている」
「放置でよいと」
だったらそれでいいんじゃないか?
孫九郎は一通り書簡に目を通し、読まなければよかったと顔をしかめた。
先だっての美濃からの亡命希望と同じで、父との婚姻の件で「友誼を得た」のだそうだ。
この時代では、見合い話が持ち上がっただけで友達面できるのか?
だったら方々で見合いをすれば、方々から援軍を呼べるんじゃないか?
「それからこちらも」
奥平が懐に手を突っ込み、まだ何か出そうとしていたので、血痕のついた書簡をたたみ直した。
「……ずいぶん多いが」
ごっそり束になった書簡を差し出されて、嫌な予感がした。
どうぞどうぞと押し付けられたのは、大量の釣書だ。
……本題はこっちか。
「断れない縁談が舞い込む前に、早めに決められた方がよろしいかと存じます」
「そんな予兆があるのか?」
「御正室の座を巡って、どこぞで戦が起こる前に」
真顔で冗談を言うのはやめてほしい。
孫九郎は身震いし、渋沢の気持ちがちょっとだけわかった気がした。




